時間があるときは、読みものをとおしてアメリカの歴史をたどっています。いまは1840年代の西部、ペンシルベニアからオハイオ、ミズーリ、さらに西へ行ってコロラド、オレゴンへと進みます。オハイオ川、ミシシッピー川、ミズーリ川などのようすが描かれています。もちろんそこに住む人たちの人間模様や町のようすが主体で、じつに活きいきしています。写真は、州ごとに色分けしてあるアメリカが州国の地図です。
リーヴァイとエリーは馬車とそれを引く馬6頭を用意して西部オレゴンをめざす。24歳のディーヴァイは宗教色が強い町ランカスターで問題を起こし、町の人たちから忌避され、自由な生活ができるという噂がある西部オレゴンをめざす。またエリーはまだ16歳だが、孤児(みなしご)であるがゆえ、いくら人に親切にしても、周りの人たちから無視され続けてきた。この2人が一緒になり、西部での自由を夢見て、長い旅路につく。
1844年当時、アメリカ合衆国は独立国になってはいたものの、東部13州以外は、まともに治められてはいなかった。その東部13州以外を一括して西部、または中西部と呼んでいた。地図でみればアメリカの東のほんの一部を除いてほとんどが西部になる。その西部は、スペイン系の人たちが実質的に治める地域があり、フランス人が、はたまたドイツ人が治める地域があったし、数々の先住民族も跳梁跋扈していた。なかでも好戦的な先住民族は、白人がもたらす馬と銃をほしがった。引き替えにするのは主としてビーバーの毛皮だった。
当時の大工業都市ピッツバーグからケアロまではオハイオ川を船でくだるのがふつうだった。リーヴァイとエリーは6頭の馬に馬車を引かせていたので蒸気船には乗せてもらえなかった。かわりに筏を組み、それに乗せて川をくだる。信頼できる筏師としてフィナティを紹介された。フィナティは筏師であり、筏製造人でもあった。以下はフィナティのことばだ。「おれは最高の筏をつくる。40ドルだ。ケアロまで操縦していって、ケアロでその筏を30ドルで売りとばす。おまえさんが払うのは実質10ドルですむというわけだ」。フィナティはさらに続ける。「筏は荷馬車が3台乗れるほど大きくする。つくるのに2週間かかるから、そのうちにあと2台は現れるだろう。そいつを乗せて、もうけはおまえさんと俺とで折半する。どうだ」。いまでいうウィン、ウィンの関係だ。ところがフィナティはどうやら他の2組の客からもかなりの金をせしめたらしい。さらにケアロに着いて筏を売ろうとしたが、予期した値段で買ってくれる相手が見つからない。リーヴァイが筏を売りさばこうともたもたしているうち、フィナティはやって来た蒸気船に乗ってさっさとピッツバーグへ帰ってしまった。
このような詐欺行為で充ち満ちているアメリカ西部を旅するのはなまやさしいことではない。いまここに書いたのはミッチェナーのフィクションだが、時代背景はまさに1840年代そのものだ。
のちに政治学の大著「アメリカン・デモクラシー」を著したフランス人トクヴィルは、若いころ友人のボモンと一緒にまさにこのピッツバーグからケアロまでオハイオ川を蒸気船でくだっている。ときは1831年、オハイオ川を下降中、このようなことが起こった。順調にくだっているかのように見えた蒸気船の甲板に突如、亀裂が入る。船が動けなくなる。浅瀬で突起物につきあたったのだった。その船は沈みはじめるが、乗船客と乗組員は運良く通りかかった別の船に救助された。強盗、詐欺以外にも気をつけなければならないものが多く、まさに命がけの旅だった(ダムロッシュ「トクヴィルが見たアメリカ」)。
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