作家の水上勉が奥能登の紀行文を残している。輪島に着き、富士屋という宿を訪ね、2階の部屋に通され外を眺めると露地を挟んで人家がひしめきあっていた▼その一軒の2階の部屋では、60歳近くに見える夫婦が、鳥の羽毛のようなもので木片を一心に拭いている。輪島塗の下地を作る「木地屋さん」だと旅館の人に教わる。<きけば、輪島には、この種のうす暗い二階で仕事をする木地屋とか、沈金師とか、蒔絵(まきえ)師や大工などが無数にあるということであった>▼郷土史に詳しい地元の藤平朝雄さんによると富士屋は廃業して久しい。場所は朝市通り近く。水上が見た風景は、先の能登半島地震の火災で焼けた朝市通り周辺のありし日の姿らしい▼多くの輪島塗職人も被災した地震の発生から半年。朝市通りに近い自宅兼工房が焼けた40代夫婦が、仮設住宅で仕事を再開した話を最近の記事で読んだ▼輪島塗の木の加工、塗りなど全ての作業を担う夫婦。各工程の分業が一般的な輪島では珍しい。道具も焼けたが、各地の元職人らが譲ってくれた。「先が見えない」と不安を口にしつつ仕事は「生きがい」と言う。憂えながらも前を向く姿が尊い▼水上は黙々と仕事をする木地屋にひかれたらしく、こう書いている。<無心に働いている中老の夫婦の像はいつまでも頭にのこったのだ>。無心の作業が紡いできた伝統は途切れまい。
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