極私的デンデケデケデケ

音楽との出会いからバンド活動を辞め、社会人になるまでをつづっております

89年90年の活動

2006-01-04 10:17:26 | Weblog
前にも書いたが、89年90年の活動も前3年と同様、リハーサルと時々のライブしかなかった。ライブは単独で都内ライブハウスで行われた。注目されることはなかった。客も増えなかった。単独ライブの他に、事務所に所属する複数のアーチストといっしょにライブをすることもあった。この事務所主催ライブは記憶が確かならば3回は出ている。当時ちょっとは売れていた歌手や、90年以降ちょっとは売れる歌手や、現在芸名を変えて売れている歌手などが出ている。私が単独で唄う曲も増えていた。ライブは私の唄う「環七フィーバーズ」で始まり、2曲目から青柳が登場するというパターンが多かった。「環七フィーバーズ」は「御当地ソング」である。必ず、その土地のフレーズをどこかに入れて毎回作詞した。と、いってもこのパターンになったのは、バンド終了までの数回である。本牧パターンや浅草パターンなどがあった。

もともとは青柳の叫んだ「環七フィーバー」という言葉から出ている。したがって、この歌詞は青柳との共作である。「椅子のないバスがオレゴンへ還っていく」というフレーズも青柳の作だ。

この「環七フィーバー」という言葉は、その後ギターウルフの作品で使われたが、青柳の話によると、

「ギターウルフが環七フィーバーを使っていいか、と聞いてきたので、いいぜ、答えた」そうである。

御当地ソングにする前の原形「環七フィーバーズ」の歌詞を次回御紹介します。
コメント
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