天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

カテリーナ・スフォルツァ伯爵夫人

2009-09-08 | Weblog
 カテリーナ・スフォルツァ伯爵夫人は、イタリアでも有名な女性です。
 1463年に、ミラノの統治者スフォルツァ家の庶子として生まれ、
 女性でありながら北イタリアの領主として、
 悪名高いチェーザレ・ボルジアの軍隊に最後まで抵抗した女性です。

 その当時のイタリアは血生臭い事件が多く、
 実父のミラノ公も兄も、彼女が少女時代に暗殺されましたし、
 最初の夫も、二番目の夫も家臣建ちの叛乱で凄惨な謀殺にあっています。
 3番目の夫が、ジョヴァンニ・デ・メディチで、
 その子どもが後の「黒旗隊のジョヴァンニ(1498-1526)」で、
 フィレンツェ公国初代大公コジモ1世(1519-74)の父親にあたります。

 カテリーナを有名にしたのが、
 教皇シクストゥス4世の甥っ子である最初の夫
 ジロラモ・リアーリオが謀殺された時の出来事です。
 叛乱を起こした敵は、彼女の夫の死体を逆さ吊りにして、
 更に子ども2人を人質にして、開城を迫りました。
 その時、彼女は城壁の上に立つと、やおらスカートをたくし上げて、
 「馬鹿め これさえあれば、子どもなどいくらでもできるのを知らないのか!」
 と叫んだのだそうです。
 当時彼女は24歳でしたから、若い女性が股間を曝して叫ぶのを見て、
 敵もオタオタしてしまいました。
 その内に、援軍が到着して、敵軍を追い払い、
 子どもも助かったと言う事です。

 1499年、彼女はチェザーレ・ボルジアとフランス軍を相手に、
 居城のフォルリ城に25日間籠城しますが、最後は降伏します。
 ボルジアは、彼女を自分のテントに連れ込んで
 放さなかったと言うような話もありますが・・・。
 彼女は、その後解放され、
 フィレンツェのメディチ家で余生を過ごし、1509年この世を去ります。
 彼女の孫、コジモ1世の血筋から、フランス王妃が出て、
 ヨーロッパ各国の王族にその血筋が広がって行きます。
コメント
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