新・日曜炭焼き人の日記

炭遊舎のホームページで書いていた「日曜炭焼き人の日記」を引きついで書いていきます。

マゼランとコロンブス

2015年02月01日 | 日記

 マガリャンイス(マゼラン)はポルトガル生まれだが、ポルトガル国王から冷淡にあしらわれ、隣国カスティーリャ王の庇護を受けて世界一周の航海に乗りだした。当時ポルトガルはヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を発見し、西回りでの香料諸島探索には二の足を踏んでいた。
 ところが1960年にリスボン近郊のベレン地区に設立された発見のモニュメントで、マガリャンイスは東側の先頭から6番目という高い位置を与えられている。先頭にはエンリケ航海王子、それからアフォンソ5世、ヴァスコ・ダ・ガマ、カブラルともうひとりがいてマガリャンイスになる。カブラルは喜望峰をめざしていたとき海流で西へ流され、偶然ではあったが結果としてブラジルを発見した功績をたたえられている。
 ポルトガル国王から拒否されてカスティーリャへ赴いたマガリャンイスの、現代ポルトガルでのこの地位の高さをどのように解釈するべきだろうか。ポルトガルというせまい枠にとらわれず、イベリア半島全体を1つの共同体として考えたのかもしれないが、それにしては他の人選がポルトガル人だけになっているようだ。マガリャンイスは1960年までのどこかの時点で名誉を回復したのだろうか。
 コロン(コロンブス)についてはどうか。彼はイタリア、ジェノヴァの生まれでリスボンで多くを学んだとされている。ジェノヴァは当時ヴェネチアと海運業において覇権を争っていた。リスボンにもジェノヴァ人のコミュニティーができていた。スペイン語を学び、当時の最先端をいく世界観、航海術を学んだのはこのリスボンにおいてだった。そしてポルトガル国王に西方経由でのインド航海への援助を願い出たが却下され、やむなくカスティーリャの女王を頼ったのだった。歴史的に見ればコロンブスは世界的ヒーローになったが、リスボン郊外にある発見のモニュメントにはもちろんその彫像は見あたらない。
 ポルトガル国王から冷淡にあつかわれてカスティーリャ国王に援助を要請した点では変わりがないのだが、この二人マガリャンイスとコロンは発見のモニュメント作成の時点において、出生国の違いだけで差別されたのだろうか。疑問が残る。






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