『知足日記』

『知足』とは、『生かされて、生きている』・『必要な物、必要な経験は与えられている』・『すべて必要。すべて良し』と知ること

【2580】「存在」について知ることが、自分の心を落ち着かせる!(^^;ゞ

2010-04-30 00:40:18 | 思索
「存在」について真に知ると、「自分の心」が落ち着きます。

「存在」について真に知ることは、『「存在」も「無」も言葉でしかない(存在も無も同一)』ということです。(^^;ゞ


★「存在」や「人生」を、言葉で語ることは出来ないのです。

「言葉で語ることが出来ない」のですから、「語られた言葉」に把らわれる必要はないのです。(*^_^*)


★言葉は、「分別」をして、限定するのが役目です。

「真理」は、限定できない無限なるものなので、「言葉」では語れないのです。(^^;ゞ

「言葉」で語って、その「言葉」を捨てたところに「真理の面影」(笑)があるのです。
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①「存在」とは、内面意識の「感じ」でしかありません。

 「統一(思考停止)」の中で、「存在」を感じれば良いだけのことです。(^^;ゞ


②人間の価値は、「存在」です。

白光誌5月号にも『生きていることそのものが尊い』という文章がありましたが、

人間は、だた「存在する」だけで良いです。「存在」が、価値なのです。


けれどもそれは、「生存(寿命)の長さ」が、価値ということではありません。

「今、存在している。生きている。いのちしている」ことが、尊いのです。(*^_^*)


③存在すること、ただ在ることが、「創造主(神)であること」です。 「消えてゆく姿」を行じていることです。

 「過去の思い」を摑まなければ、スムーズに生きられます。(*^_^*)


④病気や怪我や食べすぎ等で体が不調な時に、「この体を、止めたい。どうにかしたい!」(笑)と思うことがあります。(^^;ゞ

体調が悪い時は、「自分の体」を意識するので、「自分の体」があるように感じられますが、

体調が良ければ、「自分の体」を意識することがありません。 

「体」は、意識されたり、意識されなかったりします。


★「自分の体」とは、「自分の体」という「思い」です。 「意識」です。 唯識なのですから、意識(思い・心)だけがあるのです。

「自分の体」を意識すれば、「自分の体」を感じるのです。 「在る」と感じるのです。


「思った時」に、「在る」のです。(*^_^*)


★「自分の体」という「思い(意識・心)」は、灯ったり消えたりしているのです。

寝ている時には、「自分の体」という「思い」がないので、「痛み」が無いのです。

「痛み」も、あったり無かったりしているのです。(^^;ゞ


眠っている間、「私の意識」は、どこに行っているのでしょうか?

「自分の体」という「思い」から離れていることは確かです。(^^;ゞ

私の「思い」は、夢の世界(あの世?・幽界・霊界)のリアルさを「存在」と感じて、
「消えてゆく姿」を行じているのかも知れません。


★肉体と意識は、物(被写体)と写真機(写体)の関係です。

「自分の肉体」は、「心(意識)」にとって「外界」です。

「思い」が、肉体を意識するから、「肉体」があるのです。


映しているのは、「自分の心」です。 中心は、「自分の心」です。

すべては、「自分の心」に映っている姿なのです。

「思っている姿」が、「消えてゆく」のです。


★「自他を分ける意識」が消えれば、
「他人の肉体」と「自分の肉体」という区別が消えるのかも知れません。(^^;ゞ