歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

御所市・中西遺跡 弥生前期の水田跡が新たに見つかり、累計2万400㎡と国内最大規模に

2011年11月08日 | Weblog
 県立橿原考古学研究所(橿考研)が8日、奈良県御所市條(じょう)の中西遺跡で、弥生時代前期(約2400年前)の水田跡約9千㎡が出土したと発表した。
 今回の調査で、東西に走る畦(あぜ)を基準に、南北3m、東西4mを標準サイズに整然と区画された水田跡約850枚が見つかった。 橿考研の平成21、22年の調査で同遺跡からは水田跡約7400㎡が出土。北側に隣接する秋津遺跡からも同時期の水田跡約4千㎡を確認しており、今回の水田跡を含めると計約2万400㎡となる。弥生時代前期の水田跡としては最大級とされる服部遺跡(守山市)の約1万8700㎡と、池島・福万寺遺跡(東大阪市、八尾両市)の約1万8千㎡を超え、同時期の水田跡としては国内最大規模となる。
 橿考研によると、中西遺跡周辺は、弥生時代前期の大洪水で0.5~1.5mの土砂に埋まり、当時の水田がそのまま保存されたと考えられるという。
 現地説明会は12日午前10時から15時まで開かれる。
[参考:時事通信、産経新聞、毎日新聞、朝日新聞、日経新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2009.12.8中西遺跡 奈良県最古級の水田跡
 中西遺跡

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盛岡市・瑞鳩峰山 報恩寺

2011年11月08日 | 盛岡
   ずいきゅうほうざん ほうおんじ 
曹洞宗 瑞鳩峰山 報恩禅寺 (盛岡市名須川町31―5)

山門と本堂、 山門の山額「瑞鳩峰山」は永平寺76世慈眼福海禅師筆によるもの。

 応永元年(1394)南部家13代守行(開基、1359-1437)により、三戸八幡宮(注1)の側に南部家代々を弔うため一寺を開創したのが始まり。
 足利末期には、寺跡を残すのみとなり、名久井(現・三戸郡名川町)の白華山法光寺(注2)の別院が建てられた。
 24代晴政(1517-82)の代に、新潟県柏崎市の香積寺5世通山長徹大和尚(開山)を師と仰ぐ久山舜桂大和尚(2世)によって、法地に格上げ再興され、「瑞鳩峰山報恩禅寺」が建立された。 山号の「瑞鳩峰」とは、開創の地が瑞鳩を象徴とする八幡様の側であったため。
 永禄12年(1569)南部家より知行200石が与えられた。
 27代利直(1576-1632)の代に、本城を三戸から盛岡(古来方)に移すことにより、慶長6年(1602)、同寺も4世養山玄想大和尚の時に、現在地に移転した。
 万治字3年(1660)に南部藩内曹洞208カ寺の総録司に任命され、明治35年(1902)まで続いた。

(注1) 本三戸八幡宮
 創建は初代南部光行(1165?-1236?)が、本拠だった甲州から勧請したのが始まり。境内に隣接して別当の金剛院があり代々の墓があったが、天明4年(1784)の大洪水で堂宇と共に流されたと伝えられている。
(注2) 白華山 法光寺 (はっかさん ほうこうじ、三戸郡南部町法光寺)
 旧名・名川町にある曹洞宗別格地。 北条時頼(1227-1263)を開基、玉峰損城和尚を開山として、建長年間(1249~1256年)に創建と伝わる。 山号は山門下の池の白連華に由来する。


 羅漢堂と、第14代盛岡藩主南部利視筆による扁額。

 報恩寺に安置されている五百羅漢は、享保16年(1731)藩主南部利視(1708-1752)の代に、17世曇樹一華和尚が大願主として造立4年の歳月をかけ作られたものと考えられている。 京都の法橋宗而重賢、駒野定英珍盈、駒野丹下定孝ら9人の仏師で木彫り漆塗り。 マルコポーロやフビライの像もみられ、499体が現存する。
[参考:「盛岡の寺院」1995盛岡市仏教会発行、盛岡報恩寺しおりなど]
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盛岡市・松尾大明神

2011年11月05日 | 盛岡
松尾大明神(松尾神社、松尾社とも) 盛岡市茶畑1-1-1 


 盛岡八幡宮を南に降りてゆくと、十六羅漢の道路手前にある。入り口はやや狭く、階段を上ったところに境内があり、さらにその奥の一段高いところに社殿がある。 目立たないので、通り過ぎてしまいそうである。 地図には、松尾大明神と記されていた。


 だが、この場所は社殿の北側が、天正年間に城主・中野康実(九戸政実の弟)が築城した中野館(なかのだて)跡なのだそうな。 そんなこととは知らずに、その後、ひょんなきっかけでわかった。 [参考:もりおか歴史散歩(東北堂)]


 社殿の扁額には「松尾社」と書かれている。 その扁額を書いたのは新渡戸■岳。 ■は姫と読めそうである。そうすると、新渡戸姫岳(きがく、1760ー1823)。 盛岡馬町(現・清水町)にある、現在は本山修験宗であるがもとは天台宗・峯寿院(ほうじゅいん)の住職で与謝蕪村に俳諧を学び、諸国を漫遊したそうな。 曾孫に、教育者、書家かつ俳人であった新渡戸仙岳(1858-1949) がいる。仙岳は盛岡高等小学校校長時代の教え子に金田一京助、石川啄木らがいる。
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盛岡市・松峰山 東顕寺

2011年11月05日 | 盛岡
   しょうほうざん とうけんじ
曹洞宗 松峰山 東顕寺 (盛岡市名須川町2-1)
 

 本寺は旧水沢市の正法寺(しょうぼうじ)(注1)。 正法寺の70いくつかある末寺のひとつであるが、盛岡市ではこの東顕寺のみである。
 開山・古山良空和尚(1362-1415)(注2)。 開基・不来方(こずかた)館主・福士五郎政長(?-1391、法号・源翁心公大禅定門) (注3)として、至徳元年(1384)頃建立。 2世は天蓑瞬賀(てんさしゅんか)(注4)。
(注1) 正法寺: 大梅拈華山(だいばいねんげざん)圓通正法寺(えんづうしょうぼうじ)(奥州市水沢区黒石町)、1348年創建。
 現在は、大本山總持寺筆頭末寺であるが、往時は東北地方における曹洞宗の本寺・第三の本山であった。
(注2) 正法寺2世月泉良印の嗣法。後に正法寺4世住職。初めに「天台止観」を学んだ後、衣を変えて月泉の教えを受ける。
(注3) 福士氏は源義光(新羅三郎)の四男?・實光が甲斐国巨摩郡福士郷(現、山梨県巨摩郡南部町福士)を賜り、福士實光と改名した。 4代後に近隣の南部氏の家臣として奥州に下向する。 南部氏は義光の次男・義清の2代後、加賀美遠光の長男・光行が甲斐国南巨摩郡南部郷(現、山梨県巨摩郡南部町)を領し南部光行(南部家初代)と改名。
(注4) 天蓑瞬賀は、室町時代中頃(1444年)に旧御城内の毘沙門淵に曹洞宗・養廣山正傳寺を開山した。開基は不明。 元は、天台宗であったが、曹洞宗に改宗したと伝わる。改宗した時期を開山としている。 正傳寺は盛岡城築城のため現在地(盛岡市愛宕町)に移転した。

 初め、盛岡城跡からみて盛岡市動物公園の手前あたりに草庵を結んだという。 現在も地名に盛岡市東中野里東顕寺と残るあたり。 その後、至徳元年(1384)頃、不来方の慶喜館石間(いしあい)(注5)に一宇を開いたとする。(開山) その後、盛岡城築城のために移転するが、現在地の名須川に移るまでに、直接ないしい2,3回の移転があったとみられる。
(注5) 現岩手医大学の北で、盛岡城が築城されてからは、家老・楢山河内守の屋敷となった。

 山門、本堂の屋根に曹洞宗と永平寺の紋が飾られているが、ほかに九曜紋が飾られている。 福士氏の家紋の一つに割菱九曜紋があり、それかと思ったが、飾られている九曜紋の日曜には割菱がない。 それではと、寺に問い合わせたところ、本寺の正法寺の紋(注6)であるという回答であった。
(注6) 正法寺の本堂は、日本一の大きさの茅葺屋根をもつ建物(国指定重要文化財)であるが、文化8年(1811)に仙台藩により再建された。 そのため、本堂には、仙台藩(伊達家)の家紋「竪三つ引両」と「九曜」と「竹に雀」が飾られている。
 
東顕寺の山門と本堂の屋根に飾られている九曜紋が、正法寺の紋だからといって、仙台藩(伊達家)の紋であるとは断言し難い。
 本堂の山額「松峰山」は永平寺64世性海慈船禅師筆によるもの。
[参考:「盛岡の寺院」1995盛岡市仏教会発行など]
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鳥取県大山町・豊成叶林遺跡 旧石器時代の石器製作の跡や炉跡が出土

2011年11月03日 | Weblog
 県埋蔵文化財センターは1日、大山町豊成の豊成叶林遺跡(とよしげかのうばやしいせき)で後期旧石器時代(約4万~1万2000年前)の石器製作の跡2カ所、炉跡1カ所、石器83点が出土したと発表した。 同センターによると、「旧石器時代のムラ」と考えられ、県内最古の遺跡という。
① 出土した石器は最長2・8cmのナイフ形石器7点、石刃(せきじん)2点、小石刃6点など。 材料は松江市玉湯町周辺で採れる玉髄(ぎょくずい)で、隠岐で採れる黒曜石製は長さ3・3cmのナイフ形石器が1点あった。
② 石器などは約2万8000年前に鹿児島湾北部の噴火でできた姶良(あいら)丹沢火山灰層のすぐ下から見つかったため、2万8000年以上前のものと分かった。 当時は氷河期とも重なるため、海面が今より100mほど下がっていたとされ、当時の人たちは歩いて隠岐の島や島根と行き来していたのではと推測されるという。
③ 石器製作の跡は、完成品から砕片まで集まっている石器ブロックで、2・5m離れて2カ所あり、いずれも直径約1mの円形であった。 1カ所は炉跡と一体化していた。 石器ブロックは、西に約4km離れた2004年の「門前第2遺跡」(同町門前)以来2例目。
④ 旧石器時代の焚き火などをした炉跡が見つかったのは県内初で、生活の場だったことが確認された。

 「豊成叶林遺跡」と近くの縄文、古墳時代前期(約1,700年前)の集落跡の遺構などが発見された「倉谷荒田遺跡」(大山町倉田)の現地説明会は3日(木・祝)に実施された。
 県立図書館(鳥取市尚徳町)では、9~23日に出土旧石器の速報展が開かれる。
[参考:日本海新聞、朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、鳥取県埋蔵文化財センター]

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観音寺市・椀貸塚古墳 墳丘に2重周濠と周堤を確認

2011年11月02日 | Weblog
 香川県観音寺市教委が1日、四国最大の石室(全長14.7m)を持つ同市大野原町の椀貸塚古墳(わんかしづかこふん、直径37.2mの円墳、6世紀末)の墳丘に2重周濠が巡らされていたことが明らかになったと発表した。内濠(幅6・0m、深さ1・4m)と外濠(幅4・2m、深さ1・2m)の間には盛り土をした周堤(幅6・2m、残存高さ1・4~0・9m)も確認した。 同時期の類例は全国でも極めて少なく、中四国では初めてという。
 今回の発見で、外濠を含む墓域は直径70m余りの広大なものであると推定されるという。
 現地説明会が5日(土)午後1時から午後3時まで開かれる。
[参考:四国新聞、観音寺市HP]

過去の関連ニュース・情報
 2011.3.10 観音寺市・平塚古墳 石室や墳丘規模が明らかに
 2009.9.25 観音寺市・椀貸塚古墳 横穴式石室の羨道の一部を確認
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越前町・法楽寺 織田信長の祖先「親眞」の銘が入った石造の未解読銘文が判明 忌部氏ルーツが有力に

2011年11月02日 | Weblog
 福井県越前町教委は1日、同町織田(おた)の真言宗醍醐派・法楽寺の境内から、織田(おだ)信長の十数代前の祖先にあたるという伝承が残る「親眞(ちかざね)」の名前が入り、「親真阿聖霊(あしょうりょう) 正應三年(1290)二月十九日」と刻まれた石造が見つかり、5月から調査を進めていたが、親真の墓を特定したと発表した。 これまで文献上に名前が記されるのみだったが、一族の出自も従来の平氏説から忌部(いんべ)氏説の可能性が高くなったとしている。
 親真は鎌倉時代の中・後期、劔神社の神職を務めたとされる。 最も古い文献では、十七世紀ごろ編集の織田家系図に見られるが、出自は不明。 昭和62年(1987)に郷土史家が、法楽寺で親真の名前が刻まれた石塔の一部を発見したが、供養塔として後年、建立したものとみて、重視されなかった。
 町教委が同寺の依頼で約20年ぶりに再調査した結果、碑文に未解読の文字を発見。この文字を加えると表面に「喪親真阿聖霊 正應三年庚刀(かのえとら)二月十九日未尅(ひつじのこく)」、裏面には「孝子 七月吉日」の銘があり、「親真は正応3年(1290)2月19日午後1~3時頃に亡くなった。孝行な子どもが7月に建造した。」と読めるという。
 石造は鎌倉時代に墓とされていた五輪塔の一部。半分ほどが崩れているが、1辺約21cm四方の立方体の形をしていたとみられる。
素材に使った笏谷石(しゃくだにいし)の質や、碑文の文字配列なども鎌倉後期の特徴と合致するため、信憑性は高いと判断した。

 親真を剱神社神官の忌部氏の直系とする説と、壇の浦の戦い(1185年)で死んだ平資盛(すけもり、清盛の孫)の実子で、近江から劔神社の忌部氏に養子となり正元2年(1260)2月18日に没したとする説とがあった。
 織田氏の家系図は20種類以上伝わっており、多くが親真を平氏の一族とし信長の先祖としているが、信長も平氏を名乗っていた。 しかし、墓石の銘文から没年が系図にある没年の30年後と判明し、同神社の神官「忌部氏」の家系である可能性が高まったとしている。
[参考:福井新聞、中日新聞、共同通信、産経新聞、朝日新聞、読売新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2011.6.8越前町・真言宗法楽寺 織田信長の祖先にあたる津田親真?を示す「親眞」の銘が入った石造が見つかる
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公州市公山城 銘文革札甲の下から漆塗馬甲、大刀が出土

2011年11月02日 | 韓国の遺跡・古墳など
 公州大博物館は1日、公州市公山城の城内集落遺跡(공주 공산성 성안마을 유적)(4次)で、貯水施設に隣接した場所から「貞観十九年」(645)の銘文が書かれた漆塗り革札甲 1領を収集した後、その下層調査を継続した結果、馬甲をはじめとして大刀類、鉄製札甲片などを収集したと発表した。
 馬甲は、各々長さ約12~18㎝の札甲片であり、約2mの範囲の中に二列に並び上下四重になった状態で発見された。 銘文革札甲と同じ方法で革に漆を施して作った馬甲で、銘文革札甲より規模が大きいが漆ははるかに薄い。 馬具類が全く確認されない点からみて、意図的にここに廃棄したと推定している。
 一緒に発掘された鉄製大刀(約55cm長)と柄の部分に金工のある装飾刀は、銘文革札甲と馬甲の中間層で発見された。中国にはない刀であり、百済または新羅で典型的に見える種類としている。また刀と同じ層から、鉄製札甲が塊で見つかった。
 これらは、何らかの目的で廃棄されたと見られるとしている。
 札甲と馬甲などの遺物が発掘された貯水施設は不安定な地盤に位置し、崩壊危険があるためまもなく覆土する予定という。
[参考:聨合ニュース]

過去の関連ニュース・情報
 2011.10.13 公山城 漆塗革札甲が出土、貞観十九年(645)の銘文も
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東松山市・高坂古墳群 三角縁神獣鏡が埼玉で初出土 中国で製造か

2011年11月02日 | Weblog
 埼玉・東松山市埋蔵文化財センターは1日、市内の高坂駅東口第一土地区画整理事業地内にある高坂古墳群の八号墳近くで卑弥呼が魏から贈られたとする説もある銅鏡「三角縁神獣鏡」1枚が十二片に割れていたが、ほぼ完全な形で出土したと発表した。
 直径22cmで、裏面には35文字からなる「陳氏作竟甚大好、上有戯守及龍虎、身有文章口銜巨、有聖人東王父王母、渇飲玉泉食棗」と書かれた銘文(注1)があり、四神、二獣(西王母や東王父、仙人、竜虎)の図柄がはっきり確認できることから、西暦250~260年頃に中国で作られたとみている。 「三角縁陳氏作四神二獣鏡」と名付けられ、これまで全国各地で出土した三角縁神獣鏡には見られない形としている。 今回の発見は、初期ヤマト政権の影響が埼玉県に及んでいたということを示している。
 ほかに捩文鏡(ねじもんきょう、直径7.4cm、4C)、鉄製槍鉋(ヤリガンナ、長さ9.5cm)1本、凝灰岩製管玉15点、水晶製勾玉1個なども出土した。
 東松山市埋蔵文化財センターで、12日から18日まで公開される予定。
[参考:共同通信、朝日新聞、東京新聞、毎日新聞、読売新聞、埼玉新聞、日本テレビニュース、NHKニュース]

備考
 三角縁神獣鏡新鑑(樋口隆康、2000学生社発行)によると、「陳氏作竟甚大好」で始まる銘を持つ「三角縁四神二獣鏡」は2種類ある。 一つは(仮称A)、真土大塚山古墳(平塚市)、椿井大塚山古墳(京都府)、湯迫車塚古墳(岡山市)2点、権現山51号墳(兵庫県)から出土したもの、もう一つは(仮称B)、古冨波古墳(滋賀県)、椿井大塚山古墳(京都府)から出土したものである。
 仮称Aの銘文は「陳氏作竟甚大好、上有戯守及龍虎、身有文章口銜巨、古有聖人王父母、渇飲玉泉飢食棗」(35文字)
 仮称Bの銘文は「陳氏作竟甚大好、上有王父母、左有倉龍右白虎、宜遠道相保。」(24文字)
 今回出土した銘文は、「陳氏作竟甚大好、上有戯守及龍虎、身有文章口銜巨、有聖人東王父王母、渇飲玉泉食棗」(35文字)


キーワード: 槍鉋、やりがんな、ヤリガンナ

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公州市・水村里遺跡 百済時代古墳4基をあらたに発掘 金銅履物などが出土

2011年11月01日 | 韓国の遺跡・古墳など
 忠南歴史文化研究院は1日、公州・水村里遺跡(공주 수촌리 유적)を発掘調査した結果、百済時代古墳4基(内訳は石槨墓2基、石室墳1基、土壙墓1基)をはじめとして青銅器時代土坑、初期三国時代土坑を含む計23基に及ぶ遺構を確認したと発表した。
 中でも8号墳内部ではかなり腐食が進行した金銅履物一組と柄か鞘に漆を塗った刀子などが収集された。
 百済時代土器の遺構からは、大壺、広口壺、広口長頚壺、短頚壺、短頚小壺、高杯などの土器類、他に環頭大刀、輪轡、鐙、棺釘、鎹(かすがい)、腰帯、勾玉、土製防錘差、石鏃などが発見された。
 水村里遺跡は2003~2004年の発掘調査結果、百済時代墳墓6基が確認され、金銅冠2点と金銅履物3組など4~5世紀台の百済の遺物が多量に発見された。
[参考:聨合ニュース]

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