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今日の筆洗

2020年07月14日 | Weblog

 少年が学校から帰り、自分の部屋をガラッと開けると、見知らぬ老人が布団を敷いて昼寝をしていた。不条理芝居の滑り出しみたいだが、実話である。少年の部屋で寝ていたのは歌人の斎藤茂吉。父親が茂吉の結社「アララギ」の会員だった関係から家に寄ったのだろう▼「おお君の部屋を借りたよ」。そう声を掛けられた少年はやがて歌人となり、戦後の短歌界をけん引する。歌人の岡井隆さんが亡くなった。九十二歳。名古屋出身。あの少年である▼大戦後、短歌は危機にあった。敗戦のショックが大きかったのだろう。短歌ではなく別の方向に進まなければ日本は文化的に生き残れないのではないか。日本伝統の短詩型そのものを否

 

定する意見もあった▼岡井さん、塚本邦雄、寺山修司が担った前衛短歌運動とは短歌滅亡論への疑問と反抗だった。実験的な比喩表現や虚構性。短歌の新たな可能性を模索し続けた。歌壇には「前衛狩り」の風潮もあったが、結果として岡井さんたちの試みは混乱期の短歌を救ったと言える▼<海こえてかなしき婚をあせりたる権力のやわらかき部分見ゆ>。かなしき婚とは一九六〇年の日米安保改定だろう。歌の強さ、鋭さは後の世代から見てもまぶしい▼本紙ではコラム「けさのことば」を長く連載していただいた。愉(たの)しみの半面、博識と内容の深さに、同じコラム書きは毎度ため息をついた

 前衛短歌運動の旗手として知られ、戦後の短歌界をけん引した歌人の岡井隆さんが10日午後零時26分、心不全のため死去した。92歳。名古屋市出身。自宅は東京都武蔵野市。葬儀・告別式は近親者のみで行う。後日、お別れの会を開く予定。
 「アララギ」会員だった父の影響を受け、旧制第八高等学校(現名古屋大)在学中の17歳から作歌を開始。「アララギ」に入会し、故土屋文明氏の選歌を受ける。
 慶応大医学部在学中の1951年、故近藤芳美さんらとともに歌誌「未来」を創刊、中心的存在として編集に携わった。卒業後の56年、北里研究所付属病院に内科医として勤務しながら第一歌集「斉唱」を出版。繊細で感受性豊かな叙情歌で注目を集めた。
 やがて故塚本邦雄氏の影響で作風が一変。伝統的短歌の刷新と、左翼性や社会性の導入を特徴とする前衛短歌運動を推し進めた。
 61年発表の第二歌集「土地よ、痛みを負え」では、聞き慣れたリズムの破壊、記号の多用など、さまざまな新しい表現法を試行。前衛短歌運動を代表する歌集と称された。
 70年に突如、歌作を中断し、九州へ。その後、愛知県豊橋市に移り、国立豊橋病院(当時)で内科医長を務める傍ら復活歌集となる「鵞卵がらん亭」を出した。
 83年に「禁忌と好色」で迢空ちょうくう賞を受賞。90年に中日文化賞、斎藤茂吉短歌文学賞、95年現代短歌大賞、99年詩歌文学館賞などを次々に受賞。斎藤茂吉や正岡子規らの研究にも力を注いだ。
 2002年から14年まで本紙で「けさのことば」を連載。本紙グループの中日新聞「中日歌壇」の選者を83年から30年以上務めた。93年から宮中歌会始選者、2007年には皇族に和歌を指導する宮内庁御用掛ごようがかりになった。社会派として活動してきた歌人が宮中行事に参加することは大きな議論を呼んだ。

現代歌人協会理事長の歌人・栗木京子「短歌の可能性を信じ」

 新しい潮流にいち早く身を投じて自分の栄養にする。短歌の可能性を信じ、どう発展させていくのかを身をもって体現していた。結社は違ったが、同じ名古屋市出身というつながりもあり、仲間同士で開く歌会には何度も参加してもらった。若手の批評にも、うれしそうに耳を傾けていたのが印象に残っている。人間と短歌を心から愛している方だった。

本紙「東京歌壇」選者、東直子さん「常に新しいもの求め」

 30年ほど前、月刊誌に投稿していた短歌を本格的に勉強したいと思い、岡井さんに師事した。岡井さんの歌会はとても自由な感じで、若者が多く集まった。前衛歌人らしい豊潤なイメージと、それらをつなぎ合わせる実験性などで影響を受けた。岡井さんも若い人の歌集ににこにこしながら意見を言ったりと、常に新しいものを取り入れようとしていた。お声もすてきで、自作朗読が楽しみだった。まだお亡くなりになられたとは信じられない。
 

 

 


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