この花、春一番の花卉類の開花ですが、
「突然開くのにびっくり」、
昨日までは、全然予兆も無かっただけに・・・・。
春一番の花です。
同じ場所に葉の青い
のは「ヤマブキ」、
「実の一つだに無きぞきぞ悲しき」との名句の有る花、
実のなる種類もあるようですが、
我が家の物は実は一切なりません。
「木瓜の蕾」も膨らみ色付いて
いよいよ春・・・。
この花、春一番の花卉類の開花ですが、
「突然開くのにびっくり」、
昨日までは、全然予兆も無かっただけに・・・・。
春一番の花です。
同じ場所に葉の青い
のは「ヤマブキ」、
「実の一つだに無きぞきぞ悲しき」との名句の有る花、
実のなる種類もあるようですが、
我が家の物は実は一切なりません。
「木瓜の蕾」も膨らみ色付いて
いよいよ春・・・。
昨日・今日と当地も15℃前後と暖かい、
晴れ間を見て「菩提寺への墓参」、
老妻と二人でのお参りでした。
この時代こうした仏事もどこのおうちも済ませている様子でした、
中日の午後、半数くらいは「新しいお花のお供え」が有りました。
どっこい我が家もお花は忘れませんでしたが
「お線香を忘れた」と悲鳴、
今年はお許しいただこうと、手を合わせました。
例年は根雪が融けるころ、
汚い「半枯れの葉」が有る中で、花だけ鮮やかさを見せてくれます。
幸い根雪の全然なかったこの春は比較的きれい。
本当は晩秋に葉を取り除いておくと、きれいな花だけ見
られるのでしょうが、
そんな事してもいい物だろうか、
葉は光合成で花全体を育てるものだけに・・・・。
来年は一度やってみよう。
おなじ花名の「雪ノ下」が有りますが、
この花とは、花の形も葉の形もまったく異なるものです。
今しばらくすると花径を30cmも伸ばし「ろくろ首の様」
不思議な花です、
そして庭に咲く、草花一番咲きの花。
小球根でムスカリ等と同じ場所に植えた「フェイオン」。
「ハナニラ」の仲間
多くの星形の花を咲かせるのですが、
昨夜半開き、そして、今朝満開の2輪。
球根も小さいだけに花径は2cm。
それでも勢いよくきれいに開いています。
本当の花期は春の花ですから、
抜け駆けでなく、
みんなが遅れているのでしょうか。
遅くなりました、17日(日)坐禅会参加報告です。
3月からの、厳寒期を避けた「今年の早朝坐禅会が再開」。
今日はお天気も悪いのでしょうまだ明けきらぬ朝、
禅堂の照明がないと居られない暗さ。
老師の打たれる6時の梵鐘、般若心経の読経ともほとんど聞こえない
(気圧のせいか)。
禅堂へ戻られた老師の「検単」そして
小鐘3つ、スタートである。
(この時すでに12分前から参禅者は座についていました)
坐中のお話し、「毎度申し上げることですが」、から始まった。
道元禅師さまが極められた「打坐」は、この道が仏の世界に導いて
くださる手法であり、最も近道であることを示された。
「只管打座」、両膝とお尻の3点に身をささえる、これが身の構えの入口である、
背筋をまっすぐに伸ばし坐る。
次に、「顎、舌上のあざとにかけ唇歯相著け、目は須らく常に開くべし」、
「鼻息微かに通じ、身相既に調えて、欠気一息し」と説かれた、
すなわち、呼吸の通り道は鼻のみとなる、しっかり肺一杯に入れられた空気は
へそ下の丹田に貯め、空気の位置とその意識を持つ。
「その時の意識を両掌で結んだ」法界定印の中に受け止める。
意識する呼吸とは、、吸う息、吐く息を1回ずつ意識する、
呼吸と身の構えが道元禅師様おすすめの形にになっているのか
そのことが「仏と言われる一つの心理を表す」のですが、、参禅者一人ひとりが
それを意識しているか、そのことの身心を整える事となる。
「只管打座の要点」は、身の構えと呼吸を正しく、心はその全体を見失わぬよう見つめる。
これの繰り返しの中に没頭する、これが禅師様おすすめの作善であります。
そして、「その姿こそが仏と呼ばれる姿です」。
10人いれば10通りの仏がいらっしゃるのです。
あらゆるものが本来の姿を保つこと、それは他人と比べることの無い独自の世界、
主人公はこころの仏様だと諭された。
日本には仏道等の名のつく世界が有る、その道はいろいろとありますが、
その道に没頭して一つになる道、今、「私たちは打坐を実行している」。
人である私たちを健康に導く生き方をもおすすめである。
それが「すべての人間が安楽の世界に入って行く」ための有りようです。
道場で座っている姿、道元禅師様おすすめの坐禅です。
「無言精進・無言精進」そうありたいものだと願うばかりです。
(ここまで来て、すでに50分が経過)
おやっ、小鐘2つ、これは「立禅、径行の始まり」、
立ち上がり又手、息を整え、目を半眼に落とし、坐禅と同じことを繰り返した、
そしてそして、左右の足に体重を交互にかける、この練習がうまくいって
初めて「歩く径行が出来る」。
そしてそして又、小鐘3つ、座りなおして少しの坐禅の継続。
しばししての少鐘1つ、「放禅鐘」である。
(3か月ぶりとはいえ延べ70分、長かった)
それでも坐禅は癒し・楽しでした。
苦痛は一つもなかったのは救い、
又、坐禅から立禅に変わると
「座っていた時の足の痛さが全部無くなる不思議を体験)」
先に報告した、午後からのお団子撒き(涅槃会)にしつらえられた禅堂。