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「それで彼らは自分たちが裸であることを知った。

2014年09月14日 16時11分14秒 | 聖書

そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った」(創世記3:7)

 人は裸で生まれて来た。裸自体は罪ではない。
エデンの園ではアダムもエバも裸であった。
しかし、罪が入って来た時、裸が恥となった。
汚れた思いなしに見られなくなったからだ。
それで自分の恥を隠すために、いちじくの葉をつづり合わせておおいを作った。
私達の姿だ。
罪の恥を隠すために取り繕う。
とにかく隠しておきたい。
人に知られたくない。
そのために嘘をつき、相手のせい、状況のせいにする。
体裁、体面を恐れて隠すのだ。
神が悔い改めの機会を与えようと「あなたはどこにいるのか」と問いかけられた。
「ごめんなさい」を引き出そうとして「あなたは…食べたのか」と問うて下さった。
「ごめんなさい。食べました」と罪を認めれば良かったが、責任転嫁して行った。
アダムはエバに、更にエバを置いた神が悪いと、神を責めて行く。
エバは蛇に責任転嫁した。罪の姿だ。
自分の罪であるのに、自分を被害者にし、相手を責める。
ましてや、その状況を作った神が悪いとなる。
どこまでも罪深い。自分の内にこのようなパタンはないか。
罪の性質は、必ず罪を認めず人のせいにする。
罪を認める時、完全な罪の赦しが臨む。
真正面から罪を認めよう。
悔い改める事が、その罪に責任を取る事だ。
その時、完全な赦しが臨む。
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自分の罪をするりとかわして被害者になる。
人を責めている方が楽だろうか。
私達はそうであってはならない。
見るべきものはいつも自分の内にある罪だ。
そこを認めなければいつまでも成長もなく苦しい。


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