『知足日記』

『知足』とは、『生かされて、生きている』・『必要な物、必要な経験は与えられている』・『すべて必要。すべて良し』と知ること

【2556】自分とは、過去の「思い」を編集して生きる、今の思いの連続性。       

2010-04-11 08:49:46 | 思索
【2556】「自分」とは、過去の「思い」を編集して生きる、今の思いの連続性という意味で、「自分は神」     

この記事のタイトルの全文は下記です。(字数の制限がありました)

【「自分」とは、過去の「思い」を編集して生きる、今の思いの連続性という意味で、「自分は神」】  


最近、考えていることを書いてみます。(^^;ゞ
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★すべては、『自分の「今の思い」』。 

すべては、『私の心が、今、思っていること』。

と書いてみて、文章の意味が通じないことに気付きました。(^^;ゞ


「すべて」が、何を示すのかが不明であると思いました。(^^;ゞ

「すべて」とは、何か?

物質のすべてか? 宇宙のすべてか? 存在のすべてか?

「すべて」とは、何か?

「すべて」を、言葉で表すことが出来ないと気付きました。(^^;ゞ


★それで、【人間は、「あらゆる物事」を、『自分の思い』で編集して生きている】

と書き換えてみました。


★「あらゆる物事」とは、自分の心が捉えた「あらゆる物事」です。

私たちは、外界の「あらゆる物事(事象)」を「自分の心」で編集して生きています。


★「自分」とは、過去の「思い」を編集して生きる、「今の思いの連続性」です。


★存在していると思われるのは「肉体」です。

肉体の「存在感」は、確かにあります。(*^_^*)

けれども、存在と存在感は違います。


★「思い」は、存在しているのでしょうか?

「思われること」、「認識されること」によって、
「存在や事象が、明らかになる」という意味では、

言葉による認識が、「存在すること」の根拠にもなり得ますが、(^^;ゞ

それはどこまでいっても、「存在感」に基づく観察でしかありません。

「存在」と、「存在感」は別のことです。

『「存在」とは何か?』 『存在とは、どのような形式なのか?』については、洞察できていません。


★「存在のリアルさ」とは、何なのでしょうか?

「存在のリアルさ」は、「自分の思い」のなかの「存在のリアルさ」でしかありません。

「存在のリアルさ」は、自分の心を満たし、

「一体感」(恋愛・食・音楽などで)を感じることが多いです。(^^;ゞ                         


★「他人の思い」には、圧倒的な存在感があります。

それは、「他人の思い」は、「共感」によってしか理解できないからです。

「他人の思い」を理解することは、「共感」のできる自分の経験なくしては不可能です。


★「肉体」は、「肉体」と思われることによって、「肉体」です。

物質と思えは物質であり、食料と思えば食料であり、遺体と思えば遺体です。(^^;ゞ

「言葉(思い)で、どう捉えるのかという判断」があるだけです。(*^_^*)


★この肉体が、「自分」というわけではないのです!

「真の自分」は、この肉体に付随している意識であるような気がします。

「自分の肉体」という言葉の、「肉体の所有者」は、何なのでしょうか?


「名前がつく以前の自分」は、何者なのでしょうか? 誰なのでしょうか?

この肉体に宿っている「自分」は、何なのでしょうか?


★「自分の今の思い」を感じ、味わっているのは、この「名前のない自分」であることに、今、気付きました。(^^;ゞ

そして、恐ろしく不思議な感じ(笑)を味わいました。(*^_^*)


今の「この思い」を感じているのは、いったい誰なのでしょうか?  何なのでしょうか?


しかも、「この思いを感じている今」の自分が、全宇宙なのですから、(^^;ゞ

その不思議には、たまげてしまいます。(*^_^*)


★この「自分の今の思い」を経験しているのは、「唯一の自分」です。そして同時に、

すべての人が、この「唯一の自分」という気付きの可能性を秘めていて、
それが、人間なのだと分かりました。


★「唯一の自分しかいない」のだから、いい意味でも、悪い意味でも、「自分が神」・「各個人が神」なのです。


「宇宙」とは「唯一の自分」であるのですから、「自分(人間)は神である」というのは、

構造的、形式的な事実であり、誰でもが事実として「神」なのです。
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■私は、凄いことに気付いてしまった(笑)のかも知れません。(^^;ゞ

このプログを書き続けていたのは、この記事を最終的に書くためなのかも知れないとさえ(笑)思いました。(^^;ゞ

【2555】「内なる神」しか存在しない! 「神」に依存するな、頼りにするな。

2010-04-11 06:26:03 | 思索
【2554】にも関連するのですが、【2550】のような「唯識」の視点の中で、「神」について考えてみますと、

自分の外側に「神」がいるのではなくて、
自分の意識の中に「神という概念」があるということになります。

ですから、「神」とは、外側から、私を見守り、愛している存在ではなくて、

自分の意識のなかの「神意識(内なる神意識)」なのです。

例えが適切ではないかも知れませんが、(^^;ゞ
「唯識」で考えられる「神」は、キリスト教(一神教)的な、「外側の神」ではないのです。

「唯識」で考えると、「内なる神」という解釈になるのです。

★「自分の外に神がいる(=自分は罪の子)」という考え方と、「自分の中に神がいる」と考えは、とても違います。

一神教の教えは、「唯識論的な考え方」からは出てきません。

仏教や老荘思想や東洋思想は、「唯識論的な考え方」です。(^^;ゞ

★それで、「世界平和の祈り」や「印」や「光明な言葉のマンダラ」は、
は、自分の中の「神」を顕現する方法なので、「唯識論的な考え方」に基づいているのです。(^^;ゞ

【2554】守護霊・守護神も、自分の「内なる存在」であり、内なる「思い」であるに過ぎない

2010-04-11 05:12:26 | 思索
タイトルの【守護霊・守護神も、自分の「内なる存在」であり、内なる「思い」であるに過ぎない】の中の
「過ぎない」という表現は微妙だと思うのです。(^^;ゞ

★始め、この記事のタイトルは、
【守護霊・守護神も、内なる存在、内なる「思い」】でした。

事実として、守護霊も守護神も、客観的な存在ではなくて、
私の心の中の「思い」の一部です。

「自分という意識(内面・思い)」と守護霊の関係は、
「自分の思いの波調」が、守護霊の波調と共鳴した時に、自分は「守護霊の波調」を感じられるという関係です。

そういう意味で、「守護霊の意識」は、自分の中にあります。

他のあらゆる物(者)も、「自分の思い」が感じ感応することによって、
自分の心の中に立ち現れたように感じられるという構造で、「自分の思い」は成り立っています。


★これらの事実全体(唯識)に対して、「過ぎない」という言葉を付け加えたのは、

「自分の思い」全体を客体化して、「消えてゆく姿」と認識し、「自分の思い」に惑わされないようにするためです。(^^;ゞ


★といっても、「私たちの人生の目的(天命)」が、「守護霊の意思(神意識)を顕現すること」であるならば、

むしろ、「自分の思いの波長」を、「守護霊の意識」に合わせることは、とても大切なことです。(^^;ゞ)


★「唯識」という考え方で、自分を洞察しますと、「自分の人生」の本質が見えてくると思うのです。(^^;ゞ


「唯識」という考え方で、守護霊の存在を考えますと、

『守護霊・守護神も、自分の意識である』ということに気付くと思うのです。

そのような「存在(波動)」として、自分の心の中に「守護霊の意識」があるのです。

自分のエゴ(業)の波動を止めて、思考を停止すれば、守護霊(神)の波動を読み取れます。(^^;ゞ

「守護霊の波動」は、業のない波動ですから、

「守護霊の波動」を「自分の意識(思い)」に反映させて判断し行動すると、物事がとてもスムーズに進みます。

「業のない思い」なので、事象(不安材料)に執着しないでいられます。(^^;ゞ