天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

籤で決まった将軍

2010-11-16 | Weblog
 現在の選挙制度では、投票で同数の場合は籤で決定する事になっています。
 国政の選挙などの大きな選挙では、そのような例もないかと思いますが、
 町村の議員の選挙では、そのような事も実際にありました。

 選挙制度などなかった室町時代、籤で将軍になった人がいます。
 6代将軍の足利義教がその人です。
 足利義教は、3代将軍の足利義満の3男として、
 1394年(応永元年)に生まれます。
 当時の足利幕府においては、
 慣例で家督相続者以外の子は仏門に入る事になっていました。
 これにより、義教も出家して義円と名乗り青蓮院門跡となります。
 ところが、兄である4代将軍足利義持が、
 1423年(応永30年)出家して息子の義量が5代将軍に就きます。
 この義量が、将軍になって2年後の1425年(応永32年)、
 19歳の若さで死亡します。
 義持には他に男子がなく、将軍の地位が空位となりますが、
 出家していた義持は将軍を決定せずに亡くなってしまいます。
 このため、管領畠山満家の発案によって、
 義持の4人の弟、青蓮院義円、相国寺永隆、大覚寺義昭、梶井義承の中から
 次期将軍を籤で決める事になりました。

 1428年(正長元年)、石清水八幡宮で籤引きが行われ、
 青蓮院義円が将軍に選ばれることになります。
 この籤引きに関しては、不正があったとの説もあるようですが、
 ともかくも、義円は翌年(永享元年)征夷大将軍に任じられ、
 足利義宣と名乗ります。
 しかし、義宣は「世を忍ぶ」に通じるとして、義教と改名します。
 人生が大きく変わって将軍となった義教は、
 やはり期するものがあったのでしょう、
 父義満が過去に実現させた将軍親政の再興を目指します。
 そのため、管領の権限抑制策を布いたり、
 義持の代から中断していた勘合貿易を再開したり、
 義教の将軍就任に不満を持っていた鎌倉公方足利持氏を、
 関東管領上杉憲実と結んで自害させる(いわゆる永享の乱)など、
 幕府権力の強化に一定の成果を挙げます。
 しかしながら一方で、義教は、短気で勘気と猜疑心の強い性格と言われ、
 人々の疑心暗鬼と恐怖心を煽っての恐怖政治となって行きます。
 そして、1441年(嘉吉元年)赤松満祐・ 教康父子に、宴に招かれて、
 その屋敷で暗殺されてしまいます。
 この結果、幕府の権威は失墜し、後の応仁の乱に繋がって行きます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする