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東京葛飾区・柴又八幡神社古墳 99年に出土した土師器が6世紀後半ごろの渡来系文化の影響

2009年03月13日 | Weblog

写真は柴又八幡古墳出土埴輪 人物埴輪のうち、最右が「寅さん埴輪」、その左が「さくらさん埴輪」

 柴又八幡神社古墳(葛飾区柴又3-30-24)から10年前に出土した、6世紀後半のものとみられる土師器が、朝鮮半島由来の土師器をまねて作られたものであることが、同区教委の調査で分かった。「区郷土と天文の博物館」が昨年、この土師器の材質や形状を詳しく調べて判明し、今月、復元作業を終えた。
 土師器は99年7~8月の第3次学術調査で、神社の社殿西側の地中40~50cmから出土した。これまでにも土師器や須恵器がまとまって出土した場所。ほかの土師器や須恵器と同じく、人為的に割られた状態で見つかった。口径14cm、高さ17cm、底の部分は直径6~7cm。茶褐色で、内面は赤く塗られていた痕跡がある。牛の角のような形をした取っ手が付いているのが特徴で、このような土師器は朝鮮半島に由来し、大阪府内の古墳など西日本では出土例があるが、少なくとも関東地方では初めてという。
 古墳造営後に、この土師器などを使った儀式が行われて、廃棄されたとみられる。
 渡来系の文化が6世紀にはこの地にもたらされたことを示す貴重な資料とする。
 柴又八幡神社では1960年になって、埴輪や馬具、石室などが地中から見つかり、古墳の存在が確認された。6世紀後半の造営とみられている。下町では唯一、石室を備えた古墳として知られ、石室は区指定文化財になっている。現在の葛飾区など隅田川東岸を開発した有力者を埋葬したと推定されるという。
 今年中に一般公開することも検討している。
[参考:読売新聞]

柴又八幡神社古墳
 東京東部に広がる東京低地に位置する。横穴石室と埴輪を伴う古墳時代後期6世紀後半に築かれた古墳。
 石室の石材は、法皇塚古墳(千葉県市川市)、赤羽台古墳群(東京都北区)、将軍山古墳(埼玉県行田市)と同じ房州石で、房総半島の鋸山周辺の海岸部から持ち込まれたものである。出土した形象・円筒埴輪は、いわゆる下総型に属するものである。本古墳は、房総と武蔵との境界地域に位置し、両地域の地域性と交流を示す古墳として注目されている。
 古墳時代後期の人物埴輪(「寅さん、サクラさん」埴輪で有名)、あるいは馬の埴輪が出土したことで知られる。
[葛飾区郷土と天文の博物館より]

 柴又神社古墳があった地点は、古代から中世まで「嶋俣」と記されている。
 関東地方が北条氏により支配されていた時代の「小田原衆所領役帳」(永禄2年、1559)に、初めて「柴俣」(しばまた)が記される。この頃は、江戸衆筆頭・遠山丹後守(遠山綱景1513?-1564)がこの地を知行していた。 



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