テーマ「思いやりを育てる」
’相手の気持ちを知りたい’
生命は、貪・瞋・痴(注)の衝動で生きている。
(注)
とんじんちと読む。
自分の好むものをむさぼり求める貪欲,
自分の嫌いなものを憎み嫌悪すること,
ものごとに正しい判断が下せず
おろかなことをすること。
相手を自分の利益に利用するために、
相手の気持ちを知りたいと思う。
たとえば、専門家がうなぎの生態を調べる。
うなぎの幸せのためではない。
自分の利益のため。
自分に利益がなければ、家族さえも捨ててしまう。
(相手の気持ちを知りたいというのは、
お互いにプラスの面もある)
仲間としていて生きている場合は、
互いに理解しあうことは基本的な条件。
ライバルであっても相手を理解できれば安全。
人間関係の問題。相手を理解していないか、
誤解していることが原因。
相手の思考を理解できても、相手の本当の
姿を理解できない。相手の思考だけ
理解するとだまされる。
'中道を歩む'
弱肉強食の世界で生きている。安心はできない。
でも、自分の利益だけを重んじない。
強い側に立って、より思い通りに
生きて行けばよいというものではない。
被害を受けないこと(相手に危害を加えたら、
自分もやり返されて怪我をする)。
損しないことを考える。
常にwin, winを考える。
仏教の世界、とんじんちの害を最小限に
するだけでは意味がない。
善行為(うそをつくな、殺すな・・・)を
する生き方を仏教は推奨している。
善行為とは、とんじんちを制御すること。
’相手を理解することは簡単’
生きる衝動は、とんじんちに基づく。
自分のとんじんちの働き方を観察する。
とんじんちの種類は多い。
完璧でなくてもよいので自己観察をする。
今、怒っているけど、今欲求が強いけど・・・
相手の行為を観察して、相手の裏にある行為を
引き起こさせる感情をチェックしてみる。
相手は怒っているな・・・。
(だったらおとなしくしておこうかなという気持ち。)
'主観的妄想にならない'
自己観察しない人の問題。
とんじんちは一切の生命に共通。
自分は善行を行い、とんじんちを
しないことを理解できるようになる。
すると、人の気持ちがわかるようになる。
'シミュレーションしない'
相手の気持ちを理解するときは
シミュレーションしない。
自分のとんじんちを
相手にかぶせない。
例えば、親の見栄や
怒りを子供にかぶせないように。
(このあたりはよくわからなかった)
'人格向上を目指して'
人格向上を目指して仏教徒は生きる。
とんじんちを制御する生き方をする。
善行して、とんじんちをしない経験を
する必要がある。悩み苦しみが少なく
他の人より幸福を経験する生き方ができる。
'自分に合わせて観る'
すべての生命は苦しみに怯える。
死を怯える。自分もそう。
そして、自分を他人に置き換えてみる。
自分が言われて嫌なことは、
他人に言わない。
'命が大好き'
すべての生命は、自分の命が好き。
他の生命の立場になってみる。
そうすれば、殺さないはず。
いじめも起こらない。
鳥をかごの中で飼う。
自分がおりの中でおかれたら、
どう思うか。
'皆、幸福が好き'
自分の幸福のために
幸福に行きたいと思う生命を
いじめ、悩ませるなら
その人自身も幸福にならない。
'感情の組み合わせ'
自分の欲を他人にかぶせてみると、
相手にも欲が生じる。
怒りを他人にぶつけると
自分も怒る。そして自分の
怒りが増大する。
'感情の組み合わせ'
相手のとんじんちを読めた人は、
相手に対して不とん、不じん、不ちで
対応する。
世間は毒に対して毒で対応。
仏教の教えは違う。
'苦しみのお返し'
決して粗悪語を語らないこと。
なぜなら、相手も同じ言葉を返す。
相手を殴ったら、
お返しを受ける。
幸福になりたいという自分を
相手に当てはめてみること。
ここから、「いつくしみ」について。
'慈悲も人格向上'
自分が幸せになりたい人間である
ことを繰り返し確認してほしい。
次に親しい生命も同じで
あること確認する。
すべての生命も同じ気持ちであることを
確認する。
'生命は自分自身'
シミュレーションが成功すると、
他を見るとき、自分が見える。
自分と他人の差がなくなる。
心という無限の大空間を感じる。
自分も他人も存在しない。
、、、このことを示しているのが
以下の慈悲の瞑想の文章。
私は幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願いごとが叶えられますように
私に悟りの光が現れますように
私は幸せでありますように(3回)
私の親しい生命が幸せでありますように
私の親しい生命の悩み苦しみがなくなりますように
私の親しい生命の願いごとが叶えられますように
私の親しい生命にも悟りの光が現れますように
私の親しい生命が幸せでありますように(3回)
生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように
生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように
生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)
長老の年齢は73才らしい。
法話の中でさらりと言っていた。
パーリ語(?)の念仏の読み合わせもあった。
隣の人などは、パーリ語の念仏をすらすら
言えていたり、常連の人々も増えたのかもしれない。
それほど、この会の法話に参加しているほう
ではないので、少し置いていかれた感じは
少しした。
上記、慈悲の瞑想の内容では、
かつては、「私の親しい生命・・・」の前あたりに
「私の親しい人々・・・」という文言があったような
記憶がある。一段階飛んだ感じがした。
生命を人々に置き換えてもよいのかなと
個人的には思った。
今日の解説で、慈悲の瞑想を唱える意味が
少しわかったような気がする。
仏教の示す真髄の一部がかいまみれる。
テーラワーダのホームページを参照すると、
定期的に法話が実施されているようですから
参加されてもよいかなと思います。
長老はスリランカ人で、
見た目は俗にいうインド人ぽい容姿です。
まさにブッダはこうゆう容姿をした人だったのかも
と思わせるし、とにかく日本語で話してもらえる。
そして、人生の問いについて、
全ての答えを持っておられる。
また、そのうちに法話を聞きに
行きたいと思った。
’相手の気持ちを知りたい’
生命は、貪・瞋・痴(注)の衝動で生きている。
(注)
とんじんちと読む。
自分の好むものをむさぼり求める貪欲,
自分の嫌いなものを憎み嫌悪すること,
ものごとに正しい判断が下せず
おろかなことをすること。
相手を自分の利益に利用するために、
相手の気持ちを知りたいと思う。
たとえば、専門家がうなぎの生態を調べる。
うなぎの幸せのためではない。
自分の利益のため。
自分に利益がなければ、家族さえも捨ててしまう。
(相手の気持ちを知りたいというのは、
お互いにプラスの面もある)
仲間としていて生きている場合は、
互いに理解しあうことは基本的な条件。
ライバルであっても相手を理解できれば安全。
人間関係の問題。相手を理解していないか、
誤解していることが原因。
相手の思考を理解できても、相手の本当の
姿を理解できない。相手の思考だけ
理解するとだまされる。
'中道を歩む'
弱肉強食の世界で生きている。安心はできない。
でも、自分の利益だけを重んじない。
強い側に立って、より思い通りに
生きて行けばよいというものではない。
被害を受けないこと(相手に危害を加えたら、
自分もやり返されて怪我をする)。
損しないことを考える。
常にwin, winを考える。
仏教の世界、とんじんちの害を最小限に
するだけでは意味がない。
善行為(うそをつくな、殺すな・・・)を
する生き方を仏教は推奨している。
善行為とは、とんじんちを制御すること。
’相手を理解することは簡単’
生きる衝動は、とんじんちに基づく。
自分のとんじんちの働き方を観察する。
とんじんちの種類は多い。
完璧でなくてもよいので自己観察をする。
今、怒っているけど、今欲求が強いけど・・・
相手の行為を観察して、相手の裏にある行為を
引き起こさせる感情をチェックしてみる。
相手は怒っているな・・・。
(だったらおとなしくしておこうかなという気持ち。)
'主観的妄想にならない'
自己観察しない人の問題。
とんじんちは一切の生命に共通。
自分は善行を行い、とんじんちを
しないことを理解できるようになる。
すると、人の気持ちがわかるようになる。
'シミュレーションしない'
相手の気持ちを理解するときは
シミュレーションしない。
自分のとんじんちを
相手にかぶせない。
例えば、親の見栄や
怒りを子供にかぶせないように。
(このあたりはよくわからなかった)
'人格向上を目指して'
人格向上を目指して仏教徒は生きる。
とんじんちを制御する生き方をする。
善行して、とんじんちをしない経験を
する必要がある。悩み苦しみが少なく
他の人より幸福を経験する生き方ができる。
'自分に合わせて観る'
すべての生命は苦しみに怯える。
死を怯える。自分もそう。
そして、自分を他人に置き換えてみる。
自分が言われて嫌なことは、
他人に言わない。
'命が大好き'
すべての生命は、自分の命が好き。
他の生命の立場になってみる。
そうすれば、殺さないはず。
いじめも起こらない。
鳥をかごの中で飼う。
自分がおりの中でおかれたら、
どう思うか。
'皆、幸福が好き'
自分の幸福のために
幸福に行きたいと思う生命を
いじめ、悩ませるなら
その人自身も幸福にならない。
'感情の組み合わせ'
自分の欲を他人にかぶせてみると、
相手にも欲が生じる。
怒りを他人にぶつけると
自分も怒る。そして自分の
怒りが増大する。
'感情の組み合わせ'
相手のとんじんちを読めた人は、
相手に対して不とん、不じん、不ちで
対応する。
世間は毒に対して毒で対応。
仏教の教えは違う。
'苦しみのお返し'
決して粗悪語を語らないこと。
なぜなら、相手も同じ言葉を返す。
相手を殴ったら、
お返しを受ける。
幸福になりたいという自分を
相手に当てはめてみること。
ここから、「いつくしみ」について。
'慈悲も人格向上'
自分が幸せになりたい人間である
ことを繰り返し確認してほしい。
次に親しい生命も同じで
あること確認する。
すべての生命も同じ気持ちであることを
確認する。
'生命は自分自身'
シミュレーションが成功すると、
他を見るとき、自分が見える。
自分と他人の差がなくなる。
心という無限の大空間を感じる。
自分も他人も存在しない。
、、、このことを示しているのが
以下の慈悲の瞑想の文章。
私は幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願いごとが叶えられますように
私に悟りの光が現れますように
私は幸せでありますように(3回)
私の親しい生命が幸せでありますように
私の親しい生命の悩み苦しみがなくなりますように
私の親しい生命の願いごとが叶えられますように
私の親しい生命にも悟りの光が現れますように
私の親しい生命が幸せでありますように(3回)
生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように
生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように
生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)
長老の年齢は73才らしい。
法話の中でさらりと言っていた。
パーリ語(?)の念仏の読み合わせもあった。
隣の人などは、パーリ語の念仏をすらすら
言えていたり、常連の人々も増えたのかもしれない。
それほど、この会の法話に参加しているほう
ではないので、少し置いていかれた感じは
少しした。
上記、慈悲の瞑想の内容では、
かつては、「私の親しい生命・・・」の前あたりに
「私の親しい人々・・・」という文言があったような
記憶がある。一段階飛んだ感じがした。
生命を人々に置き換えてもよいのかなと
個人的には思った。
今日の解説で、慈悲の瞑想を唱える意味が
少しわかったような気がする。
仏教の示す真髄の一部がかいまみれる。
テーラワーダのホームページを参照すると、
定期的に法話が実施されているようですから
参加されてもよいかなと思います。
長老はスリランカ人で、
見た目は俗にいうインド人ぽい容姿です。
まさにブッダはこうゆう容姿をした人だったのかも
と思わせるし、とにかく日本語で話してもらえる。
そして、人生の問いについて、
全ての答えを持っておられる。
また、そのうちに法話を聞きに
行きたいと思った。