比較的暖かい早朝、路面に残雪もあり転ばぬよう気をつけての参山。
この時期、当地の6時前はまだ真っ暗で静か。
いつものように老師の撞かれる梵鐘の前に全員(今朝7名)坐についている、
今年最期の「坐禅会」でも有る。
しばらくして、禅堂に戻られた「直堂役」の師の点検のあと、
一年ぶりの「警策」を受け、バシッ。
老師のすり足とストーブのファンの音以外の静寂。
この時、既に30分も過ぎていました。
坐中の老師の話が始まる。
禅の道場に携わる僧は、毎年、今年は何を目的にどの様に過ごしたのか、
結果はいかが、などとともに次年への目標を立てるのです。
具体的には、「今の己の様を味わい、自分は何を思い、願い、何が出来るのか見極め、
それを言葉にして文字に書き綴る。
「その年の何時亡くなっても良いよう、これが私の遺言です」
の思いをこめて年始の「遺偈(ゆいげ)」を習慣にしているのです。
皆様もそうした習慣・文化を持たれては如何ですか、と問われる。
この言葉を捜すのは難しく構えるとなかなか出てこないもの、
あれこれ考えつくすと、そこにおのずから自分の姿が浮かびあがってくる。
そうした、しぐさ・生きざまを生活の中に取り入れる。
禅門では「天命に任せて、人事を尽くす」のです。
今、出会っていることを愚痴らず、現実を受け止め今の自分には
何が出来るのか」自分の背丈に合ったムリの無い、
出来ることに手がけていく、これの積上げ
これが「天命任せて、人事を尽くす」です。
(諺に有る「人事を尽くして、天命を待つ」とは反対)
平素私達は、頭に浮かんだことを言葉にして安易に主張するのですが、
「それが唯一のように確信を持つ」が、
それが「天命を受けた姿で有るのか」、
振り返ることがポイントでしょう。
今自分が出来ることを行動に移す、
その一つが黙って座る(坐禅)姿。
坐り方も、浅い坐り深い座り、何れも「坐わる」のです。
極めれば、とどまるところの無い深さ、上り詰めれば止まるところの無い高さ、
人々はそれを持っています。
年の暮れの「最後の坐禅会」に当り、
今年一年を静に振り返り、そうしたことが出来る喜びを感じ、
来る年の新しい出会いに向けての希望を持つようにすれば
毎月坐ったことが、無駄では無かったことが分かっていただけるでしょう。
と結ばれた。