ドリアン助川
テレビの何かの番組で見た記憶があるのだが、思い出せない。
講座が始まる前イタリアかスペイン語あたりを話す中年の夫婦、
人が集まり何かありそうだからと着席していた。
講座が始まって日本語がわからないと
どうにもならないと思った二人は、離席していった。
ドリアン助川は、放送作家。
今回は「あん」という映画を作るに至った背景や裏話、
プライベートなことも。この映画はハンセン病に関わる。
浄土宗の高校、大学では東洋哲学科。
インドへ旅をして、病気になって十数キロやせて
帰ったということもあった。
いざ就職となったときに色覚異常だったので、
放送局や広告代理店などは門前払いを受けた。
色覚異常は20人に1人とも言われる。
一人で生きていくことに。
塾の先生、飲み屋のバイトなど、そして放送作家になった。
(ご存じの)クイズでアメリカに行ける番組も書いた。
1989年11月9日ベルリンの壁が崩壊した。ベルリンへも行き、
チャウシェスクのチェコスロバキアにも行った。
自衛隊のカンボジア地雷除去も
現場で伝えたいとカンボジアへも行った。
一方で、パンクロックもしていた。
頭をモヒカンにしていたときも。
ラジオで五年間、高校生の悩み相談もした。
頼んでいないのに生まれてきた。
辛いこともある。
生きていくことにどういう意味があるだろうと高校生に問いかけた。
10人が10人とも社会のために役に立つために生まれた。
社会のために役にたたなければ意味がない。
(ちょっときれい事の模範解答を出したのかも。)
ライ菌におかされるのがハンセン病。
神経を破壊していく病気。指がなくなったり、
鼻が落ちる。盲目になることもある。致死病ではない。
治ったとして施設から出されない方針だった。
医療関係者がハンセン病になったという記録はない。
この菌の感染力は弱い。1996年まで社会から遠ざけられた。
1997年あんという本を出した。
そこから後に、2015年映画化することになるが、
それまで長い道のり。
かつて道化師の姿でバンドもしていた。
所沢の不登校の多い学校から、生徒の前で演奏してくれと頼まれた。
そこで、ハンセン病の老人2人が見にくれていた。
そこでの出会いがあり、ハンセン病患者の生の声が聞けた。
多磨全生園の人達にもお世話になった。
映画化のため5~6年越しでスポンサーを探した。
2億円はかかる。 生の声が聞けたことで映画化が加速した。
ドイツ、フランスの人たちにもスポンサーになってもらった。
日独仏合作映画となった。ストーリー。
樹木希林演じる徳江という老女がどら焼用のあんを作っていた。
ところが彼女はハンセン病。
(たぶんまだ病気のことが分からなかった時代だと思う)。
彼女の指が変形していて、噂になった。
やがて、彼女はその場を去る。そして、その後は収容所へ。
カンヌ国際映画祭に出品。
上映後、スタンディングオベーション。拍手がなりやまなかった。
泣けた。
でも、ふと周りの出演者を見たら誰も泣いていなかった。
樹木希林さんは、
皆さん拍手で手が痛いでしょうから早く引き上げましょう。
と一言。
世界のバイヤーによって35か国で上映が決まった。
患者の森本さんという人は、収容所の生活より、
外で勉強したいと、脱走して大学へ通っていたことも。
その後、体調をくずして、収容所に戻った。
あんのモデルになったのは石垣島出身の女性。
実は、あんではなく、サーターアンダギーを作っていた。
ある時、その女性と植樹をすることになっていた。
ちょうどその頃、樹木希林さんの訃報を電話で聞いた。
お通夜葬儀には出れないと伝えた。
その女性に樹木希林さんは元気ですかと
尋ねられたけど言えなかった。
小説のほうは、フランスの文学賞をもらった。
フランスでのサイン会で
10歳の娘さんを亡くしたという女性が涙していた。
詳しい状況はその女性とは話さなかったけど。
立て板に水でよくしゃべる。筆記がなかなか追い付かず。
時系列の話ではないこともあったので、少し戸惑った。
まあ、なかなか良い話だった。
テレビの何かの番組で見た記憶があるのだが、思い出せない。
講座が始まる前イタリアかスペイン語あたりを話す中年の夫婦、
人が集まり何かありそうだからと着席していた。
講座が始まって日本語がわからないと
どうにもならないと思った二人は、離席していった。
ドリアン助川は、放送作家。
今回は「あん」という映画を作るに至った背景や裏話、
プライベートなことも。この映画はハンセン病に関わる。
浄土宗の高校、大学では東洋哲学科。
インドへ旅をして、病気になって十数キロやせて
帰ったということもあった。
いざ就職となったときに色覚異常だったので、
放送局や広告代理店などは門前払いを受けた。
色覚異常は20人に1人とも言われる。
一人で生きていくことに。
塾の先生、飲み屋のバイトなど、そして放送作家になった。
(ご存じの)クイズでアメリカに行ける番組も書いた。
1989年11月9日ベルリンの壁が崩壊した。ベルリンへも行き、
チャウシェスクのチェコスロバキアにも行った。
自衛隊のカンボジア地雷除去も
現場で伝えたいとカンボジアへも行った。
一方で、パンクロックもしていた。
頭をモヒカンにしていたときも。
ラジオで五年間、高校生の悩み相談もした。
頼んでいないのに生まれてきた。
辛いこともある。
生きていくことにどういう意味があるだろうと高校生に問いかけた。
10人が10人とも社会のために役に立つために生まれた。
社会のために役にたたなければ意味がない。
(ちょっときれい事の模範解答を出したのかも。)
ライ菌におかされるのがハンセン病。
神経を破壊していく病気。指がなくなったり、
鼻が落ちる。盲目になることもある。致死病ではない。
治ったとして施設から出されない方針だった。
医療関係者がハンセン病になったという記録はない。
この菌の感染力は弱い。1996年まで社会から遠ざけられた。
1997年あんという本を出した。
そこから後に、2015年映画化することになるが、
それまで長い道のり。
かつて道化師の姿でバンドもしていた。
所沢の不登校の多い学校から、生徒の前で演奏してくれと頼まれた。
そこで、ハンセン病の老人2人が見にくれていた。
そこでの出会いがあり、ハンセン病患者の生の声が聞けた。
多磨全生園の人達にもお世話になった。
映画化のため5~6年越しでスポンサーを探した。
2億円はかかる。 生の声が聞けたことで映画化が加速した。
ドイツ、フランスの人たちにもスポンサーになってもらった。
日独仏合作映画となった。ストーリー。
樹木希林演じる徳江という老女がどら焼用のあんを作っていた。
ところが彼女はハンセン病。
(たぶんまだ病気のことが分からなかった時代だと思う)。
彼女の指が変形していて、噂になった。
やがて、彼女はその場を去る。そして、その後は収容所へ。
カンヌ国際映画祭に出品。
上映後、スタンディングオベーション。拍手がなりやまなかった。
泣けた。
でも、ふと周りの出演者を見たら誰も泣いていなかった。
樹木希林さんは、
皆さん拍手で手が痛いでしょうから早く引き上げましょう。
と一言。
世界のバイヤーによって35か国で上映が決まった。
患者の森本さんという人は、収容所の生活より、
外で勉強したいと、脱走して大学へ通っていたことも。
その後、体調をくずして、収容所に戻った。
あんのモデルになったのは石垣島出身の女性。
実は、あんではなく、サーターアンダギーを作っていた。
ある時、その女性と植樹をすることになっていた。
ちょうどその頃、樹木希林さんの訃報を電話で聞いた。
お通夜葬儀には出れないと伝えた。
その女性に樹木希林さんは元気ですかと
尋ねられたけど言えなかった。
小説のほうは、フランスの文学賞をもらった。
フランスでのサイン会で
10歳の娘さんを亡くしたという女性が涙していた。
詳しい状況はその女性とは話さなかったけど。
立て板に水でよくしゃべる。筆記がなかなか追い付かず。
時系列の話ではないこともあったので、少し戸惑った。
まあ、なかなか良い話だった。
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