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tarpin翁のスローライフ

福井県奥越地方、季節のたより、ガーディニングなど、
写真日記・・・そして・・・。

祖父の祥月命日。

2013年11月02日 | 季節の便り(北陸、福井)
今日は、「祖父の祥月命日」で、
菩提寺様来宅、お念仏をいただいた。



いま、有名タレントの「ファミリーヒストリー」という、
先祖探訪TVが、高い視聴率で見られているらしい、
何のことは無い「どのような家の出身の人であったか」
であり「覗き見興味」でしょう。

今日は、祖父の祥月命日にかんがみ、
「我家のヒストリー」も少し紹介してみます。



本来、日本では、苗字がある人は、「士族・功労により藩主から許された人」
のみであり、
明治3年(1870年)から、初めて苗字を名乗ることができた(名乗らなくてはならなくなった)。
また、明治四年(1871年)にできた「壬申戸籍法」では、
「皇族」を除くと、
勝山の例では、藩主小笠原公のみ「華族」、藩主の兄弟以下、藩士は、「士族」、
足軽など「卒族」
それ以外の市民は「平民」と「」とされた(神官・僧・尼は別)、
この制度は、家・身分をあらわすもので差別戸籍とされ,
昭和22年(1947年)まで続いた。

事実、父の小学校卒業証書には、「士族○○○○」と書かれている。
我家は、藩主小笠原公の岐阜美濃高洲からの移封(元禄四年1691年)
に付いて、勝山へ来たものです。
毎月俸禄(月給)をもらう月給取りでしたが、
地方小藩(藩士168人)の武士は、わずかの俸禄であり
「武士は食わねど、高楊枝」
廃藩置県に伴い、藩主から退職金として、米券で、現在の金額にして
約100万円(米34表)。
その後は、自活しなければなりませんでした。

この時、曾祖父12代の姉が、のちの財閥、「野村徳七氏」と結婚。
13代となる祖父(今日の命日)は、唯一残された身分「士族」の肩書で、
大正6年、勝山町の議員となり職を得たが、
後に、「野村徳七商店」に乞われ就職。

゛野村商店時代の祖父の遺品。カウスボタンに社章が入っている。
緑色の石は、カウスから外した「大陸ヒスイ」








蘭領ボルネオ護謨工業株のトップとして現地赴任、
大正13年、熱病によりこの地で客死、38歳の若さでした。

以上が大筋のヒストリーです。

座敷の「お軸」も、
彼が、ボルネオへ出立時の励ましの
「風神の上に乗る観音様?」をかけてみました。









ゴム園栽培とゴム加工。



祖父夫婦の写真。



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奥越「九頭竜湖」の秋。

2013年11月02日 | 季節の便り(北陸、福井)
まだ、モット紅葉するのでしょうか、ここで最高なの・・・。
それでも、美しい景色でした。









九頭竜湖」に映える紅葉は、お勧め、
乗鞍や白山林道などには及びませんが、
比較的近場の「紅葉がり」には最適。
(標高300m位)


















突然、道路に飛び出した「野猿」、
カメラがぶれてしまいました、
こんなハプニングもあるのが「奥越」。



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