新・日曜炭焼き人の日記

炭遊舎のホームページで書いていた「日曜炭焼き人の日記」を引きついで書いていきます。

アラスカをセスナ機から眺めよう

2016年09月28日 | 日記


 アラスカの自然を満喫しようと思えば、セスナ機に乗って飛ぶしかない。写真はアラスカ最北部を鳥瞰したもの。アラスカ州全体では大小織りまぜて300万を数えるという湖沼がツンドラのなかに見える。海辺には100万の島が散らばる。
 むかし西側諸国の飛行機は日本からヨーロッパへ行くのにアンカレッジを経由していた。いまほど飛行機の性能がよくなかった時代、かならず途中で給油する必要があった。それにソ連や東ヨーロッパの上空は自由に飛べなかった。
 イギリスからの帰り、アンカレッジの空港で買いものする機会があり、なにも考えずにサーモンの燻製を買ったものだった。サーモンはアラスカの名産だった。
 そのサーモン、はたしてどのような経緯でアラスカの名産になったのか。内陸部のドーソンで金鉱が、海岸のノームで砂金が見つかり一時期沸いたが、すぐに脈がつきてしまった。そのときシアトルの資本家たちが目をつけたのが海に豊富に存在するサーモンだった。
 カナダ領内の淡水湖で産まれ、太平洋に出て5年間遊泳したのち、また産まれた淡水湖へ戻って産卵する。その産卵するために戻ってきた何百万尾にも及ぶサーモンを根こそぎ捕獲することを考えた人たちがいた。シアトルの資本家とその企業だった。首都ワシントンに根回しし、アラスカの地から搾取する方法を確立した。
 漁師が釣り針で釣るならよいのだが、そうではない。巨大な漁獲機を川の入り口に浮かべ、産卵のために川に戻ろうとするサーモンを片端から一匹残らず捕まえてしまう。それを工場へ回して缶詰にする。工場制手工業が始まった時期でもあった。
 鮭の水煮やみそ煮の缶詰などいまもよく売れている。どのように作られるのか考えたことがあるだろうか。このころからすでに鮭缶は、生のまま調理されて缶詰にされ、缶に詰めた状態でボイルされていた。ボイルされた缶にラベルを貼ればできあがりだ。
 現地の工場で大量生産されたサーモンの缶詰は、アメリカ国内のみならず全世界に輸出された。しかしそれによって得られた利益はすべてシアトルの資本家が独り占めし、アラスカの人びとには分配されなかった。
 シトカの近く、ジュノーの近郊でサーモン関連産業が栄えていた。
 のちに鉄道が開通し、アンカレッジからフェアバンクスにも人が集まる。また第2次大戦中にはカナダのエドモントンからアラスカのフェアバンクスにいたるハイウェイが開通している。ハイウェイといっても車が走れる程度の舗装しない道路をやっつけ仕事で作り上げただけだった。
 上の地図はグーグルマップから、アラスカのようすは「アメリカの司馬遼太郎」ともいえる作家ジェームズ・ミッチェナーによる。