「見仏」と「札所巡り」と「仏教少々」

仏像鑑賞と札所巡りと受け売りの仏教を少し

築地本願寺、法話2013.1/14

2013-01-14 19:11:29 | 仏教
今日は、兵庫のほうのお寺の住職。
年齢は40歳前半くらいだろうか。
だじゃれもときどき。話し方が流暢。
話の中で「間」ということをよく話されていたが、
少しつっこみをいれるとすると、
この住職の話し方は、流暢すぎるがゆえに「間」が
なかったという感じがしないでもない。

前日の法話で「人」か「人間」かを話されていたようだ。
人と人の関係(間)があるから人間・・・。
間抜けということばがあるように、間は大切。
仏教用語:無間ということばもある。これは地獄の意味。

本尊とは、ほんとうに尊いこと。
本尊とは、ほんとうに尊いものではない。

自分のお寺に「TVなんでも鑑定団」が来て、
阿弥陀如来の仏像の鑑定をしたところ、
なんと2000万の価値があった。・・・
聴衆からは「ほぉー」と声がもれる。

ここで、「TVなんでも鑑定団」のことは、
うそですと言われた。

言いたかったのは、お金の価値があるということは、
尊いことではないということ。


小さいときからの病気の青年の言葉を引用。
「背負いきれない大きな悲しみ。ポケットの底に広がるような
 小さな喜び。」病気という大きな悲しみがあり、時には
 お見舞いにきてくれた人たちにあう小さな喜びもある。


この住職が、飛行機移動をしていて、
雲の上にいるとき、飛行機がかなりゆれたという。
席の後ろのカップルの女子のほうが
キャーと悲鳴を上げていた。
男子のほうが、「ぼくがいるからだいじょうぶだよ」。
住職は、「そんなわけないやん。飛行機が落ちるときは
落ちんねん。」
でも、これが、いやしというもの。


ここで、問い。
自分を正常と思うか異常と思うか?
→正常のつもりでいるのではないか。
理性を持って、心をおさえつけている。これは正常?
異常では?


病気になったとき、現実を引き受けられない。これが苦。
苦をなくそうとするのではなく、苦しみ、悩みを
自分の中に引き受けていく。というのが仏教の教え。

不安・苦悩がむしろ、生活の活力になる。

苦悩を無くしてあげるというのは、新興宗教のたぐい。

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