天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

出雲大社の変遷

2017-04-04 | Weblog
 島根県出雲市大社町にある出雲大社が 
 いつ頃創建されたのは明らかになっていません。
 「古事記」や「日本書紀」には、
 国譲りを受け入れた大国主命の住まいを建造した話が出て来ますが、
 いずれも神話の世界の話です。
 古事記には、垂仁天皇が「神宮」を造らせたとの記事がありますが、
 これも神話に近いもののような感じがします。
 日本書紀には、659年(斉明天皇5年)、
 出雲国造に命じて「神之宮」を修造させたとの記述があります。
 出雲大社の社伝では、
 垂仁天皇の時が第1回、斉明天皇の時が第2回の造営とされています。

 ともかく古代から出雲大社はあるのですが、
 その名称が出雲大社と定まったのは、1871年(明治4年)の事です。
 それまでは、杵築大社(きずきたいしゃ)と呼ばれていました。

 また祭神も変遷しています。
 平安時代前期まで、出雲国造が新任の時には、
 朝廷にまで出向いて賀詞を奏上していましたが、
 その賀詞では
 「大穴持命(大国主大神)」「杵築宮に静まり坐しき」と記載があるので、
 この頃までの祭神は大国主大神でした。

 やがて、神仏習合の影響下で鎌倉時代から天台宗の鰐淵寺と関係が深まり、
 鰐淵寺は杵築大社の神宮寺も兼ねました。
 鰐淵寺を中心とした縁起(中世出雲神話)では、
 出雲の国引き・国作りの神を素戔嗚尊としていたことから、
 中世のある時期から17世紀まで祭神が素戔嗚尊でした。
 「当社大明神は天照大御神之弟、素戔嗚尊也。八又の大蛇を割き、
  凶徒を射ち国域の太平を築く。」と杵築大社の由来が記されていました。
 また、1666年(寛文6年)毛利綱広が寄進した銅鳥居に刻まれた銘文には
 「素戔嗚尊者雲陽大社神也」と記されていました。
 鰐淵寺の僧侶が経所で大般若経転読を行い、
 社殿では読経もしていたとの事です。

 しかし、杵築大社(出雲大社)内は
 仏堂や仏塔が立ち並んで神事が衰微したため、
 17世紀の寛文年間の遷宮時に
 出雲国造家が神仏分離・廃仏毀釈を主張して寺社奉行に認められ、
 1664年(寛文4年)から翌年にかけて、仏堂や仏塔は移築・撤去され、
 経蔵は破却されました。
 また、境内には尼子経久が願主となって
 1527年(大永7年)に建造された三重塔がありましたが、
 移築され、現在も兵庫県養父市の名草神社に存在しています。
 前述の毛利綱広の鳥居では、まだ祭神は素戔嗚尊ですが、
 この頃から、古事記や日本書紀などの記述に沿って
 大国主大神に復したようです。

 以上瀧音能之さんの「出雲大社の謎」に載っていた話です。

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