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たけじいの気まぐれブログ

記憶力減退爺さんの日記風備忘雑記録&フォト

葉室麟著 「銀漢の賦」

2024年01月15日 16時00分36秒 | 読書記

図書館から借りていた、葉室麟著 「銀漢の賦(ぎんかんのふ)」(文藝春秋)を読み終えた。本書は、江戸時代、老中松平定信が治世していた頃の、著者創作の北九州あたりの小藩月ヶ瀬藩を舞台にした長編時代小説である。藩主と家老の確執、藩内の権力争い、政争に巻き込まれた人々、日下部源五、松浦将監、十蔵、三人の男の友情のあり方と顛末、小藩の新田開発の意味、松浦家の美人姉妹志乃、みつを巡る人間関係とそれぞれの思いの交錯等々、様々な切り口が絡み合いながら巧妙に展開する、読み応え有る作品だと思う。
        (注)2007年に、第14回松本清張賞を受賞している作品。

▢主な登場人物
日下部(くさかべ)源五・さき、たつ、
松浦将監(しょうげん、岡本小弥太、松浦月堂)・みつ、享(すすむ)、三五郎、伊藤重輔、
十蔵・たみ、蕗(ふき)、
松浦兵右衛門、志乃、みつ、
岡本弥太郎・千鶴、小弥太、
藤森吉四郎
津田伊織・たつ、
藩主浅川惟忠(これただ)・惟孝、山崎多聞、
磯貝駒右衛門、辻勘五郎、
松本五郎右衛門、
鷲巣角兵衛、鷲津清右衛門、稲葉又兵衛、
九鬼夕斎(九鬼大膳)
老中松平定信、柴野栗山
谷文晁(谷文五郎)

▢あらすじ・感想等
物語は、家老である松浦将監(小弥太)が、郡方の日下部源五の案内で、月ヶ瀬藩と隣藩森岡藩の国境、風越峠を訪れ、すでに絶縁状態になって久しい源五に、「源五よ、わしは間も無く名家老どころか、逆臣と呼ばれることになるぞ」と、つぶやくところから始まっている。
源五が、苦い感慨とともに、少年時代から回想していくという構成になっている。
日下部源五と岡本小弥太が始めて出会ったのは、貫心流の磯貝駒右衛門の道場だった。源五と小弥太が道場で知り合ったその日に、笹原村の百姓十蔵とも知り合いになり、三人は、友としての絆を深めていくが、やがて、小弥太は、松浦家の養子婿に入り、家老職にまで上りつめていき、ある時を境に、それぞれ絶縁する事態に至るのだった。
源五、小弥太、十蔵の三人が、まだ13~14歳だった頃、一緒に、祇園神社と呼ばれる高原神社の夏祭りに出掛け、満天の星空を見上げ、その時、小弥太がなにげなく、「知っておるか、天の川のことを銀漢というのを」と言う。
宋の詩人・蘇軾の「中秋月」
  暮雲收盡溢清寒
  銀漢無聲轉玉盤
  此生此夜不長好
  明月明年何處看
の一節、「銀漢声無く玉盤を転ず」から用いたものだが、本書の最後の段階で、著者は、源五に、「銀漢とは、天の川のことなのだろうが、頭に霜を置き、年齢を重ねた漢(おとこ)も銀漢かもしれんな」と語らせている。
少年時代に、身分差を超えて友となった三人の男達だったが、成人後は、あることを契機に友であることを断絶して、それぞれの生き方をとる。幾星霜の果てにも心の友としての絆が絶えてはいなかった。著者は、この物語の底流を表象するのに、「銀漢」という言葉を選んでいるのだった。

源五は、普請組五十石の家の子で、鉄砲衆を経て、新田開発指導の群方という役目の下級武士だったが、小弥太も少年時代は、普請組七十石の家の子だった。小弥太の父親弥太郎は、江戸で側用人だったが、何者かに斬殺され、岡本家は半知となり、母親千鶴とともに国に戻ってきていたのだった。
家老となった将監と藩主浅川惟忠との確執、儒学者で側用人の山崎多聞の画策、幕閣の一員に入りたい一心の藩主惟忠、国替えを推し進める幕府の裏の理由とは?
源五に、上意討ち?、暗殺?、命令、・・・、家老松浦将監に、隠居命令?
先の家老九鬼大膳を失脚切腹に追い込んだ将監だったが、追い込まれている?
月ヶ瀬藩に何が起ころうとしているのか?、
将監は、命を賭ける・・・、
源吾の腹は決まる・・・。
山中の死闘・・・、
すべてが収まって、命が繋がった源五は、すっかり荒れ果てた九鬼大膳(夕斎)の隠居所だった鷹島屋敷の屋敷番となった。夕斎が死んだのは、20年前、松浦将監もこの夏死んだ。
「将監も、もうこの世にいないのか」、
襲う寂しさ、孤独感。ふっと、茶室に、女中、蕗(ふき)が入ってきた。
「わしは、なにも聞いておらんぞ」・・・・・、
「小弥太よ、そちらへ行くのは、十年ほど遅れるぞ、勘弁せい」
月は耿々と輝いている。

 


「蘇州夜曲」

2024年01月15日 09時44分30秒 | 懐かしいあの曲

gooブログの「アクセス解析」の「アクセスされたページ」欄を、時々覗くことがある。「アクセス数」を気にしてでのことではなく、すっかり忘れてしまっているような、随分前に書き込んだ古い記事にアクセスが有ったりするのを、楽しみにチェックしている風なのだ。
そんな記事に目に止まった瞬間、「エッ、こんな記事にアクセス?」と驚くと同時に、「そう言えば・・・・」、記憶が蘇り、つい、自分もクリックし、改めて読み返してみたりしているのだ。
「gooブログ」=「記憶力がまるで無くなっている爺さんの自分のための記憶補助ツール」と決め込んでいる爺さんには、「アクセス解析」もまた、便利で有難いツール、大いに活用しているという次第。
先日、6年前に、ブログ・カテゴリー「懐かしいあの曲」に書き留めていた記事、「蘇州夜曲」にアクセスが有ったことに気が付いた。
「おお!、懐かしい!」・・、早速、コピペ、リメイクすることにした。
そんな古い記事を、クリックひとつで引っ張り出して読んだり、加筆、訂正、修正、コピペ、リメイク等が出来るのも、ブログのメリット。従来の紙ベースの日記、日誌、備忘録、懐古録、雑記録の類では、絶対考えられないことであり、ブログを始める前までは、想像も出来なかったことである。今、出来ることは、やってみる・・、長生きした分、その時代を少しでも享受したいものだ等と、つぶやきながら・・・。


「蘇州夜曲」(再)

かれこれ18年前になる、2005年12月に、当時、次男が駐在していた中国の蘇州を、訪ねたことが有った。海外旅行等不慣れな老夫婦、まだまだ自営業を続けていた頃でもあり、時間的、経済的に余裕も無かった頃だったが、「今、行くしか無し」と、清水の舞台から飛び降りる思いで、出掛けたものだった。
日本語で通じる添乗員付きのツアー旅行ならまだしも、中国語たるや、「ニーハオ」、「シェイシェイ」、「ハウチー」位しか知らない老夫婦のこと、航空券の手配、ホテルの手配等は旅行会社にしてもらい、次男には、上海浦東空港まで迎えに来てもらい、送ってもらうまで、何から何まで次男を頼った旅だった。中国滞在中は、鉄道、路線バス、タクシーで移動し、乗り方も分からず、上海や蘇州の街中をそぞろ歩き、食堂や土産店に入り、駅の待合室で並んだり、一般の観光ツアー旅行では味わえない体験が出来、それぞれ思い出になっている。
確か、蘇州で、2泊したはずだが、次男の案内で、蘇州の名所旧跡を1日掛けて巡った写真が有る。記憶があてにならない老脳であるが、訪ねた先々で撮った写真を見ると、記憶が蘇ってくる。
つい先日のことだったような、ずいぶんと昔のことだったような思いがする。
蘇州で訪ねた先の一つに 「寒山寺」が有る。
戦前の歌謡曲「蘇州夜曲」の歌詞に出てくる有名な地名だが、実際に訪れることが出来て感激し、旅情に浸ったものだった。


「寒山寺」
参観券=20元(約300円)、
小雪が舞う 寒さ厳しい中、日曜日とて、参拝客、観光客で大賑わいでした。

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「楓橋夜泊(ふうきょうやはく)」 張継(ちょうけい)

月落ちて(つきおちて)烏(からす)啼(な)きて霜(しも)天に満つ、
江楓(こうふう)の漁火(ぎょか)愁眠(しゅうみん)に対(たい)す。
姑蘇城外(こそじょうがい)の寒山寺(かんざんじ)、
夜半(やはん)の鐘声(しょうせい)客船(かくせん)に到(いた)る。

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今更になってネットで調べてみると、
「蘇州夜曲」は、1940年(昭和15年)に公開された映画「支那の夜」の劇中歌として、主演の李香蘭(山口淑子)の歌唱を前提に、作詞 西條八十、作曲、服部良一、で発表された歌謡曲だったが、同年に、渡辺はま子・霧島昇歌唱のレコードが発売されたのだという。

「蘇州夜曲」 (YouTubeから共有)

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