「看取り看取られつながる命」
講師は、在宅ホスピス医のふじ内科クリニックの院長、
女医、年齢60すぎくらい。
ガンになって思い病気になっても、自分らしく生き抜いていく
というのがテーマ。
山梨県出身、福島県立医科大学卒業、最初に、東京の三井記念病院へ27歳ころ勤務し始めた。
そのとき、23才の女性患者を診る。
がんで全身くだがつながれた状態。将来が全く見えない。
39度くらいの熱が続く。
そんな中、今一番何がしたいと聞く。家へ一泊でいいから帰りたい。
(急に病院に入院することになっていて、)身の回りの整理がしたい。
昔は、99%同じ病院で最後まで、病院で看ていた。
今は違う。治らない病状になったら、やさしいことばながら
出て行ってくれと言われる。
一泊で一時帰宅することに。それが、一泊だけでなく、
3か月家にいることになった。ということもあった。
その後、25歳で亡くなった。当時、ホスピスという言葉が珍しかったときだった。
今、地震対策が盛ん。いつ起きるかどうかわからないのに努力する。
人が生きている間に大きな地震がないかもしれない。
しかし、一方、人は絶対に死ぬということは、勉強しない。
自分で、山梨大使といっている。96歳の母に言われている。富士山は、どこから見てもきれいだけど、
山梨県から見たほうが一番きれいと言ってね。
かんぞう移植のときなどに、命のバトンをつなぐという言葉で言われることがあるが、バトンは短距離。命が短いイメージがある。そういうときは、命のタスキという言葉を使ったほうがよい。
タスキは、長距離の駅伝とかで使われるので。
福島県立医科大で入学して、ホスプスケア(緩和ケア)のほうに進んだ。キリスト教の影響。それもあってイギリスに7年留学した。
がんの人でもその人らしく生きるというテーマがホスピスケア。イギリスでは盛ん。
グループホーム(老人ホーム)ですごしたい。病院ではすごしたくない。
かつて、イギリスでシシリという看護師がいた。
しかし、看護師がああしたらいい、こうしたらいいと、思っても権限がない。
彼女は40歳前にして、医者になった。がん患者を救いたいという思いで。
(このあたりから写真のスライドで患者さんの様子などを撮ったものが紹介されはじめた。イギリスでなくなる一週間前の椅子に座ったおばあちゃんの写真も紹介されていた。)
みなさんの医者選び、少し不満はあるかもしれないが、80点あれば合格としてほしい。
ガンは緩和できる病気です。
(甲府の今の病院での話)
43歳の男性が写っている写真を見せながら、
直腸がんで、肺に転移。
お願いされて主治医になった。
最後の誕生会をやろうということになった。最期も近い。
希望に応じて、お酒も飲ませた。その1週間後、男性は亡くなった。
永禄輔とも交流があった。
永さんがなくなる2週間前、こん睡状態。声をかけると反応があった。
そのとき、にこっとしたような口元になった。口元が笑っていた。
マインドフルネスという言葉が流行している。これは仏教から来ている。
エベレストを酸素ボンベなしで上った登山家。
7000mを超えて酸素をつけないと、どうしても必要な酸素は心臓に集まり、頭のほうには酸素が回って来ない。これが結果的に瞑想状態となった。
デスゾーンを超え、登山家は幸せだった。
デスゾーンは、死ぬ間際。
あまり苦しみはないだろうと言われる。
年をとった人にガンを伝えるときは、ご長寿ガンですねと言う。年をとったら2人に1人がガンになると言われる。
単にガンというよりは気持ちがやわらぐ。
この後も、90を超えてガンになったおばあさんの話。
都会から山梨に戻り、植えただいこんが収穫できるまで
生かせてくれと言ったガンの中年男性。
そして収穫ができた。
その後、昏睡状態になり、家族が口元から酒を飲ませた。
後で聞くと、さんずの川を渡っているときに、船頭さんとさんずの川を渡ろうとしていた。
でもフェリーが見えていて、フェリーには好きな酒があって飲めるだろうと思っていたら、こん睡状態から目を覚ました。
その1週間後、男性は亡くなった。
スライド写真を見ながら、看取りの話。
今日も公演前は寝むかったが、しっかり聞けた。
有意義な話だった。