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たけじいの気まぐれブログ

記憶力減退爺さんの日記風備忘雑記録&フォト

忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は 物や思ふと 人の問ふまで

2023年10月19日 17時20分15秒 | 懐かしい小倉百人一首

足腰大丈夫な内に、出来る限り不要雑物整理をしようと決心してから久しいが、正直あまり捗っていない。書棚や天袋、押入れ等に詰め込まれていた古い書籍や辞書、百科事典等の類も、ここ数年間で大胆に整理処分してきたつもりだが、中には、「これ、面白そう?」等と目に止まり、残してしまったものも結構有る。その中のひとつに、多分、長男か次男かが、学生時代に使っていたものに違いない、小町谷照彦著 文英堂の「小倉百人一首」(解説本・参考書)が有る。パラパラとページを捲ってみたところ、なかなか詳しく、分かりやすく、決して、「今更 向学心?」なーんてものではなく、子供の頃、作者や歌意も分からないまま、「けふ、けふ、けふ・・」「なほ、なほ、なほ・・・」等と、正月になると必ず家族でやっていた「百人一首かるた取り」を思い出して懐かしくなってしまったからで、今更になって、「へー!、そういう歌だったのか・・」、目から鱗・・になっているところだ
「小倉百人一首」は、奈良時代から鎌倉時代初期までの百人の歌人の歌を、藤原定家の美意識により選び抜かれた秀歌であるが、時代が変わっても、日本人の心情が呼び起こされるような気がしてくる。
ブログネタに?、頭の体操に?、いいかも知れない等と思い込んでしまい、2~3年前、「春」、「夏」、「秋」、「冬」、季節を詠んだ歌を取り上げて、ブログ・カテゴリー 「懐かしい小倉百人一首」に書き留めたが、続いて、最も数の多い、「恋」を詠んだ歌を取り上げて、順不同、ボツボツ、書き留めてみることにしている。
しばらく中断していたが、秋も深まりつつある季節、再開することにした。


百人一首で「恋」を詠んだ歌 その31

忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は
物や思ふと 人の問ふまで

出典
拾遺集(巻十一)

歌番号
40

作者
平兼盛

歌意
誰にも知られまいと、恋しい思いを、包み隠していたけれども
私の恋心は、とうとう顔色や表情に表れてしまったことよ。
「恋の物思いをしているのか」と、人が怪しんで尋ねるほどまでに。

注釈
「忍ぶれど」は、「心の中でこらえていたが」の意。
「色」は、「顔色」「様子」の意。
「出(い)でにけり」の「けり」は、詠嘆の助動詞、
「物や思ふと」は、「何か物思いをしているのですか、と」、・・の意。
「人の問うまで」の「の」は、主語を示す格助詞。

天徳4年(960年)、村上天皇、左大臣藤原実頼等が参列して
行われた、「天徳内裏歌合(てんとくだいりうたあわせ)」に
出された歌で、壬生忠見(みぶのただみ)と争って勝った歌。


平兼盛(たいらのかねもり)

光孝天皇の曾孫で歌人の平篤行の子供、
三十三歌仙の一人
天暦4年(950年)以降、山城介、駿河守等に、任じられた。


振り返り記事
「壬生忠見(みぶのただみ)」
👇
こちら


参照・引用
小町谷照彦著「小倉百人一首」(文英堂)

 


(つづく)

コメント (2)

わが袖は 潮干に見えぬ 沖の石の 人こそ知らね かわく間もなし

2023年10月15日 09時10分13秒 | 懐かしい小倉百人一首

足腰大丈夫な内に、出来る限り不要雑物整理をしようと決心してから久しいが、正直あまり捗っていない。書棚や天袋、押入れ等に詰め込まれていた古い書籍や辞書、百科事典等の類も、ここ数年間で大胆に整理処分してきたつもりだが、中には、「これ、面白そう?」等と目に止まり、残してしまったものも結構有る。その中のひとつに、多分、長男か次男かが、学生時代に使っていたものに違いない、小町谷照彦著 文英堂の「小倉百人一首」(解説本・参考書)が有る。パラパラとページを捲ってみたところ、なかなか詳しく、分かりやすく、決して、「今更 向学心?」なーんてものではなく、子供の頃、作者や歌意も分からないまま、「けふ、けふ、けふ・・」「なほ、なほ、なほ・・・」等と、正月になると必ず家族でやっていた「百人一首かるた取り」を思い出して懐かしくなってしまったからで、今更になって、「へー!、そういう歌だったのか・・」、目から鱗・・になっているところだ。
「小倉百人一首」は、奈良時代から鎌倉時代初期までの百人の歌人の歌を、藤原定家の美意識により選び抜かれた秀歌であるが、時代が変わっても、日本人の心情が呼び起こされるような気がしてくる。
ブログネタに?、頭の体操に?、いいかも知れない等と思い込んでしまい、2~3年前、「春」、「夏」、「秋」、「冬」、季節を詠んだ歌を取り上げて、ブログ・カテゴリー 「懐かしい小倉百人一首」に書き留めたが、続いて、最も数の多い、「恋」を詠んだ歌を取り上げて、順不同、ボツボツ、書き留めてみることにしている。
しばらく中断していたが、秋も深まりつつある季節、再開することにした。


百人一首で「恋」を詠んだ歌 その30

わが袖は 潮干に見えぬ 沖の石の
人こそ知らね かわく間もなし

出典
千載集(巻十二)

歌番号
92

作者
二条院讃岐

歌意
私の着物の袖は、潮の引く時にも、
水面に現れない沖の(海中の)石のように
人は(あなたは)知らないでしょうが、
(あなたを恋い慕って、涙で)
乾く暇もありませんよ。

注釈
「潮干(しおひ)に」は、「潮が引く時に」の意。
「見えぬ沖の石の」は、「潮が引いても見えない沖の石(海中の石)の」の意。
「人こそ知らね」の「人」は、世間一般の人とも、恋する相手ともとれるが
恋する相手と解釈したい。
「ね」は、打ち消しの助動詞、「けれども」の意。
「かわく間もなし」は、「いつも濡れ通しで、乾く暇が無い」の意。

「千載集」の「詞書(ことばがき)に、
「寄石恋」(石に恋寄する)と有り、
「沖の石(海中の石)」に、自分自身の姿を感じるという
独創的な発想で生まれた歌であることが分かる。
この歌により、作者は、後世の人に
「沖の石の讃岐」等とも呼ばれ、讃えられたと言われている。


二条院讃岐(にじょういんさぬき)

源三位頼政(げんざんみよりまさ)の娘。
第78代天皇、二条天皇に仕え、女房名を「讃岐」と呼ばれていた。
その後、第82代天皇、後鳥羽天皇の中宮宣秋(ぎしゅう)
門院任子(にんし)に仕えたとも言わている。
「千五百番歌合」にも加えられ、
式子内親王と並ぶ、当代一流の女流家人だった。
家集に「二条院讃岐集」が有る。


(蛇足)
二条院讃岐の「わが袖は・・・」を捩った川柳

人こそ知らねかわく間も嫁はなし

お姑さんにいじめられでもしたのか、
嫁が物陰に隠れて人知れず泣いている
の意の句


参照・引用
小町谷照彦著「小倉百人一首」(文英堂)


(つづく)


筑波嶺の みねより落つる みなの川 こひぞつもりて 淵となりぬる

2023年10月09日 08時56分27秒 | 懐かしい小倉百人一首

足腰大丈夫な内に、出来る限り不要雑物整理をしようと決心してから久しいが、正直あまり捗っていない。書棚や天袋、押入れ等に詰め込まれていた古い書籍や辞書、百科事典等の類も、ここ数年間で大胆に整理処分してきたつもりだが、中には、「これ、面白そう?」等と目に止まり、残してしまったものも結構有る。その中のひとつに、多分、長男か次男かが、学生時代に使っていたものに違いない、小町谷照彦著 文英堂の「小倉百人一首」(解説本・参考書)が有る。パラパラとページを捲ってみたところ、なかなか詳しく、分かりやすく、決して、「今更 向学心?」なーんてものではなく、子供の頃、作者や歌意も分からないまま、「けふ、けふ、けふ・・」「なほ、なほ、なほ・・・」等と、正月になると必ず家族でやっていた「百人一首かるた取り」を思い出して懐かしくなってしまったからで、今更になって、「へー!、そういう歌だったのか・・」、目から鱗・・になっているところだ。
「小倉百人一首」は、奈良時代から鎌倉時代初期までの百人の歌人の歌を、藤原定家の美意識により選び抜かれた秀歌であるが、時代が変わっても、日本人の心情が呼び起こされるような気がしてくる。
ブログネタに?、頭の体操に?、いいかも知れない等と思い込んでしまい、2~3年前、「春」、「夏」、「秋」、「冬」、季節を詠んだ歌を取り上げて、ブログ・カテゴリー 「懐かしい小倉百人一首」に書き留めたが、続いて、最も数の多い、「恋」を詠んだ歌を取り上げて、順不同、ボツボツ、書き留めてみることにしている。
しばらく中断していたが、秋も深まりつつある季節、再開することにした。


百人一首で「恋」を詠んだ歌 その29

筑波嶺の みねより落つる みなの川
こひぞつもりて 淵となりぬる

出典
後撰集(巻十一)

歌番号
13

作者
陽成院

歌意
筑波山の峰から流れ落ちる、みなの川のわずかな水が
集まって、川となり淵を作るように
私の恋心も、だんだんと積もり積もって、
今では、淵のように深いものなってしまいましたよ。

注釈
「筑波嶺のみね」=「嶺」と「峰」、同じ意味の語を重ねたもの。
「筑波山」=茨城県に有る、標高876mの山、
山頂が東西に分かれて2峰有り、「女体山」「男体山」と呼ばれる。
古代から、男女が歌を詠み交わし、求婚し合った
「歌垣(うたがき)」の行事で知られていて、
「万葉集」以来、「歌枕」(歌の中に古来詠み込まれた名所)と
なっていた。
「みなの川」=筑波山が水源地の川、
「男女川・水無川(みなのがわ)」と書かれる。
「淵」=川の深い所、浅い所は、「瀬」と呼ぶ
深い恋心を、川の縁語で、「淵」と表現している。

この歌の詞書(ことばがき)には
「釣殿(つりどの)の皇女(みこ)につかはしける」
と有る。
「釣殿」とは、光孝天皇の御所のことで、
「皇女」とは、光孝天皇の長女、
綵子内親王(すいしないしんのう)のこと。
内親王に対する、ほのかな恋心が、
やがて抑えきれない激しい恋心になっていく過程を歌ったもの。
綵子内親王は、後に、陽成院の妃になっている。


陽成院(ようぜいいん)

第56代清和天皇の皇子、
10歳で即位したが、摂政藤原基経との関係がうまくいかず
心の病にかかり、17歳で譲位、
以後、太上天皇(だいじょうてんのう)と呼ばれた。
奇行が多かった人物だったが、
老境に入ってから、文芸上の事績を残している。


参照・引用
小町谷照彦著「小倉百人一首」(文英堂)


(つづく)


逢ふことの 絶えてしなくは なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし

2023年10月04日 11時19分27秒 | 懐かしい小倉百人一首

足腰大丈夫な内に、出来る限り不要雑物整理をしようと決心してから久しいが、正直あまり捗っていない。書棚や天袋、押入れ等に詰め込まれていた古い書籍や辞書、百科事典等の類も、ここ数年間で大胆に整理処分してきたつもりだが、中には、「これ、面白そう?」等と目に止まり、残してしまったものも結構有る。その中のひとつに、多分、長男か次男かが、学生時代に使っていたものに違いない、小町谷照彦著 文英堂の「小倉百人一首」(解説本・参考書)が有る。パラパラとページを捲ってみたところ、なかなか詳しく、分かりやすく、決して、「今更 向学心?」なーんてものではなく、子供の頃、作者や歌意も分からないまま、「けふ、けふ、けふ・・」「なほ、なほ、なほ・・・」等と、正月になると必ず家族でやっていた「百人一首かるた取り」を思い出して懐かしくなってしまったからで、今更になって、「へー!、そういう歌だったのか・・」、目から鱗・・になっているところだ。
「小倉百人一首」は、奈良時代から鎌倉時代初期までの百人の歌人の歌を、藤原定家の美意識により選び抜かれた秀歌であるが、時代が変わっても、日本人の心情が呼び起こされるような気がしてくる。
ブログネタに?、頭の体操に?、いいかも知れない等と思い込んでしまい、2~3年前、「春」、「夏」、「秋」、「冬」、季節を詠んだ歌を取り上げて、ブログ・カテゴリー 「懐かしい小倉百人一首」に書き留めたが、続いて、最も数の多い、「恋」を詠んだ歌を取り上げて、順不同、ボツボツ、書き留めてみることにしている。
しばらく中断していたが、秋も深まりつつある季節、再開することにした。


百人一首で「恋」を詠んだ歌 その28

逢ふことの 絶えてしなくは なかなかに
人をも身をも 恨みざらまし

出典
拾遺集(巻十一)

歌番号
44

作者
中納言朝忠

歌意
もし、逢う(深い関係になる)ということが
全く無かったならば
かえって、相手(あなた)をも、自分をも
恨まないでいるであろうに

注釈
「逢ふ」=男と女が深い関係になること、
「絶えて」=「少しも、全く」、の意の副詞、
「しなくは」の「し」は、強調の副助詞、
「は」は、接続助詞「ば」を、発音の都合で清音したもの
「なかなかに」=「かえって」の意の形容動詞、
「人をも身をも」の「人」は相手の女性、「身」は作者自身のこと、
「恨み」=相手の冷淡さ、自分自身不甲斐なさに対する恨み、
「ざらまし」の「ざら」は、打ち消しの助動詞「ず」の未然形。
「まし」は、推量の助動詞、


中納言朝忠(ちゅうなごんあさただ)

三十六歌仙の一人、藤原朝忠
三条右大臣藤原定方の次男、
42歳で中納言となり、土御門中納言等とも呼ばれた。
笙(しょう)の名手だったとも言われ、
武官として華やかな恋愛談が伝わっている。


参照・引用
小町谷照彦著「小倉百人一首」(文英堂)


(つづく)


百人一首で「秋」を詠んだ歌(まとめ)

2023年07月15日 17時38分34秒 | 懐かしい小倉百人一首

「小倉百人一首」で、「秋」を詠んだ歌と言われているものは、「季節」を詠んだ歌の中では最も多く、一般的に、14首とされているようだ。今も昔も、秋は、日本人の心情を映す季節なのかも知れない。これまで、ブログ・カテゴリー「懐かしい小倉百人一首」に書き留めてきた記事を振り返り、「秋」を詠んだ歌を抽出して、まとめてみた。


百人一首で「秋」を詠んだ歌

さびしさに 宿を立ち出でて なぐむれば いづこも同じ 秋の夕暮れ ⇨ こちら

あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の 長々し夜を ひとりかも寝む ⇨ こちら

奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋は悲しき ⇨ こちら

小倉山 峰のもみじ葉 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ ⇨ こちら

村雨の 露もまだひぬ まきの葉に 霧立ちのぼる 秋の夕暮れ ⇨ こちら

秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ ⇨ こちら

きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかも寝む ⇨ こちら

秋風に たなびく雲の 絶え間より もれ出づる月 影のさやけき ⇨ こちら

八重むぐら 茂れる宿の さびしきに 人こそ見えね 秋は来にけり ⇨ こちら

月見れば 千々に物こそ 悲しけれ わが身一つの 秋にはあらねど ⇨ こちら

このたびは ぬさもとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに ⇨ こちら

山川に 風のかけたる しがらみは 流れもあへぬ 紅葉なりけり ⇨ こちら

ちはやぶる 神代も聞かず 龍田川 からくれないに 水くくるとは ⇨ こちら

みよし野の 山の秋風 さ夜更けて ふるさと寒く 衣うつなり ⇨ こちら

 


百人一首で「夏」を詠んだ歌(まとめ)

2023年05月10日 08時35分27秒 | 懐かしい小倉百人一首

「小倉百人一首」で、「夏」を詠んだ歌と言われているものは、一般的に、4首とされているようだ。これまで、ブログ・カテゴリー「懐かしい小倉百人一首」に書き留めてきた記事を振り返り、まとめてみた。


百人一首で「夏」を詠んだ歌

春過ぎて 夏来にけらし  白妙の 衣干すてふ  天の香久山 ⇨ こちら

ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただ有明の 月ぞ残れる ⇨ こちら

夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月やどるらむ ⇨ こちら

風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける ⇨ こちら


 


百人一首で「春」を詠んだ歌(まとめ)

2023年02月08日 15時25分39秒 | 懐かしい小倉百人一首

「小倉百人一首」で、「春」を詠んだ歌と言われているものは、一般的に、9首とされている。これまで、ブログ・カテゴリー「懐かしい小倉百人一首」に書き留めてきた記事を振り返り、まとめてみた。


百人一首で「春」を詠んだ歌

君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪は降りつつ ⇨ こちら

人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける ⇨ こちら

いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな ⇨ こちら

久方の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ ⇨ こちら

花の色は 移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせし間に ⇨ こちら

春の夜の 夢ばかりなる 手枕に かひなく立たむ 名こそ惜しけれ ⇨ こちら

高砂の 尾の上の桜 咲きにけり 外山の霞 立たずもあらなむ ⇨ こちら

花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり ⇨ こちら

もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし ⇨ こちら


 


百人一首で「冬」を詠んだ歌(まとめ)

2023年01月24日 09時26分43秒 | 懐かしい小倉百人一首

「小倉百人一首」で、「冬」を詠んだ歌と言われているものは少なく、一般的に6首とされている。これまで、ブログ・カテゴリー「懐かしい小倉百人一首」に書き留めてきた記事を振り返り、まとめてみた。


百人一首で「冬」を詠んだ歌

心あてに 折らばや折らむ 初霜の おきまどはせる 白菊の花 ⇨ こちら

田子の浦に うち出でて見れば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ ⇨ こちら

山里は 冬ぞさびしさ まさりける 人目も草も かれぬと思へば ⇨ こちら

朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪 ⇨ こちら

淡路島 かよふ千鳥の 鳴く声に 幾夜寝ざめぬ 須磨の関守 ⇨ こちら

鵲の 渡せる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞ更けにける ⇨ こちら


 

コメント (2)

由良の門を 渡る舟人 かぢを絶え ゆくへも知らぬ 恋の道かな

2022年12月25日 09時42分16秒 | 懐かしい小倉百人一首

足腰大丈夫な内に、出来る限り不要雑物整理をしようと決心してから久しいが、正直あまり捗っていない。書棚や天袋、押入れ等に詰め込まれていた古い書籍や辞書、百科事典等の類も、ここ数年間で大胆に整理処分してきたつもりだが、中には、「これ、面白そう?」等と目に止まり、残してしまったものも結構有る。その中のひとつに、多分、長男か次男かが、学生時代に使っていたものに違いない、小町谷照彦著 文英堂の「小倉百人一首」(解説本・参考書)が有る。パラパラとページを捲ってみたところ、なかなか詳しく、分かりやすく、決して、「今更 向学心?」なーんてものではなく、子供の頃、作者や歌意も分からないまま、「けふ、けふ、けふ・・」「なほ、なほ、なほ・・・」等と、正月になると必ず家族でやっていた「百人一首かるた取り」を思い出して懐かしくなってしまったからで、今更になって、「へー!、そういう歌だったのか・・」、目から鱗・・になっているところだ。
「小倉百人一首」は、奈良時代から鎌倉時代初期までの百人の歌人の歌を、藤原定家の美意識により選び抜かれた秀歌であるが、時代が変わっても、日本人の心情が呼び起こされるような気がしてくる。
ブログネタに?、頭の体操に?、いいかも知れない等と思い込んでしまい、昨年、一昨年、「春」「夏」「秋」「冬」季節を詠んだ歌を取り上げて、ブログに書き留めたが、今回は、最も数の多い、「恋」を詠んだ歌を取り上げて、順不同、書き留めてみることにした。


百人一首で「恋」を詠んだ歌 その27

由良の門を 渡る舟人 かぢを絶え
ゆくへも知らぬ 恋の道かな

出典
新古今集(巻十一)

歌番号
46

作者
曽禰好忠

歌意
(潮の流れの速い)由良の瀬戸を漕ぎ渡っていく舟乗り(船頭)が
楫(かじ)を失って、行く先も分からずに漂うように
これから先、どうしてよいか分からない(頼りない)恋の
行く末であることよ。

注釈
「由良(ゆら)の門(と)」の「由良」は、
和歌山県、兵庫県、京都府に有る地名だが、
作者の任地(丹後)から見て、
京都府の由良川が若狭湾に流れ込む辺りの地名と考えられる。
「門(と)」は、瀬戸、海峡・川口のこと。
「舟人かぢを絶え」=「舟乗り(船頭)が楫(かじ)を速い流れに
奪われた、失った」の意。
「かぢ」=楫(かじ)、櫓(ろ)、櫂(かい)のこと。
「ゆくへも知らぬ恋の道かな」=「頼りない、恋のなりゆき」の意。
「ゆくへ(行方)」=行き先。
「恋の道」=恋のなりゆき。
「道」は、「ゆくへ(行方)」「渡る」の縁語。


曽禰好忠(そねのよしただ)

10世紀後半、平安時代の歌人。
時流に反抗する清新進歩的な歌風で、
和歌革新の先駆となった人物。
丹後掾(たんごじょう)であったことから、
曽丹後(そたんご)、曽丹(そたん)等と、呼ばれていた。


参照・引用
小町谷照彦著「小倉百人一首」(文英堂)


(つづく)


安らはで 寝なましものを 小夜更けて かたぶくまでの 月を見しかな

2022年12月19日 09時53分25秒 | 懐かしい小倉百人一首

足腰大丈夫な内に、出来る限り不要雑物整理をしようと決心してから久しいが、正直あまり捗っていない。書棚や天袋、押入れ等に詰め込まれていた古い書籍や辞書、百科事典等の類も、ここ数年間で大胆に整理処分してきたつもりだが、中には、「これ、面白そう?」等と目に止まり、残してしまったものも結構有る。その中のひとつに、多分、長男か次男かが、学生時代に使っていたものに違いない、小町谷照彦著 文英堂の「小倉百人一首」(解説本・参考書)が有る。パラパラとページを捲ってみたところ、なかなか詳しく、分かりやすく、決して、「今更 向学心?」なーんてものではなく、子供の頃、作者や歌意も分からないまま、「けふ、けふ、けふ・・」「なほ、なほ、なほ・・・」等と、正月になると必ず家族でやっていた「百人一首かるた取り」を思い出して懐かしくなってしまったからで、今更になって、「へー!、そういう歌だったのか・・」、目から鱗・・になっているところだ
「小倉百人一首」は、奈良時代から鎌倉時代初期までの百人の歌人の歌を、藤原定家の美意識により選び抜かれた秀歌であるが、時代が変わっても、日本人の心情が呼び起こされるような気がしてくる。
ブログネタに?、頭の体操に?、いいかも知れない等と思い込んでしまい、昨年、一昨年、「春」「夏」、「秋」、「冬」季節を詠んだ歌を取り上げて、ブログに書き留めたが、今回は、最も数の多い、「恋」を詠んだ歌を取り上げて、順不同、書き留めてみることにした。


百人一首で「恋」を詠んだ歌 その26

安らはで 寝なましものを 小夜更けて
かたぶくまでの 月を見しかな

出典
後拾遺集(巻十二)

歌番号
59

作者
赤染衛門

歌意
(あなたがやってくるのを、あてにしなかったならば)
ためらわずに寝てしまいましたでしょうに、
(今か今かとお待ちしている内)
夜が更けて、とうとう西の山に傾く月を見たことでございますよ。
月にこめた、女性の男性に対する恨み、悲しみを歌っている。

注釈
「安らはで」の「安らふ」は、
ここでは、「休息」の意ではなく、「ためらう」の意。
「寝なましものを」=「寝てしまったことだろうに」の意。
「小夜」の「小(さ)」は、美称の接頭語。
「かたぶくまでの」=「(夜が明ける頃となり)月が西山に傾くまでの」の意。
「月を見しかな」=「その月を見るまで寝ないでずっと待ったいた」の意。

「後拾遺集」の「詞書」には、
相手の男性、中関白藤原道隆が訪れると約束した夜、むなしい気持ちで
待ち続けた姉妹の一人のための代作であると記述されている。


赤染衛門(あかぞめえもん)

大江匡衡(おおえのまさひら)の妻
赤染時用(あかぞめときもち)の娘、
父親時用の官名が、右衛門尉(うえもんのじょう)であったことから
赤染衛門と呼ばれた。
藤原道長の妻、倫子(りんし)に仕え、
中宮彰子(しょうし)のもとにも出入りした。
11世紀前後(平安中期)一条天皇の時代、和泉式部と並び称される歌人、
家集に「赤染衛門集」が有る。


参照・引用
小町谷照彦著「小倉百人一首」(文英堂)


(つづく)