*日本が日米安保条約の下、米軍駐留によって安全を保障されるようになった、その歴史の推移を国民は知っておくべきだと思う、今年の3月に書いたボクのブログを再録する、そこで紹介した2冊の著書をゼヒ読んで欲しい、難解な本ではない、
沖縄「慰霊の日」平和へ誓い 首相、*外相*防衛相出席*初出席
*日経、2013/6/23 22:09
*日経の記事の冒頭を除き,以下、式典の状況の記述
仲井真知事は平和宣言で「私たちは沖縄戦の教訓を継承するとともに、わが国が築いてきた平和主義の堅持を強く望む」と強調。日米両政府に対して一日も早い米軍普天間基地(沖縄県宜野湾市)の県外移設や日米地位協定の抜本的な見直しなどを求めた。
安倍首相はあいさつで「沖縄の筆舌に尽くしがたい苦難の歴史を経て、今を生きる私たちがあることを改めてかみしめる日だ」と指摘。米軍基地問題にも触れ、「沖縄の負担を少しでも軽くするよう全力を尽くす」と述べた。
追悼式には首相、知事のほか、岸田文雄外相や小野寺五典防衛相、ルース駐日米大使らが出席した。外相と防衛相が出席したのは初めてで、駐日米大使は1995年のモンデール大使以来になる。普天間基地の移設問題を巡る沖縄との溝が埋まらない中、日米両政府が沖縄に配慮を示す狙いがあるとみられる。
21070、沖縄問題の根っこにある、昭和天皇の対米外交、米軍駐留を望んだ?
「昭和天皇・マッカーサー会見」 (岩波現代文庫)」
「安保条約の成立―吉田外交と天皇外交」 (岩波新書) [新書]
*上記の2冊共にボクは2,3度繰り返し読んだ記憶があるが、手元にその本がない、感動すると人に読ませたくて、貸すことが多い、
豊下 楢彦 (とよした ならひこ、1945年 - )は、日本の政治学者、関西学院大学法学部教授。専門は、国際関係論、外交史。
兵庫県生まれ。甲陽学院高等学校、京都大学法学部卒業。京都大学法学部助教授、立命館大学法学部教授を経て、現職。1995年博士(法学、京都大学)。
著書『安保条約の成立』において、吉田茂が講和条約・安保条約締結をめぐる交渉の中で米国に対して安易に妥協を行い、その国益を損なったとして吉田の外交手腕に疑念を提示し、同時期に発表され、同じく否定的な吉田評価を行った三浦陽一の研究と共に論争を呼んだ。
また両条約の交渉にあたっては米国への接近を望んだ昭和天皇による「天皇外交」が存在したと述べ、その証明として、天皇がドッジに沖縄への米軍駐留を望む文書を送った事例を挙げて、沖縄ドキュメントとして著書中にその資料を転記している、そう記憶している、
米国在住のフリージャーナリスト青木冨貴子著の「昭和天皇とワシントンを結んだ男」(新潮社 2011年5月初版)がそれである
ニュースウィーク外信部長のハリーカーンがつくった「アメリカ対日協議会」というロビー団体が昭和天皇をはじめ歴代の日本の首相と接触しながら日本の対米政策に関与し、日本を日米安保体制という対米従属の国にしていったのである。 そのロビーストの中心がニューズウィーク東京支局長であったコンプトン・パケナムつまりこの本の主人公である。
昭和天皇外交は、マッカーサーとの占領外交だけではなくむしろそのマッカーサーを排除したトルーマンージョン・フォスター・ダレスの逆コース、
つまり反共軍事同盟外交において大きな役割を果たしていたことがわかる
著者の青木冨貴子氏はパケナムがニューヨーク本社の上司であるリーカーン宛てに記した手紙や日記を丹念に解読して、戦後の日米関係が、昭和天皇―その代理人である松平康昌宮内府式部官庁―パケナムーハリー・カーンーワシントンという一本の非公式外交チャネルで形作られたことを教えてくれる。
「終戦の日に考える 歴史は沖縄から変わる」
戦後日本は、冷戦のアメリカ陣営につき、これにともなって、現在も続いている
アメリカ軍駐留の安全保障体制が作られたのですが、その発端となったことはなにか?という考察です。リンクした記事では、豊下楢彦氏の研究を参照しながら、そのお答えは「昭和天皇」だとしています。
日本の戦後処理にあたったGHQは、はじめは結構、理想に燃えていたのですが、冷戦の対立がきびしくなってくると、方針を転換して、日本を西側陣営に組み込み、東側陣営に対する防壁にする方向にシフトしていきました。
また、日本側の最大の関心ごとは、昭和天皇を、いかにして免責させ、訴追を回避するかでした。そこで天皇制の維持と、日本の旧支配層の温存と引き換えに、アメリカの反共政策に日本が協力することで、日米双方の利害が一致することになります。
東京裁判は、日米協力のもとで、この体制の基礎を堅めることが、むしろ実際の意義でした。それゆえ、日本の戦争責任の追求は、東京裁判で「終わり」で、昭和天皇の免責とアメリカの反共政策のために、これ以上追求しないものとなったのでした。A級戦犯は第2、第3の公判も予定されていましたが、アメリカの関心が冷戦に移るにつれて、裁判に不熱心となり、はっきりしない理由で、戦犯を釈放していきます。笹川良一や岸信介もそうして放免された「戦犯」でした。(このあたりは『昭和天皇の終戦史』にくわしい。)
記事に紹介されている、豊下楢彦氏の説によると、上述のような日米安全保障体制の構築に、積極的にイニシアチブを発揮したのが、ほかならぬ昭和天皇というわけです。
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非武装が日本の最大の安全保障とする理想主義のマッカーサーに対して昭和天皇はリアリストでした。憲法九条や機能不全の国際連合では日本を守れず、
米軍依拠の天皇制防衛の結論に至ったといいます。
かくして、「米軍駐留の安全保障体制の構築」が昭和天皇の至上課題となり、象徴天皇になって以降も、なりふり構わぬ「天皇外交」が展開されたというのが豊下説の核心部です。
わたしが読んだ本は、アメリカが主導的なっていましたが、こちらのほうが新しい史料が考慮されているので、正確かもしれないです。
日米協力で戦後体制の構築というのはまちがいがなく、あとはだれが主導的だったかとかで諸説がある、
豊下氏の説によると、東京裁判を切り抜けたあとも、日米安全保障条約の締結にいたるまで、昭和天皇が主導的な役割をはたしたと、考えられています。
記事で紹介されている『昭和天皇・マッカーサー会見』は、
つぎのエントリに概要が出ています。
最後のほうに、このあたりのことが、書かれています。
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20080831/p1
「共産主義の脅威」による天皇制の打倒をなによりも恐れた天皇が講和後の安全保障体制について積極的に発言することにより、朝鮮戦争の勃発によって価値のあがった「基地カード」を有効に活用する可能性を封じ、「不平等条約」の締結に至ってしまったのではないか、というかなり重大な含意をもつ仮説が提起されている。
「共産主義の脅威」による天皇制の打倒が依然としてありえると、昭和天皇は恐れたようです。それで、アメリカとの交渉を有利に進める余地があったのに、昭和天皇はアメリカに接近し、これにより安保条約を結ぶ結果となったのではないかと、憶測しています。