マルゼルブの正式な名前は、
クレティアン=ギヨーム・ド・ラモワニョン・ド・マルゼルブです。
1721年12月6日に産まれました。
父親は法曹貴族のギヨーム・ド・ラモワニョン・ド・ブランメニルです。
1741年代訴官長代理に任じられます。
1744年パリ高等法院の評定官となり、
1750年、尚書局長に就任した父の跡を継いで租税法院長に就任します。
またほぼ同時に尚書局長に属する出版統制局長を兼任します。
マルゼルブの出版統制局長時代の1751年には、
ディドロ、ダランベールが編集した『百科全書』の刊行が始まり、
ルソーの『人間不平等起源論』(1755年)、『新エロイーズ』(1761年)、
『エミール』(1762年) 、エルヴェシウスの『精神論』(1758年)、
ヴォルテール『カンディード』(1759年)と、
フランス18世紀思想を代表する書籍が次々に出版されましたが、
キリスト教勢力を抑えながら、それらがスムーズに刊行されるよう配慮しました。
しかし、マルゼルブの配慮にもかかわらず、
1758年『精神論』の出版許可が取り消され、
1759年『百科全書』が刊行停止に追い込まれた。
1763年、父のブランメニルがルイ15世の不興をかって追放されたため、
出版統制局長を退任し、
1771年、租税法院廃止にともない同法院長を退任しています。
1775年7月、ルイ16世の宮内大臣に就任、
翌年財務総監テュルゴーとともに大臣を辞職しますが、
1787年、国務大臣に再任されています。
二度目の大臣を辞職する頃『出版自由論』を執筆しますが、
その主旨は、
「真理の発見のためには国民の自由な討論が不可欠であり、
その自由な討論のためには出版の自由が不可欠である」というものでした。
1789年にフランス革命がはじまります。
当時70歳に近かったマルゼルブは、
政界を引退し、国外に革命騒ぎを避けていました。
1792年、ルイ16世が法定に立たされる事になりました。
誰も引き受け手のなかったルイ16世の弁護人の話を聞き帰国し、
弁護士を引き受けます。
その時、彼が言ったのは、
「世人が全て王の閣僚たることを大いなる栄誉として願い求めていた頃、
余は二度までも、その台閣につらなる事を得た。
いまや諸人がみな王側に立つ事を危うしとする時、
余は彼のためにその奉公を尽くすべき義務がある。」でした。
これに対し、ルイ16世は
「わたしがもしまだ玉座を占めているなら、それを貴殿とわかち、
わたしに残されている半分の玉座とふさわしくなるでありましょうに」と
マルゼルブに感謝しています。
御存知の通り、ルイ16世は、1793年1月に処刑されます。
その処刑後マルゼルブは田舎に引きこもっていましたが、
12月に反革命主義者として逮捕され、
翌1794年4月22日に処刑されました。
この節義の士マルゼルブについては、余り取り上げられていませんが、
サント・ブーブはその『月曜閑話』で讃えていますし、
カーライルの『フランス革命史』で、
言葉をきわめて彼の進退を特筆しているとの事です。
クレティアン=ギヨーム・ド・ラモワニョン・ド・マルゼルブです。
1721年12月6日に産まれました。
父親は法曹貴族のギヨーム・ド・ラモワニョン・ド・ブランメニルです。
1741年代訴官長代理に任じられます。
1744年パリ高等法院の評定官となり、
1750年、尚書局長に就任した父の跡を継いで租税法院長に就任します。
またほぼ同時に尚書局長に属する出版統制局長を兼任します。
マルゼルブの出版統制局長時代の1751年には、
ディドロ、ダランベールが編集した『百科全書』の刊行が始まり、
ルソーの『人間不平等起源論』(1755年)、『新エロイーズ』(1761年)、
『エミール』(1762年) 、エルヴェシウスの『精神論』(1758年)、
ヴォルテール『カンディード』(1759年)と、
フランス18世紀思想を代表する書籍が次々に出版されましたが、
キリスト教勢力を抑えながら、それらがスムーズに刊行されるよう配慮しました。
しかし、マルゼルブの配慮にもかかわらず、
1758年『精神論』の出版許可が取り消され、
1759年『百科全書』が刊行停止に追い込まれた。
1763年、父のブランメニルがルイ15世の不興をかって追放されたため、
出版統制局長を退任し、
1771年、租税法院廃止にともない同法院長を退任しています。
1775年7月、ルイ16世の宮内大臣に就任、
翌年財務総監テュルゴーとともに大臣を辞職しますが、
1787年、国務大臣に再任されています。
二度目の大臣を辞職する頃『出版自由論』を執筆しますが、
その主旨は、
「真理の発見のためには国民の自由な討論が不可欠であり、
その自由な討論のためには出版の自由が不可欠である」というものでした。
1789年にフランス革命がはじまります。
当時70歳に近かったマルゼルブは、
政界を引退し、国外に革命騒ぎを避けていました。
1792年、ルイ16世が法定に立たされる事になりました。
誰も引き受け手のなかったルイ16世の弁護人の話を聞き帰国し、
弁護士を引き受けます。
その時、彼が言ったのは、
「世人が全て王の閣僚たることを大いなる栄誉として願い求めていた頃、
余は二度までも、その台閣につらなる事を得た。
いまや諸人がみな王側に立つ事を危うしとする時、
余は彼のためにその奉公を尽くすべき義務がある。」でした。
これに対し、ルイ16世は
「わたしがもしまだ玉座を占めているなら、それを貴殿とわかち、
わたしに残されている半分の玉座とふさわしくなるでありましょうに」と
マルゼルブに感謝しています。
御存知の通り、ルイ16世は、1793年1月に処刑されます。
その処刑後マルゼルブは田舎に引きこもっていましたが、
12月に反革命主義者として逮捕され、
翌1794年4月22日に処刑されました。
この節義の士マルゼルブについては、余り取り上げられていませんが、
サント・ブーブはその『月曜閑話』で讃えていますし、
カーライルの『フランス革命史』で、
言葉をきわめて彼の進退を特筆しているとの事です。