新・日曜炭焼き人の日記

炭遊舎のホームページで書いていた「日曜炭焼き人の日記」を引きついで書いていきます。

「ハワイ」

2016年07月05日 | 日記

 ジェームズ・ミッチェナーの大作「ハワイ」は、フィクションでありながらハワイの成り立ちを知るうえでとても役立つ。
 ハワイの人種構成。先住民としてはタヒチ近くのボラボラ島から宗教上の対立を逃れて渡ってきたポリネシア系の人種がいた。王をいただく王国を築いていた。1800年を過ぎたころアメリカ、ボストンから宣教師の一団が渡ってきた。ハワイにキリスト教を根づかせることが目的だった。結局はこのキリスト教徒たちが先住民たちの宗教を駆逐したが、ハワイでの生活に実利を見いだし、商業、貿易に乗りだしたために、ハワイではアメリカ的考え方が支配的になり、最終的にはこれらミッション系ファミリーがハワイでの財閥を形成し、ハワイ全土を君臨する。19世紀前半には中国、マカオ付近から渡ってきた中国人の一族がいた。先住民やアメリカ系と交わらないで厳しい生活をしながら小銭を貯めていった。家系はねずみ算式にその人員をふやし、1900年代はじめに総勢150人近くになる。レストラン経営、農園労働者などしながらしだいに子どもを学校へ入れ、合衆国本土の大学へと送り出すようになる。日本からの移民は1900年代に入ってから始まる。やはり他の人種と交わることを嫌い、日本から結婚相手を呼び寄せる。
 ところがその2世たちになると、ハワイ生まれのハワイ育ち、ハワイの白人たちが通う学校で教育を受け、親の世代と決別しようとする。太平洋戦争では自分たちがアメリカに忠誠であることを示そうとアメリカ軍に入隊する。
 結婚という問題になると、中国人も日本人も先住民やアメリカ系白人と交わることをかたくなに拒絶している。ミッション系ファミリーも自分たちの純血を保とうとする傾向は強いが、先住民を妻に迎え、土地に同化しようという意識を見せているのと対照的だ。

 地理的にはハワイ州のなかで、ボラボラ島からの先住民たちがまず住み着いたのはマウイ島のラハイナ地区だった。隣にあるマラカイ島の一部はハンセン病が流行ったときの「捨て場」になった。患者たち自身の努力によりまともな収容所施設がつくられたのは少し後のことだ。19世紀半ばからはオアフ島のホノルルに白人たちの有力な家系が集まり、ハワイ全体の首都となる。パールハーバーはホノルルに近く形のよい入り江で、アメリカ海軍が古くから拠点にしていた。なおこのオアフ島は南側半分が乾燥地で水がなく、北側半分は雨量が多かった。19世紀半ば、あるアメリカ人技術者が手作業で井戸を掘り、農業用水の一部を確保した。さらに島のアメリカ系財閥が北部に豊富にある水を南部へ引いてくるためのトンネルを掘った。これにより島の南側の農業が飛躍的に発展する。
 火山の噴火が生み出したハワイ諸島は、自然の美に富む楽園のイメージがあ