「見仏」と「札所巡り」と「仏教少々」

仏像鑑賞と札所巡りと受け売りの仏教を少し

築地本願寺、仏教文化講座2015.12養老氏

2015-12-12 21:25:41 | 仏教
著名人の講演ということで、座席は95%ほどは
うまっているくらいの人の数だった。

養老孟司。

(立て板に水のごとく、よくしゃべる。
 話しながら、小コネタをはさむので
 筆記なかせだった) 

生まれは鎌倉。
住んでいたところは、お寺が所有する土地だった。
鎌倉は、お寺が多いからそうなることも多々ある。


親戚は浄土真宗が多いが、
あるとき、真言宗の葬式に出た。
おぼうさんに、死について興味があるから
聞いてみた。死んだらどうなるの?
→死んだらおしまいよ。
→笑(聴衆)


中高は、カトリック。
(自分がキリスト教徒かどうかの言及は
 ないので信じる宗教が何かは不明だった)

最後の審判(人類の終末に生きている人も
死んでいる人も裁かれる)で、
死んだ自分がぼけた状態なのか
そうじゃないか・・・。

(最期の審判という言葉はキリスト教徒でない
 一般の人にはどういうものか普通わからないと
 思う。後でネットで確認すると意味がわかったが
 聞いたときはやや意味不明だった。)

旧約聖書から始まるキリスト教、イスラム教。
自分の存在がないといけない宗教。
それに対して、仏教は無我といわれるとおり、
意識の中に自分はなくてもよいという発想。

日本人に対して、信じる宗教は何かとアンケート
を取ると圧倒的に無宗教。
記者になぜかと聞かれ、
無宗教の無は、無我の無だから仏教なんじゃないですか。
(一見おもしろい話のようではあるが、単に言葉遊びをして
 いるだけのような気がする。)

40代のころに、「ゆいのうろん」という本を書いたが、
ある仏教の簡略した3行の文に集約されていると
気づいたということもあった。

英語の勉強などで, I am a boy.
みなさん、めんどうくさいとおもいませんか。
Iなんて省略すれば自分だってわかるでしょ。
古いラテン語では、Iは使っていなかったが、
あるときから主語がつくようになった。

西洋人のお宅におじゃますると、
必ず、紅茶にしますかコーヒーにしますか
と聞かれる。
西洋人は選択することが自由だと思っている。
めんどうくさい。
日本だと、何も聞かれなくても普通に
お茶がでてくる。


CWニコルになんで日本に帰化したの?
と聞いたら、宗教からの自由!


若者に言いたい。
自分のしたいことを仕事にしたいというのは、
自分の希望に合った会社に就職したいというのは、
とりあえず10年くらい働いてから後にしてもらいたい。
世の中の多くの人が、
必要にせまられ、しかたなくということで、
人生を選択していくことが多い。


今日は新橋から歩いて、この場所まできた。
体を動かすことは大事。
かつて、沖縄は男性も長寿と言われた。
最近はそうではなくなった。
アメリカ式の食事が悪いというのが一般論だが、
車社会で歩かなくなったのが大きな原因なのではないか。


ねこを13年飼っている。
ねこは絶対音感が鋭い。話せないのは
感覚にたよりきっているからではないか。


人は、人を含めものをひとまとめにしたがる。
世界にひとつだけの花という歌があるが、
その花は、世界にひとつしかないのに
決まっているのに、あえて修飾をつける必要が
ないでしょう。


宗教は、「生きることを教えるべき」
・・・。


「ぼくはおぼうさん」という映画を見た。
88ヶ所めぐり・・・・。
(話が早いのでどういう感想だったか
 筆記がおいつかず。)


世界各地に、ケンタッキーフライドチキンの
店はあるが、世界で日本だけ、
にわとり供養をする。
他に、筆供養とか、針供養・・・とかも日本にはある。
いいことだと思う。


(鼻水をすすりながら)今日はアレルギーが出てきた。
本願寺アレルギーかなぁ。
→(聴衆)笑



*****

今日の講座は、確かに面白いが、
筆記していたせいもあり、細かい笑いについて
いけなかったことも多々あった。

東大名誉教授で、頭もいいのは認める。
話もおもしろい。
ただ、話の深さ、話の内容については
いまいちだったと思う。

仏教についても、学問的な見方もしてくれたが、
一部、卑下するに近い表現もあった。

頭のいい人が、仏教を論じているけど
よりよい生き方のヒントになるような
話はなかったように思う。

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築地本願寺、法話2015.12.6松本氏

2015-12-06 21:35:49 | 仏教
ご縁というシンポジウムで
パネリストとして参加していた僧侶。
前にも法話を聴いたことがある。


法然の弟子が書いた唯信抄という書物がある。
この書物は、よいことは書いているが、
内容が難しいということで、これを親鸞が
分かりやすくした唯信抄文意
という書物について、その引用からの解説。
救いとは、端的に、
転ずること。
帰る場所。
それぞれが輝く。
差別が解体。
、、、、
浄土真宗の教えは、どんな人でも救われる。
悪人でも救われる。(悪人の定義は
難しいところではあるが)
そうだからと言って、
あぐらをかいていていいのか、、、。

ここで、私的な話。
犬を飼っているが、おくびょう。
おくびょうなのでよく吠える。
普段は奥のほうに、いさせている。
そのときは、奥のほうにいなかった。
女性のご門徒さんをかんでしまった。
歯形がつくほど。
本人はいいですよと言ってくれた。
いっしょにいたお母さんは怒っていた。
管理ができていない。謝った。そのあと
その女性のだんなさんから
電話がかかってきて、夫の自分に謝りに
こないのはどういうことだ。
しぶしぶ、お菓子折りを持って行った。
誤りに行って、話を聞いたところによると
その奥さんは、以前犬を飼っていて、
人をかんでしまったことがきっかけで
犬を処分することになってしまった経験も
あったらしい。
(そんなとき反省すべきか。)

親鸞は、悪い心は反省するな、
自己嫌悪してはならないと、言っている。
反省すると、けりをつけたとに
なってしまう。反省しないで、
ずっともち続ける。
自己嫌悪しないで、ただそうであることを
認めなさい。

さわだのぼるというカウンセラーの話。
うつ病専門。
もともと、うつ病を経験していて、
そして、もとは会社員。
自殺未遂。ビルから飛び降りた。
命は取り留めた。
あるとき、うつの状態だったとき、
電車で老人に席を譲った。
「ありがとう。ありがとう。」と
言って感謝された。
生きていてよかったと思った。
なんでもないことが、人の命を救うこともある。

今回の法話師の先輩の僧侶(東本願寺派)が、
世田谷のほうにいて、
その法話が自分の目指す法話。
そこでは法話をするときには、
法話を聴くほうで、持ち回りで
好きな曲(歌)を準備して、その歌を
流すということをする。

今回は、それを真似て、
今回の僧侶の方が準備(?)した
「いのちの歌」という曲を流した。
唄:竹内まりや、
作詞:Miyabiこと竹内まりや。
NHK朝ドラの挿入歌にもなっていた曲。


恋愛曲がおおにして
日本の歌謡曲、ポップスには多いが、
この歌詞は、シンプルながらまさに
仏教につながるいい歌詞だった。
ほろりとしそうな印象で、感動した。
法話というこの場で聞けたので、
更によかったのかもしれない。
     
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秩父観音巡り、33番~34番、結願

2015-12-05 23:10:12 | 巡礼秩父34
観音めぐりをする前に、
秩父に来るたびに気になっていた
仏像を見ることにした。
西武秩父駅の数駅手前のほうで
小高いところに見えていた仏像。

9:05西武秩父少し手前の芦ケ久保駅到着、
9:14休憩して芦ケ久保駅出発、
9:30お寺に到着。お寺そのものは、
現代風なお寺のようであった。
目当ての仏像が目の前に。
芦ケ久保大観音。
着物は質素で如来風だが髪の盛り具合は観音。
昭和仏。
青い色をしているが、さびた色のようでは
ないような気がした。
青さびなら、色がまばらになるはずだが、
そうではない。見た目石仏に見える。
蓮華座入れて推定10m。
(後で他の人のホームページを見ると18mとか・・・。
少し遠めだったので大きさが正しく目測できなかった。)
それから正面からみた感じでは気づかなかったのだが、
これも後で他の人のホームページを見ると正座して
いるというのがわかった。
ちょっと観察不測だった。

さて本題へ。
10:10芦ケ久保駅出発、
10:20頃西武秩父駅到着。
観光案内所で、今日の行程の情報を入手。
今日は普通に応対がよかった。
10:40バス乗車。
11:09泉田バス停到着。
同じバス停で30代後半くらいの男性も下車。
自分が写真を撮っている間に
自分を抜いていった。自分より歩く
スピードも当然速く、先へ先へと置いていかれた
感じがあった。
ふと、先のほうを見ると、右側のほうへと向かっているけど
そっちは、33番じゃなさそうなのだが・・・と思い、
いや、あの人は地元の人で、
里帰りしているんだと納得した。

地図では、川が流れているので平地だと
予想したら、予想通り。
予想通りでなかったのはけっこう時間がかかったこと。
バス停から40分ほどもかかった。
普通にややゆっくり歩いたのもある。
そして到着。
お寺や仏像やらは、もうここへきたら、あまり関心がない。
(それなりの仏像があれば話は別だが)
34箇所を回りきるという気持ちのほうが強い。

そうそうに、33番を後にして歩き出した。
すると先ほどの30代後半くらいの男性がすれ違いで
お寺のほうに入っていった。
やっぱり観音めぐりをする人で、道に迷っていたようだ。
それから少し歩くと、おばあさんの姿が見えてきた。
なんとなく、そのおばあさんは、観音めぐりに
来る人たちとお話がしたい風な雰囲気があった。
最近は、近所の人でおまいりに行く人はいなくなった・・・。
自分は朝食後に必ずおまいりするけど・・・。
お寺にも手伝いにもよくいった。・・・
そこの住職の人について・・・。
最初は立ち止まって話しをしていたけど、
バスの時間が心配だったので、歩き始めると、
おばあさんもいっしょについて歩き始めた。
バスの時間がないので、失礼しますと言うと、
また来年きてねと言われ、ようやく離れることができた。
別に時間があれば、お話に付き合うのは
ぜんぜんよいのだが、次のバスを逃すと、さらに1時間
待たなければならなかったので。

12:41泉田バス停から乗車。秩父駅で下車。
おみやげ物を見ながら少し時間をつぶした。
13:46秩父鉄道で、秩父駅から皆野駅へ。
13:57皆野駅着。
一時間ほど、買ってきていたパンを
食べるなどして時間をつぶした。
15:05バス出発。
15:29札所前バス停下車。
バス停についたら、すでに34番の入り口。
ついに結願のときがきた。
結願とは修行が完了するという意味のようだ。
もっと感慨深げに、このときを感じたかったが、
それほどでもなく、いっしょにバス停を降りたノイジーな
大学生風な男子2人の存在もうっとうしいくらい。
ここで終わってしまうのがちょっと寂しかったというのは
あるかもしれない。
まあ、それでもここで一区切りできて、
達成感もあるし、まあ満足だった。
最後に、先祖の方々、自分にかかわってくださった人たちに
感謝して、手を合わせた。
これにて、去年の10月からはじめた秩父観音めぐり、
都合6回で、終了することができた。

16:04札所前バス停乗車。
16:28皆野駅着。
16:33皆野駅から西武池袋線直通電車で帰路についた。
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