浸透工作こそ中国共産党のすべて

2022年11月06日 | 歴史を尋ねる

 当ブログは現在、東京裁判を追いかけていた。中華民国に関する弁護側立証には、盧溝橋事件に関連する弁護側の書証提出のうち37通の文書提出も、検察側の異議申し立てで受理されたのはわずか10通、中国共産党の活動と排日運動に関する弁護側立証は、次々と検察側の異議が認められ、ことごとく却下された。法廷は「中国共産党の日本人および日本権益に対する直接侵害の証拠のほかに、攻撃の脅威を感じたことを示すものも証拠として受理することに決定した。ただしその脅威は、重大かつ差し迫っており、攻撃をする能力のある者により為された脅威に限る」と。結局受理された証拠は電報1通にとどまった。こうしたこともあり、これまで裁判を離れ日中の当時の事実関係について、もう少し掘り下げていた。中華民国の当時の様子は、蒋介石秘録で大分読み解くことが出来るが、中国共産党の動きはこれまでブラックボックスの中であったが、近年相当事実関係が浮かび上がってきた。『マオ 誰も知らなかった毛沢東』は、ユン・テアン、ジョン・ハリデイ夫妻が2005-2006年に、世界各国でほぼ同時に刊行した毛沢東の伝記、遠藤誉著2015年『毛沢東 日本軍と共謀した男』・2021年『裏切りと陰謀の中国共産党100年秘史 習近平 父を破滅させた鄧小平への復讐』、石平著2021年『中国共産党 暗黒の百年史』など。石平氏は言う。「中国近代史について、日本の権威ある大手出版社から刊行された書籍を読んで唖然とした。日本の一流知識人が書いた中国近代史のほとんどは、中国共産党の革命史観に沿って書かれた、中国共産党を賛美する歴史書となっている」と。たしかにこの分野の第一人者である加藤洋子東大教授の著書を見ると、当時の日本の為政者の考えを極め細かく分析しているが、ブラックボックスになっている中国共産党の当時の動向についてほとんど触れられていない。また近代戦は陰謀渦巻く戦いである。表(おもて)の文書関係だけでは、本当の歴史的事実を紐解くことは出来ないことをもの語っている。その実例を、遠藤誉氏と石平氏の著書から見てみたい。
 
 1905年東京赤坂で孫文が中心となって中国革命同盟会という、清王朝を倒すための政治結社が結成された。1912年1月1日に建国された中華民国は、国民党(1919年に、孫文が創設した中華革命党から改称)によって統治された。
 1917年に誕生したソ連は新しい国家としての承認を求めようとしたが、なかなか承認してもらえず、いっそのこと世界各国を共産主義の国家にしてしまえ(赤化してしまえ)ということから創った組織がコミンテルン(共産主義インターナショナル)で、1919年のことだった。アメリカや日本の政界にも潜り込んでいた(日本では元朝日新聞記者・尾崎秀美を介して近衛内閣に潜り込んだリヒヤルト・ゾルゲ)が、何と言っても集中的に対象としたのは中国だった。
 1920年、コミンテルンの極東書記局が設立され、中国を含む極東地域で共産党組織を作り、暴力革命を起こさせるのが任務だった。1921年、コミンテルン極東書記局の主導により、100%の資金援助で、陳独秀という共産主義に傾倒した知識人を中心に、上海に集まった13人のメンバーが、中国共産党を結党した。結党を指導・監督したのは二人のロシア人だった。中共は創設直後から、コミンテルンの方針に従い、扇動とテロによる暴力革命の実現を中国各地で試みたが、失敗の連続で、勢力も拡大しなかった。当時の中国では、1911年の辛亥革命で樹立された中華民国が軍閥たちに乗っ取られたため、近代革命の父である孫文は第二の革命を起こし、軍閥勢力を打倒すべく奔走していた。従って中国国内の革命勢力は、孫文と彼の作った国民党を中心に結集していた為、暴力集団の中国共産党は、本物の革命派から見向きもされなかった。中国共産党の不人気と無能に痺れを切らしたコミンテルンは方針を転換し、孫文率いる国民党勢力を取り込むため、支援することにした。その目的は、民主主義共和国の建設を目指す孫文の革命を、ソ連流の共産主義革命に変質させ、中国革命そのものを乗っ取ることである。その乗っ取り工作の先兵となるのが中国共産党だった。コミンテルンは国民党への財政支援や武器提供の見返りとして、中国共産党の幹部たちが共産党員のまま国民党に入り、国民党幹部として革命に参画することを受け入れる要求であった。近代的な政党政治の原則からすれば、そんな要求は全くナンセンスで、あり得ない話が、孫文はコミンテルンの支援をどうしても欲しかったため、このとんでもない条件を飲んでしまった。今から見れば、孫文が下したこの姑息な決断が、中国と世界にとっての大きな災いの始まりであり、国民党にとって破滅の序曲となった、と石平氏は慨嘆する。
 乗っ取りの先兵とされた中国共産党は、コミンテルンの指示と斡旋によって、多くの共産党幹部は国民党に入党し、国民党中枢で重要ポストを責めることとなった。例えば譚平山という共産党員は国民党中央組織部長になり、国民党の幹部人事を牛耳った。林伯渠という結党直後に入党した共産党幹部は、国民党農民部部長となり、革命運動の重要な一環である農民運動の指導に当たった。そして国民党中央宣伝部長代行、後に部長になったのは毛沢東(13名の中共結党メンバーの一人)だった。

 共産党による国民党乗っ取り工作の最たるものは、新しく創設された国民革命軍への浸透である。1924年5月、国民党は自前の国民革命軍を一から作ろうと、コミンテルンの全面的支援を受けて、革命本拠地の広州で黄埔軍官学校を創設した。孫文によって軍官学校校長に任命されたのは、後に国民党の領袖となる蒋介石だった。そしてコミンテルンの指名で軍官学校の重要ポスト、政治部主任になったのは、周恩来だった。彼は当時、ソ連でスパイとテロ活動の訓練を受けて、帰国したばかりだった。以来、周恩来は軍官学校の中で、政治部主任の肩書と権限を利用して、教官と生徒の間に共産党員を増やし、勢力拡大に励んだ。もう一人、ソ連赤軍で軍事訓練を受けた聶栄臻という共産党員も1925年に帰国すると軍官学校の政治教官となり、周恩来の乗っ取り工作を補佐した。この人はのちに中国共産党軍の元帥となり、軍最高幹部の一人となった。周恩来の工作によって共産党員となった葉剣英は、周恩来と共に中国共産党軍の創設に参加し、中共政権成立後は元帥となって、国家指導者の地位にまで上り詰めた。軍官学校の第一期生には、周恩来の指導で共産党に入党した卒業生が多数おり、中でも徐向前と陳賡の2名は、のちに中国共産党軍の有力軍人となり、のちに元帥と大将になった。第四期生には、周恩来によって育てられた林彪という若き共産党軍人がいた。林彪はのちに、中国共産党軍が起こした天下取りの内戦で凄まじい戦功を立て、元帥に昇進し、1960年代の文化大革命時には共産党政権のナンバー2になった大物である。黄埔軍官学校からは第五期生以降も、陶鋳、楊志成、宋時輪、羅瑞卿などの共産党軍人が輩出し、この4名はのちに共産党軍の大将の階級に昇進した。周恩来による軍官学校乗っ取り工作は実に凄まじかった。この軍官学校で育った共産党員の軍人たちは、共産党軍の主要な戦将となって、同じ黄埔軍官学校出身者が指揮する国民党軍と戦ってこれを打ち破り、国民党軍と国民党政権を中国大陸から一掃した。
 中国共産党は、国民党の軍官学校を乗っ取ることで自前の軍隊を作り出し、さらにこの軍隊で国民党軍と国民党政権を倒す戦略を立てて、実際に大成功を収めた。このやり方は、がん細胞とよく似ていると、石平氏。人の身体の中で健康な細胞を呑み込み、それを栄養にがん細胞はどこまでも繁殖して行く。いずれ寄生する母体を食いつぶす、このが、中国共産党のお家芸の浸透・乗っ取り工作の極意であり、最も恐ろしい側面である、と。

 1926年、黄埔軍官学校の校長・蒋介石は亡き孫文の意志を受け継ぎ、国民革命軍を率いて軍閥打倒の北伐を始めた。その終盤の1927年4月、北伐の成果を横取りして革命を完全に乗っ取ろうとする、共産党の不穏な動きを察知した蒋介石は断固とした措置を取り、共産党勢力を国民党と国民革命軍から一掃することにした。追い詰められた中国共産党は、自前の軍隊を創建して蜂起する決意をした。1927年8月1日、黄埔軍官学校政治部主任だった周恩来と国民党中央組織部長を務めた譚平山を指導者に、国民革命軍第11軍の副師団長・葉挺が率いる部隊を主力として、共産党は江西省南昌で蜂起した。この葉挺もモスクワ留学帰りのバリバリの共産党員で、党の浸透任務を託されて国民革命軍の重要将校として潜入、一軍を率いる立場となったが、いざという時、葉挺率いる国民党軍は一夜にして共産党軍に寝返った。後に南昌蜂起と呼ばれるこの事件こそ、中国共産党軍の誕生の瞬間だった。蜂起の8月1日は今でも、中国人民解放軍の建国記念日とされている。
 南昌蜂起の部隊は、国民党軍の討伐で崩壊してしまい、その後の共産党勢力は二つに分かれて生き延びた。蜂起指導部は周恩来を中心に上海租界(外国人居留地)に潜伏し、地下活動を行うことになったが、南昌蜂起の残党の一部は朱徳という共産党軍人に率いられて江西省と湖南省の省境に位置する井崗山に行き、そこで拠点を構えていた毛沢東の山賊部隊(石平氏は言う)と合流して武装革命を続けた。その後、上海の周恩来の地下組織は、コミンテルンによる中国共産党最高指導部に認定され、井崗山にある毛沢東勢力を指導する立場になった。毛沢東たちはやがて山から降り、周辺の農村地帯で勢力拡大を図り、広域の革命根拠地をつくることになった。一方上海の周恩来の地下組織は、国民党政権に対する新たな浸透工作を始めた。この時点で第一次国共合作は既に終焉し、国民党と共産党は不倶戴天の敵同士となっているから、周恩来たちの新たな浸透工作は秘密裏に行うしかない。具体的なやり方は、党組織から絶対的に信頼を受ける優秀な共産党員が身分を隠した上で、国民党支持者に成りすまして国民党組織の中に入り込み、出世を計っていくことである。工作員がやがて組織の上官の信頼を勝ち取り、重要ポストに就いた後、共産党のために大いに役立ってもらう。この時の国民党潜入組には、後に周恩来から三傑と呼ばれる優れた工作員三人がいた。
 その筆頭は、銭壮飛という1925年に共産党に入党した医学部出身の青年である。1928年、国民党特務機関傘下の上海無線通信管理局が無線通信訓練班を開設して生徒を募集すると、銭壮飛は共産党員の身分を隠して応募し、成績一位で合格した。訓練班の中で銭壮飛は飛び切りの優秀さで頭角を現し、特務機関のボスである徐恩曽のメガネにかなった。訓練が終わると、銭壮飛はそのまま国民党の特務機関に入った。しばらくすると彼は徐恩曽の機要秘書に抜擢され、特務機関の最重要機密を知りうる立場になった。その後、銭壮飛は周恩来の指示に従って、二人の共産党員を徐恩曽に紹介し、特務機関に入れた。これで徐恩曽をボスとする国民党中央組織部調査課という特務機関の中枢には、隠れ共産党員が三人入って、がっちりチームを組み、国民党の対共産党諜報を内側から破壊する役割を果たしていく。徐恩曽が指導する特務機関の多くの計画よ行動は事前に共産党に漏れてしまい、ことごとく無力化されていった。

 銭壮飛たちはさらに、共産党のためにもう一つ大きな手柄を立てた。毛沢東・朱徳たちが江西省の井崗山周辺で革命本拠地をつくって勢力拡大を図っていたが、国民党政府はそれに対して、正規軍を派遣し殲滅作戦を展開していた。銭壮飛は通信暗号を上海の党中央を通して革命根拠地の毛沢東たちに渡した。共産党軍(紅軍)はこれで、国民党軍のあらゆる軍事展開を事前に察知できた。共産党軍はいつも、進攻してくる国民党軍の矛先を上手に避けながら、逆に国民党軍の通信内容からその軍事配置の弱点を探し出して猛攻撃を加え、国民党軍を簡単に撃破できた。1929年からの数年間、革命根拠地の紅軍が数回にわたって強大な国民党軍の殲滅作戦を粉砕することが出来たのは、ひとえに銭壮飛チームの手柄が大きい。だから周恩来は、彼らを三傑と呼び、重宝していた。そして周恩来が上海の外国人居住地にいながら、遠く離れた江西省の毛沢東勢力を指導する立場を確保できたのも、周恩来自身がこの銭壮飛チームを含む共産党のスパイ組織を掌中に収めていたからだと、石平氏。いつの時代も、情報を制する者はやはり強い。周恩来が権力闘争を無傷のまま乗り越え最後まで生き延びたのは、スパイ組織の創建者であり、多くの政敵を葬り去った毛沢東さえ、周恩来には簡単に手を出せなかった、と推測する。
 1931年4月、周恩来の直轄の部下で共産党特務機関の最高幹部の一人である顧順章という人物が、国民党に逮捕されるとすぐに寝返った。彼は共産党指導部の機密拠点の住所や周恩来など最高幹部の隠れ場所などの機密情報を、ひとつ残らず国民党特務機関に自白した。そこで徐恩曽の国民党特務機関は直ちに総動員をかけ、共産党指導部と要員たちを一網打尽にする大逮捕作戦に打って出た。しかし銭壮飛たちの行動の方が一足早かった。彼らは迅速に逮捕開始の情報を周恩来たちに届けた。共産党指導部はこれで間一発、緊急逃亡を図り、難を逃れることが出来た。逮捕部隊到着の5分前に隠れ場所から逃げ出した。この決定的な働きの後、不審に思われる立場になった銭壮飛ら三人は、一斉に国民党の特務機関から姿を消して逃亡した。また、周恩来を中心とする共産党指導部も上海から江西省の革命根拠地に逃げ込んで毛沢東部隊と合流した。
 銭壮飛らはその後も、周恩来の部下として共産党の特務機関に務めたが、銭壮飛と胡底の二人は革命戦争で命を落とし、三傑の一人である李克農だけは生き延びて、周恩来の下で共産党の諜報活動に携わった。そして中国共産党が内戦に勝利して中華人民共和国を建国すると、彼は共産党中央調査部部長、中央軍事委員会総情報部部長を歴任して共産党政権と軍の情報機関の責任者を長年務めた。

 逮捕から逃れた周恩来ら共産党指導部は、江西省の革命根拠地に逃げ込んだ後の数年間、周恩来は党のトップとして根拠地に君臨し、紅軍の指揮を執った。しかしスパイ網が壊滅してしまった以上、国民党軍の情報は入ってこない。やがて周恩来率いる紅軍は国民党軍の軍事作戦に打ち破られて根拠地を放棄せざるを得なかった。1934年秋、共産党指導部は紅軍の残党部隊を率いて、中国北部を目指して大移動を始めた。史上有名な万里の長征である。逃亡の末、最後にたどり着いたのは黄土高原にある陝西省の延安地区。そこでは劉志丹という共産党員が徒党を組み、自前の根拠地を作っていた。周恩来・毛沢東たちは、共産党同志である劉志丹の根拠地を丸ごと接収することで、生き延びる地盤を確保した。この劉志丹はしばらくしてから、対国民党軍事作戦の最前線で後ろから撃たれて戦死した。ちなみに、劉志丹の部下の一人だった習仲勲という人は、生き残って後に共産党政権の高官となったが、この習仲勲の次男である習近平は、今第三期目の中国トップに君臨している。
 1936年12月、毛沢東は周恩来が管轄する中共中央情報部特務科傘下にいる藩漢年らに、蒋介石の腹心であった張学良と接触するよう指示した。潘漢年らの巧みな説得により張学良は共産党側の要求に沿って西安に蒋介石を呼び出して監禁し、西安事件を起こした。表面的には国民党と共産党が協力して、共に日本軍と戦おうという国共合作を呼び掛けるものだが、実際は国民党軍にこれ以上共産党軍を攻撃しないようにさせ、蒋介石率いる国民政府に共産党軍兵士を養ってもらうことが目的だった。毛沢東にはさらに大きな目的があった。軍事的に国共合作をするのだから国民党側の軍事情報を共産党側が手に入れることが出来る。周恩来を通して入手した国民党軍の軍事情報を、毛沢東は潘漢年に持たせて日本外務省の出先機関である岩井公館の岩井英一に高値で売り付けさせた。毛沢東が倒したいのは蒋介石であって、その蒋介石は日本と戦っている。日本と共産党軍が提携して国民党軍を倒そうという作戦で動いていた。この時の毛沢東の作戦を「七二一作戦」と称するが、これは蒋介石には国民党軍と共に日本軍と戦うと約束したが、実際には10%だけ日本軍と戦い、20%は国民党軍との妥協に費やし、残りの70%は共産党軍の発展にために注ぐという作戦だった。毛沢東は潘漢年を通じて日本軍との停戦さえ申し出ている。新中国が誕生した時、潘漢年は逮捕され、獄死したが、毛沢東は「皇軍に感謝する」とさえ言っている。事実、毛沢東は抗日戦争勝利記念日を祝賀したことはなく、南京大虐殺などにも触れたことはない、と以前書いた。この項は遠藤誉氏の記述である。
 1937年7月当時、共産党と共産党軍の主導権は既に周恩来から毛沢東に移っていたが、周恩来は依然として党内きっての実力者であり、スパイ活動・浸透工作の総責任者でもあった。国共合作は、再びスパイ組織が浸透する対象となった。その時、共産主義を信奉する優秀な青年を選んで入党させ、身分を隠して国民党の組織に送り込むという、前回と同じ手口だった。中国共産党の諜報史上、三傑と肩を並べる大物工作員、熊向暉であった。周恩来が潜入先として選んだのは、国民党軍の屈指の精鋭部隊として知られる胡宗南の部隊だった。胡宗南は黄埔軍官学校の一期生で、校長だった蒋介石にもっとも寵愛された門下生の一人であった。卒業後は蒋介石直系の軍人として頭角を現し、36年には師団長、37年には軍団の指揮官となった。これだけでも重要な浸透対象となったが、胡宗南の身辺にスパイを送り込まねばならない理由があった。陝西省に駐屯する胡宗南部隊の最大の任務は、共産勢力の殲滅作戦だったから。周恩来たちが必死になっているとき、大学生たちの間で従軍奉仕団のような組織を作り、国民党軍への奉仕活動を行う動きが広がっていた。潜入命令を受けた熊向暉は早速奉仕団に応募、面接も高評価、胡宗南は将来有望な人材だと認定し、自分の側近として育てると決めた。国民党の中央陸軍軍官学校で勉強させ、39年3月、軍官学校から戻ってくると早速、胡宗南は彼を身辺の侍従副官・機要秘書に任命した。わずか一年余りで、中国共産党は国民党軍の重鎮の身辺にスパイとして潜り込ませることに成功した。潜入してから5年後の1943年に共産党のために一世一代の手柄を立てた。すでに述べたように、中国共産党は1937年に抗日統一戦線と称して国民党政府と連携したが、以後の6年間、共産党軍は抗日にほとんど興味がなく、自らの勢力拡大に励んだ。国民党政府の支配する地域への侵食を継続的に行い、国民党軍が展開する対日戦争を邪魔することも度々あった。こうした共産党の裏切り行為に業を煮やした蒋介石は、延安を中心とする共産党本拠地に対する殲滅作戦の再開を決意、作戦実行を胡宗南に命じた。この奇襲作戦については別の項でも扱ったが、作戦実行の開始時期は7月9日と決められた。すると、潜伏5年目の熊向暉が迅速に動き出した。彼は電撃作戦の全計画と開始時期などの機密情報を、秘密ルートを通じて延安の共産党指導部に届けた。蒋介石が胡宗南に殲滅作戦を命じた時の電報の写しも一緒に送った。

 熊向暉の情報が毛沢東の机の上に届いたのは、電撃作戦開始の一週間まえの7月3日だった。仰天した共産党指導部は、必死の緊急対策を講じた。全軍を集結させて迎撃態勢を整えたのと同時に、蒋介石が共産党軍の殲滅作戦を命じた事実を世の中に公表し、抗日統一戦線への破壊行為として糾弾した。さらにアメリカ大使館に対しても、蒋介石の殲滅作戦をやめさせるため圧力をかけるよう呼びかけた。中共のとった一連の行動は蒋介石と胡宗南にとって、青天の霹靂だった。奇襲作戦が事前にばれた以上、実行しても意味がない。国内世論アメリカなどからの圧力もあって、蒋介石は結局、この殲滅作戦を放棄し、共産党勢力を一挙に片づける千載一遇のチャンスを逃した。そして、周恩来たちが仕込んだ胡宗南への浸透工作は、肝心な時に威力を発揮し、共産党を壊滅の危機から救った。ちなみに、当の熊向暉は大役を果たした後、米国留学を口実に胡宗南から逃げ出した。中華人民共和国成立直前に帰国すると、長きにわたり周恩来の右腕として外交部門で働き、共産党の対外浸透工作を担当した。
 1983年、鄧小平が改革開放路線をスタートさせて外国資本を中国に誘い入れようとした時、熊向暉は新設された国策会社「中国国際信託投資公司」副董事長兼党書記に任命された。中国共産党からすれば、国民党の内部に潜り込むのも外国の資本を中国国内に誘い込むのも、全く同じ性格の浸透工作でしかない。だから熊向暉をその責任者にしたわけだった。
 石平氏は、興味深いエピソードも収録している。中国共産党が政権を樹立した1949年11月、首相となった周恩来は、内戦末期に共産党軍に寝返った張治中など数名の元国民党軍高級将校を宴会に招いた。宴席の途中、周恩来はアメリカから帰国したばかりの熊向暉を呼んだ。彼は国民党軍重鎮の胡宗南の側近であっただけに、張治中などは彼をよく知っていた。張治中たちは熊向暉の顔を見てびっくりし、君も共産党に寝返ったのかと聞いた。周恩来は笑いながら、彼は最初から我ら共産党側なのだと。しばらく静まり返っていたが、国民党軍の元古参幹部である張治中の口から、「そうだったのか、われわれ国民党は一体どうして共産党に負けたのか、その理由が良くわかった!」と。張治中の驚きは真実を反映したもの、中国共産党は、主としてスパイ活動や浸透工作の成功によって国民党軍を打ち破り、天下を取ったからだと、石平氏はいう。

 「内戦末期に共産党軍に寝返った張治中」と石平氏は記述するが、『マオ 誰も知らなかった毛沢東』の著者ユン・チアンはこう記述する。『張治中(黄埔軍官学校で教官をしていた)は回想録の中で周恩来に中国共産党への入党を申請したが周恩来からは国民党にとどまり「ひそかに」中国共産党と合作することを求められたと書き残している。1937年7月7日の盧溝橋事件の際には張治中は南京上海防衛隊司令官の任にあり、事件の起きた華北から1000キロも南に位置する上海を場所と選んでの日本に対する「先制攻撃」を蒋介石に求めた。』『1937年(民国26年)8月9日、蒋介石の承認を得ないまま張治中は上海の飛行場の外で事件を起した。彼の指示で中国軍部隊が動き、日本軍海軍陸戦隊の中尉と一等兵を射殺している。この際には中国軍の軍服を着せられた一人の中国人死刑囚も飛行場の門外で射殺されている。これは日本側が先に発砲したように見せるための工作であった。この事件は大山事件として知られている。』『14日、中国軍機が日本の旗艦「出雲」を爆撃し、さらに日本海軍陸戦隊および地上に駐機していた海軍航空機にも爆撃を行った。しかし、蒋介石は今夜は攻撃を行ってはならない。命令を待て」と張を制した。しかし命令が来ないのを見た張治中は、翌日、蒋介石を出し抜いて、日本の戦艦が上海を砲撃し日本軍が中国人に対する攻撃を始めたと、虚偽の記者発表を行った。反日感情が高まり、蒋介石は追い詰められた。翌8月16日、蒋介石はようやく翌朝払暁を期して総攻撃をおこなうと命令を出した。一日戦闘を行ったところで、蒋介石は18日の攻撃中止を命じた。しかし、張治中は命令を無視して攻撃を拡大した。8月22日に日本側が大規模な増援部隊を投入するに至って、全面戦争は避けがたいものとなった』 21世紀中国総研 矢吹晋氏はこの書を俗悪の部類だと酷評しているが、記述内容に幾つか符合する事実もある。蒋介石秘録で、蒋介石はこう記述する。「時々刻々と上海市内に向けて増強される日本軍に対抗するため、8月11日、中国軍は京滬(けいこ)警備総司令・張治中指揮下の第87師・88師を上海郊外に配置した。この二個師はいずれも5年半前の第一次上海事件で日本軍と激戦をかわした筋金入りの部隊である。すでに上海周辺では、日本の再侵略に備えた防禦工事が1935年冬から始まっていた。一帯を縦横に走る無数のクリークを利用して、上海を遠巻きするような形で、陣地が構築されていた。13日、ついに日中両軍は衝突した」と。この辺の詳細な経緯は、2018年7月の記事「これは日独戦争だ その一」で記述済みである。蒋介石にしろ、張治中にしろ、ドイツ軍事顧問団の力を借りて、日本に一泡吹かせてみたいという、下心がなかったか。いずれにしろ、張治中の回顧録があったかどうか、不明だが、石平氏の記述と照らし合わせると、ユン・チアン氏の記述も簡単に否定することが出来ないし、中華人民共和国のその後の彼の処遇を考えれば、首肯できる点も出てくる。

 石平氏の著書に戻ると、共産党が国民党軍と国民党政府を相手に天下盗りの内戦を発動したのは1946年6月のことだが、それからわずか3年余りで、圧倒的な兵力を持ち、最新鋭の米国製武器を装備した国民政府軍を完全に打つ破り、中国大陸から一掃した。この3年余りの内戦の中で、国民党軍と共産党軍の間で展開されたもっとも大きい規模の戦いは「遼瀋戦役」・「平津戦役」・「淮海戦役」の会戦である。このうち「平津戦役」と「淮海戦役」の両方で、国民党軍の中枢に入り込んだ共産党スパイの暗躍があり、そのおかげで共産党軍が勝利できた大きな要因となった。例えば平津戦役は、北平市に籠城した国民党軍司令官傅作義の寝返りで簡単に終わり、共産党軍は大砲の一発も撃たずに北京入城を果たした。その功労者は傅作義の秘書だった共産党工作員の閻又文であり、もう一人は傅作義の長女の傅冬だった。彼らは利害関係を説いたり情に訴えたりして、傅作義を寝返る方向へと導いた。平津戦役より少し前に始まった淮海戦役こそ、中共工作員が総力をあげて諜報戦を展開したものであった。国民党軍側は80万人、共産党軍側は66万人の兵力を投入した最大の開戦であった。国民党政府の国防省作戦庁の庁長を務める郭汝瑰という人物は、1928年に共産党に入党した古参の秘密党員で、国民党軍に潜伏して軍の中枢部で要職を得た。郭汝瑰は淮海戦役開始前の早い段階から国民党軍の作戦計画を共産軍側に知らせていた。会戦が始まるや否や、何基澧と張克俠の二人は長期潜伏して高級幹部となったが、国民党軍第59軍全体と第77軍の大半の兵力を率いて共産党軍に寝返り、国民党軍を攻撃する側に回った。肝心なタイミングでの寝返りは大きいな痛手となって、開戦早々から態勢の一角が崩れた。本格的な会戦が始まると、国民党軍の総指揮部の中に、1937年に共産党に秘密入党した呉仲禧という高級将校がおり、軍事機密を随時共産党側に流した。約2か月間に亙る会戦の結果、国民党軍は完膚なきまでに打ち破られ、主力部隊のほとんどを失った。この結果、国民党政権崩壊が必至となり、内戦での中国共産党の全面勝利が揺るぎない現実となった。第一次国共合作の時に国民党への浸透工作をから勢力拡大を始めた中国共産党は、内戦の最後でも、国民党への浸透工作でこれを倒し、中国大陸を手に入れた。浸透工作こそ中国共産党の全てであった、と石平氏。


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