tarpin翁のスローライフ

福井県奥越地方、季節のたより、ガーディニングなど、
写真日記・・・そして・・・。

今年最後の「早朝坐禅会」参加、7名。

2016年12月18日 | 坐禅会

比較的暖かい早朝、路面に残雪もあり転ばぬよう気をつけての参山。

この時期、当地の6時前はまだ真っ暗で静か。

いつものように老師の撞かれる梵鐘の前に全員(今朝7名)坐についている、

今年最期の「坐禅会」でも有る

 

しばらくして、禅堂に戻られた「直堂役」の師の点検のあと、

一年ぶりの「警策」を受け、バシッ。

老師のすり足とストーブのファンの音以外の静寂。

この時、既に30分も過ぎていました。

 

坐中の老師の話が始まる。

禅の道場に携わる僧は、毎年、今年は何を目的にどの様に過ごしたのか、

結果はいかが、などとともに次年への目標を立てるのです。

具体的には、「今の己の様を味わい、自分は何を思い、願い、何が出来るのか見極め、

それを言葉にして文字に書き綴る。

 

「その年の何時亡くなっても良いよう、これが私の遺言です」

の思いをこめて年始の「遺偈(ゆいげ)」を習慣にしているのです

皆様もそうした習慣・文化を持たれては如何ですか、と問われる。

 

この言葉を捜すのは難しく構えるとなかなか出てこないもの、

あれこれ考えつくすと、そこにおのずから自分の姿が浮かびあがってくる。

そうした、しぐさ・生きざまを生活の中に取り入れる。

禅門では「天命に任せて、人事を尽くす」のです。

今、出会っていることを愚痴らず、現実を受け止め今の自分には

何が出来るのか」自分の背丈に合ったムリの無い、

出来ることに手がけていく、これの積上げ

これが「天命任せて、人事を尽くす」です。

(諺に有る「人事を尽くして、天命を待つ」とは反対)

平素私達は、頭に浮かんだことを言葉にして安易に主張するのですが、

「それが唯一のように確信を持つ」が、

それが「天命を受けた姿で有るのか」、

振り返ることがポイントでしょう。

 

今自分が出来ることを行動に移す、

その一つが黙って座る(坐禅)姿。

坐り方も、浅い坐り深い座り、何れも「坐わる」のです。

極めれば、とどまるところの無い深さ、上り詰めれば止まるところの無い高さ、

人々はそれを持っています。

年の暮れの「最後の坐禅会」に当り、

今年一年を静に振り返り、そうしたことが出来る喜びを感じ、

来る年の新しい出会いに向けての希望を持つようにすれば

毎月坐ったことが、無駄では無かったことが分かっていただけるでしょう。

と結ばれた。

 

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