「見仏」と「札所巡り」と「仏教少々」

仏像鑑賞と札所巡りと受け売りの仏教を少し

見仏:護国寺、光源寺

2014-02-23 21:59:50 | 見仏(東京)
メトロの一日乗車券を買ったものの、
自宅をでたのが11時ちょっとすぎ、
出遅れたのもあって、あまりまわれなかった。

最初に有楽町線沿線にある護国寺。真言宗。
総本山は、奈良の長谷寺。
前にもきたことがある。

仁王門を抜けしばらくいくと、地蔵菩薩が見えてくる。
そのすぐ近くに、現代風の仁王(青銅だろうか)が、
こちらのほうを見ている。
そして、右のほうに視線をやると、青銅の如来坐像。
座高2.5mほど。
ややにこやかな表情に見える。

本堂のほうの畳の上にあがることができた。
18日がご開帳日で、
そのときには如意輪観音がみれるようだが、
それ以外の今日のような日は、真ん中の位置に、
丸い鏡がおいてある。

右手のほうには、3m以上はあると思われる現代風の
不動明王立像。童子2人をしたがえている。
迫力ある。

左手のほうの奥には、50cmほどの仏から、
人間大の仏までのさまざまな種類の仏がいる。
そのなかで、うれしかったのは、
茶色い肌の十一面観音がすぐ近くで見れたこと。
手をのばせば、抱きしめることができるほどの位置にある。
仏の顔と自分の顔の間隔が20cmほどまで近づけた。
女性ぽい唇に少し、ドキッとした。
でも、けっして、触ったりしなかった。

****************
護国寺を後にして、徒歩で、都立の雑司ヶ谷霊園へ。
有名人のお墓を参ることにした。
こんなことは人生で初めて。
目当ては、小泉八雲、ラフカディオハーン。
アイルランド人とギリシャ人の両親をもち、
怪談作家で有名。(区画1-1-8-35)
案内板を見ていると、夏目漱石のお墓もあるというので、
こちらもお参りした。枯れていない花がさしてあった。
漱石という名前は、書かれてなかったので
漱石は、ペンネームだったのだろう。
(区画1-14-1-3)
霊感はないながらも、お墓参りで、
つれて帰ったりしたらいやだなあと思ったりする。
(翌日、のどが痛くなり、発熱した。霊をつれて
 帰ってきていないことを祈る)

雑司ヶ谷霊園は、後で、有楽町線の東池袋駅で
下車したほうが、ぜんぜん近いことがわかった。
少し余計に歩いてしまった。



*****************

次に、南北線の本駒込駅から比較的近い光源寺というお寺。
こちらも2回ほど来たことがあった。
滞在した20分の間、比較的よく、人がお参りにきていた。
なんといっても長谷寺の十一面観音を模したという黄金に
輝く仏が目玉。6mと書いてある。
見た感じ、4mくらいにも見える。
これだけ金ぴかの仏はめずらしい。寄木造だという。
木造ということ忘れてしまうくらいに、金ぴか。
ら髪が濃い青色。
国宝級の仏像を見ると、ら髪が、かつては
濃い青色だったということは想像できないが、
一般的に、実際はそうだったらしい。
このお寺は、浄土宗。阿弥陀如来でないのも気になるし、
他宗の仏を模すというのも気になる。
この十一面観音は2代目。江戸時代に作られた1代目は、
空襲で焼けたという。8mあったらしい。
明治に入って、お寺ひとつで宗派はひとつと
決められるまでは、浄土宗でも真言宗でも折衷した
雰囲気になっていたお寺も多かったのかもしれない。

*****************
もう時間も夕方になり、最後に、根津神社をお参りして、
帰路に着いた。








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築地本願寺、仏教文化講座2014.2田畑正久氏

2014-02-22 21:18:36 | 仏教
お題:医療文化と仏教文化
講師:田畑正久さん


大分に住んでいて、外科の医者で、
大学でも教鞭もとっている男性で、推定60歳ほど。

5年ほど前から週に1度ほど龍谷大でも教えている。
父が、真宗の門徒で、自分も同様。
大学に入る頃までは、仏教にもうとかった。

(自分の近くに20歳くらいの西洋人の男子がすわっていたが、
 この人、日本語がわかるのだろうか。
 最後まで、聞くだろうかと気になった。)

仏教との関わりは、九大に入ったときから。
仏教青年会というところに入った。
この会に入ってボランティアをする代わりに
住むところがタダになった。

仏教にも関わりをもつようになっていき、
医療は仕事、仏教は人生の生き方、、、と
切り離して考えていたが、今では、
両者とも切り離すことができない。
医療と仏教は、同じ方向を向いている。
仏教では、四苦として、生老病死がある。
老病死に対して、医療でも課題になっている。
(外科であるこの講師の方は、
 特に、関わっているので、老病死という
 言葉を何度も使っていた。)

医療と仏教は、むすびついているか?
例えば、真宗のシカゴ別院にいる僧侶は、
病院に出入りするのは当たり前。
病人が入院したら、僧侶が訪れるのは当たり前。
しかし、日本では、キリスト教、天理教などの
聖職者が病院にいるくらい。

地元の大分の国東半島のほうにある病院内に、
仏教講座を開いた。病・死と向き合うため。
仏教は、死んだ人に対して、役に立つのではなく、
生きた人間を相手にするもの。

現在、病院で亡くなる人は、全体の8割ほどにも
なっている。病・死に対するケアがますます必要。

西洋医学では、食べないと死ぬという発想。
食べれなければ、点滴にする。
時には、胃に穴をあけてまで、栄養を取らせる(胃ろう)。
回復の見込みのない人に対しても、胃ろうをする。
医者本人に対し、もし自分が患者だったら、
回復の見込みがないのに、胃ろうはいやという医者が、
ほとんど。人間の死をみじめにするからという理由。
食べても死ぬ。食べなくても死ぬというのが現実。

医療は、科学的、合理的にもとづいて行われる。
仏教の智慧は、表面的な価値よりも、
隠されたところにあるものを感得(かんとく)
することができる。

もったいないという言葉は、もともとは仏教用語。
現代の使われている意味でいうと、
英語・ドイツ語にはない。
無理やり訳すと、捨てるには捨てがたい。
生命の誕生に関して、科学的に話すと、せいしとらんしが
くっついて・・・という説明になるが、
浄土教ゆかりの善導大師は、ご縁が重なり・・・
という表現を使っている。

自分の男性の患者さん89歳。
糖尿病、c型肝炎などの病気。
c型肝炎になると、ガンになる確率があがる。
この男性が80歳のときに、仏教の勧めをした。
この男性は、真宗の門徒だったが、
その勧めに対し、イヤ。
その後、85歳のときに、ガン。
その男性は、「念仏したら病気がよくなるんですか?」

幸せになりたい。健康の状態を維持したい。
不健康は、マイナス要因。
不幸だと感じながら、死を迎えたりする。
(自分だったら、
 今は健康でなくなり幸せとはいえないかもしれないが、
 今までいっぱい楽しいこともあったし、
 自分の人生、ご縁に対してありがとうと感謝しながら、
 死を迎えたい。)

医学界では、死は受け止めがたい。死んだらおしまい。
しかし、大部分の人は、老病死につかまる。
老病死に立ち向かえる考え方・智慧が仏教にはある。

一日を、一生に例えるひともいる。
朝目が覚めたら、自分は生きている。
目が覚めて生まれ、睡眠につき死んでいく。
(そのくらい1日を大切にしたいと自分は思う。)

刑務所で、死刑囚と無期懲役の囚人を観察した人が
いるという。死刑囚の人のほうが活気がある。
それに反して無期懲役は活気がない。
死刑囚の間でも、しーんと静まり返る時間があるという。
それは、その日死刑執行される人が発表される7時から
7時半までの時間帯。
その時間が過ぎると、再び活気がでてくるという。
無期懲役の人のほうが、ふつうに生活をしている人に
当てはまるのかもしれない。

東北大学のほうで、臨床宗教師を育てる講座ができたという。
東北大学の医学の先生が、ガンになり、老病死に対する道標を
作りたいというところからの開設。
病気をなくそうとする医療。医療は限界にきたとき、
老病死には対処できない。
それに立ち向かう宗教・仏教の力が必要。

WHOが健康の定義に、
スピリチュアルという表現を追加した。
ますます、精神的なケアの必要性が
クローズアップされている。

死を迎えようとする患者が、
自分は死ぬために生きているんですか?
食事もとれなくなっている。痛みは麻薬で抑えている。
そんな状況に現在の医療はこたえることはできない。

人間に生まれた意味、自分が生まれた意味を
仏教は教えてくれる。
老・・・
 年をとったからこそ成長し、いろんな見方ができる。・・・
病・・・
 病になるまで健康でいられたことに感謝。・・・
死・・・
 生まれるという意味を理解して、
 死んだらあみださんにまかせる。・・・
(このあたりの定義・答えは、短い言葉では
 なかなか難しいが、仏教はこれらを教えてくれる)

最後に、質疑応答。
(質問)
輪廻の旅人という表現をする人がいるが、
浄土真宗に出会って、輪廻の旅を終えることが
できると言っている。・・・
(応答)
輪廻転生は、仏教が生まれる前からインドにあった思想。
仏教は、輪廻をこえたところに死を考えている。
(このあたりは、真宗の門徒さんらしい。)

(質問)
病院で働くようなチャプレン(聖職者)が
日本では少ないが・・・
(応答)
歴史的な背景として、医学がドイツから入ってきた時代、
医療技術は取り入れるが、チャプレンの背景にある
宗教性(キリスト教)は排除したいとの考えのもと、
チャプレンのシステムが取り入れられなかった
という背景もある。

(質問)
日本でのチャクレンのとりくみ状況は?
(応答)
何箇所かできている。真宗関連の病院施設にもできている。
 


今日は、医療には、宗教心が必要だと、
改めて感じることができた。
よい講話だった。



最初に気になった20才くらいの西洋人男子。
途中聞いてないなあというときもあったようだが、
1時間20分ほどの時間の間、席に座っていた。
講話が終わって、カメラで堂内の撮影をしていた。



少し気になったのが、・・・
事務受付の女性は、時折業務の話をしているときもあるが、
そうでないときも、普通のボリュームで私語を
頻繁にしていた。
(ひそひそ話程度のボリュームではない)
途中、何度も耳障りと感じた。
せめて講話中は、私語をつつしんでもらいたい。





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築地本願寺、法話2014.2.21

2014-02-21 22:00:50 | 仏教
損得勘定を受けようと、ご聴聞を受けようというのは、
ごりやくをえようと、ご聴聞を受けようというのは、
その時点でごりやくはない。
と、早速名言のような言葉。
(聴いている人達に、先制パンチ。
もちろん、普通に言われているごりやくはないと思って
聞いている。)

関西弁だが、県の名前は聞き取れなかった。聞いた感じ、
やわらかめの関西弁で、京都あたりかなと思っていたら、、、、
予想したとおり、京都だった。

最初に仏典の一部の朗読からはじまる。
善導大師が、『観無量寿経』 を解釈して、
浄土三部経の「無量寿経」「観無量 寿経」「阿弥陀経」の
三つをまとめた。
浄土真宗のよりどころとする仏典なのだろうと思う。

仏典といえば、般若心経というのがあるが、
三部経の教えを大事にする故に
浄土真宗では、般若心経を、良しとしないと、この僧侶。
棺桶の中に故人が写経した般若心経を入れる
ということがあったらしいが、
僧侶としては、いい印象は受けなかったらしい。

祈祷や、迷信を信じて、病気が治るということなどない。
(この変の思想があるので、真宗では、
おまもりがないということを
前に聞いたことがある。)

この僧侶は、説明が力説型、プレゼン力もある。
ただ、内容が難しい。
仏教の講義のごとく、立て板に水のごとによくしゃべる。
遊びがない分、思考がおいついていかないのもある。

御門徒から、月に20回ほども相談を受けるという。
あるとき、夫婦喧嘩のため、奥さんのほうを
少しお寺に泊まらせてほしいと言われた。
泊まらせたけど、一泊どころではなく、二週間にも及んだ。
奥さんの方が、うつ状態。
表面上は、夫婦喧嘩ということだが、
元々の原因は、仕事場でのストレス。
お客のクレーム担当。
あるとき、下着が丈夫でなかったから破れたと、
3年もはいたパンツを返品してきたこともあった
という。(あきれる)
この住職も、うつにかかったことがあったので、
人ごとではないと感じていた。
心療内科へ一回5000円くらいの診察を何度もうけたことが
あるという。

この僧侶の父は、OO学会。しかし、この僧侶は、真宗。
父はガソリンスタンド経営。親がお寺でなかった。
(25年前、龍谷大の学生だったというところで、
年齢は47歳前後くらいだろうか。)

法然の法は、一言で、念仏。
親鸞の法は、信心。
ただ念仏するだけではだめで、信心のある念仏が必要。

御門徒に、余命三ヶ月の宣告を受けた75歳の男性がいた。
聴聞をしてもらった。
死にたくない。
→死んでも、阿弥陀さんが丸々ひきうけてくれる。

1ヶ月が経った頃、男性が亡くなったと連絡を受けた。
聴聞をした三日後のことだった。
まだ少し時期が早いのに、、、、。病室での自死だった。
ショックだった。


命のある限り念仏してくださいね。
流す涙の中で、阿弥陀さんの教えを聞く。
泣き止んだ後に教えを聞くものではない。
(また、名言)

250年ほど前の念仏を、今の現代でも、口にできる。
みなさん、鳥肌が立ちませんか?
私は、鳥肌が立ちます。


家がお寺でなくて、僧侶になったということは、
それだけのことがこの人の信念にはあるなと感じた。

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築地本願寺、法話2014.2.7

2014-02-07 22:29:54 | 仏教
大阪のほうのお寺の住職。
角刈りの頭。40歳くらいだろうか。
さほど関西なまりが強くはなかった。

われわれのご法儀は、なむあみだぶつと唱え、
浄土へ参るというもの。
(聞いている人たちが、
 真宗の門徒であることをやや決めつけている
 感じもすこしした。)

生きて元気な間は、浄土へ参るという意味を
理解しようとしないが、・・・
浄土へ参ることを、理解しなさいとは、
真宗の教義は言っていない。
むしろあいまいに、浄土へ参るんですよと言っている。

人の死は、その人に関係ない人たちにとっては、
人間はいつかは死ぬよ。まさに他人事。
自分の問題になったら、そうはいかない。(真剣)。
自分が死ぬときは、あみださんに導かれ、浄土へ。

なぜ、人は死にたくないのか。
今の現状から離れたくない。
財産をもっていけない。

真宗のおぼうさんは、死んだらどうなるかの答えを
教えることができる。
でも、死んだ後は、あみださんに、おまかせして、
浄土へ連れて行ってもらう。

この住職は、門徒さんの家に月二回ほど、
おじゃまするという。

門徒さんの一人の50代後半の男性。
がんの妻をなくしたという。

最近は、法事でも、おぼうさんが食事にまぬかれる事は
あまりなくなったという。
親戚意識が薄くなったためとか。
そんな中、
この男性の妻の一周忌で、食事にまねかれたという。
お酒もふるまわれたという。
この僧侶は、お酒も好きらしい。



浄土へ行くことを納得してから、浄土へ行ってくれと、
真宗は言っていない。



話し方は流暢だが、話のおち的なところが、
もう少し欲しかったような気も少しした。
というか、話し方が一定していて、
話しかたのアクセントが少なかったので
そう感じたのかも。

今日は、けっこう眠く、自分の理解度も
それほどよくなかったというのも、
そういう印象になたのかも。




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深川不動尊他

2014-02-02 22:19:14 | 見仏(東京)
先日、親戚の葬式にでたばかりだった。
その後、肉親の一人が、末期がんで余命宣告を受けた。
今のところ、痛みはないという。
もるひねで抑えているからと思われる。
・・・
この件については、あまり多くは語らないようにしたい。
このブログの本来の筋とは、ちょっと違ってくるし・・・。


そんな中で、ケンブツというより、お参りという気持ちで
お寺、そして、神社にもお参りに行った。
最初は、深川不動尊。
こちらは、一般的なお寺と違って、カーペット敷きの館内で
自由にお参りしてくださいというスタンスのお寺。
入り口の大きな木質の不動明王が迎えてくれる。
館内に入ったとき、ちょうど、護摩法要が行われていた。
いつものように、大きな太鼓も打ち鳴らしていた。
不意打ちの大きな太鼓の音に、正座していた人の中には、
びくっとした人もいた。
お願いしたのは、「見守ってください。」
「よろしくお願いします。」

護摩法要が終わり、
2階にある88箇所めぐりのまに車の部屋へ。
まに車を回し、88箇所めぐりを終えた。



あまり、神社めぐりというのは好んでしないほうであるが、
こういう状況では、すがれるものがあれば、すがりたい。
隣の富岡八幡宮へ。
お寺との区別がすっきりしていなかったのか、
拍手(かしわで)を打つのに一回目の拍手が音が弱かった。
・・・と、どうでもいいことにちょっと反省した。


再び、都営バスを乗り継いで、次の目的地へ。
新橋経由、渋谷経由で、明治神宮へ。
明治神宮へ来たことはたぶんあるはずだが、
けっこう遠い昔のようにも思えた。
あまり来た記憶を思い出せなかった。

お寺参拝は、願い事をお願いする趣旨とはやや違うと
自分では思っている。
一方、神社は、お願いをするところと思っている。
安らかに残りの命を終えさせてください。
いや、あわよくば、普通の生活が少しできるくらいの
状態にもどせるならもどしてくださいと、、、
そんな趣旨のお願いをした。





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