「見仏」と「札所巡り」と「仏教少々」

仏像鑑賞と札所巡りと受け売りの仏教を少し

真宗関連の動画を探していたら

2016-02-29 22:29:48 | エピソード
3歳の女の子が、真宗の
「聖人一流の章」を唱え、
「恩徳讃」を歌っているシーンをみつけました。

ここに紹介しておきます。

https://www.youtube.com/watch?v=aQbVLEIJxak




「聖人一流の章」
 聖人(親鸞)一流の御勧化(ごかんげ)のおもむきは、
信心をもって本とせられそうろう。
そのゆえは、もろもろの雑行をなげすてて、
一心に弥陀に帰命すれば、
不可思議の願力として、
仏のかたり往生は治定(じじょう)せしめたまう。
その位を「一念発起入正定聚」と釈し、
そのうへの称名念仏は、
如来わが往生を定めたまいし
御恩報尽の念仏とこころうべきなり。
あなかしこ、あなかしこ。

「恩徳讃」
如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も 骨をくだきても謝すべし
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築地本願寺主宰、シンポジウム「ご縁」2.28 五木寛之

2016-02-28 19:00:39 | 仏教
作家五木寛之の講演。

「慈のこころ、悲のこころ」

1932年生まれ、83歳。
福岡生まれ。
龍谷大学で仏教史を学んだこともある。

「TARIKI」は、ニューヨークでBOOK OF YEAR
スピリチュアル部門で銅賞の経歴も。

昭和7年組ということで、いろいろ著名人の名前が
でた。石原新太郎と生年月日が同じ。・・・
(このあたりはちょっと前説的な雑談が長いなあという
 印象だった。)

価値判断というのは、時代によっていろいろ変わってくる。
ジョギングは体にいいといわれているが、
実は悪いという説もあったり、水は飲んだほうがよいと
言われるが、飲みすぎると腎臓に悪いとかいう説もある。

年齢に応じて、信心も変わってくる。
青年、壮年は、「生」を考えるべき、
ある年齢に達したら、以後は「死」を考えるべき。

かつては、自分も若いときは、五木レーシングという
レーシングチームを作ったこともあった。
(五木さんがドライバーだったのかは不明)

車の運転のほうは、60歳でやめた。運転できるが
運転能力が衰える。危ない。

今パイロットは不足している。
65歳定年だが、70歳まで延長しようかという
動きもある。

体だけでなく、信心も年齢によって変わってくる。

キリスト教、イスラム教、仏教は三大宗教と
言われているが、・・・
キリストは30代で死んでいる。
そこから、キリスト教は青年の宗教というイメージがある。
イスラム教は、社会人の規範が組み込まれているという印象。
仏教は、生老病死というところから、
高齢者の宗教というイメージ。

文化とかも年齢を重ねると嗜好がかわってくる。

ガンは早期発見がよいと一般的に言われるが、
必ずしもいいとは、いえないかもしれない。人による。

政治経済を語る人は、最近は宗教を語らないで
意見することが難しくなってきている。

真宗では、ブッダのお堂より、阿弥陀如来の
お堂のほうが大きい。

もともとの仏教は、順化していき、それぞれの国、土地の
仏教に変化していっている。
日本では、日本仏教といえる。
スリランカではスリランカ仏教。
チベットならチベット仏教・・・
インドでは、カースト制度廃絶したいという背景があり、
ニューブッディズムといわれる信仰も起きている。
仏教徒も増えている。
国勢調査で、ヒンディーと書いたりするが、実際には
仏教徒である場合もある。
これは、江戸時代に真宗が禁止された地域の隠れ念仏と
似たようなところがある。

宮沢賢治、もとは真宗の門徒。
後に、法華経の日蓮宗に変えた。
宮沢賢治が書いた書物は、宗教観を伝えるために
書いたものもある。
有名な、雨にも負けず・・・のくだりの文章は、
宮沢賢治の死後、整理していたときにでてきた。
この文章には、実は、南無妙法蓮華経ということば
が入っていた。しかし、世の中には
公表されず、宗教的部分が消された。

宮沢賢治は、なぜ日蓮宗へ変えたのだろうか。
今、この世の中を変えたいという気持ちが
強かったのだろうか。
真宗では、念仏を唱えて成仏する。
そして、またこの世に戻って、慈悲の心で、
他の人を救う。
宮沢賢治には、理解できなかったのだろうか。

真宗では、熱心な人は、七五三は祝わない。
クリスマスとかやらない。門松はかざらない。
ある真宗のお寺の住職は、
お寺に入ってくる車に、神社のお守りが
つられているのを見つけると、お寺に入るのを
拒否するという極端な住職もいる。

かつて、企画で、百寺巡礼というものをやった。
お寺に行くと、お寺の中に、神社があるという
こともある。しかたなく手を合わせる。

不思議なことに、神社で般若心経を
唱える人もいる。

ある記者から、親鸞の思想について、聞かせて
もらえませんかといわれる。
いつのときの親鸞についてですか?
・・・のとき?、・・・のとき?
関東に来て・・・のとき?、
島流しにあったとき?・・・
(数限りないくらいの親鸞の時代が出てきて
 親鸞おたくっぽいところが見られた。)

親鸞には、その時その時で、いろんな思想がある。

「親鸞」という本も書いたことがある。

沖縄には、仏教の信仰はなかった。
琉球新報に、親鸞について、
連載記事を載せたら、けっこう関心が強かった。
(個人的に思うが、浄土宗の僧侶が琉球で
 浄土宗を広めたとともに、
 エイサーの基礎となったとも言われる踊り念仏
 を広めたとも言われている。
 そこから浄土宗と親戚の浄土真宗に感心を
 もったのかもしれない)

歎異抄(たんにしょう)の現代訳の本も出版したことがある。

このたんにしょうは、親鸞自身が書いたものではない。

教行信証(きょうぎょうしんしょう)という本は、
親鸞が書いた。

れんにょ上人が、蔵の中から
ばらばらになった書を見つけた。
その書をまとめて、たんにしょうとして世に出した。
たんにしょうは、いくらかは、
れんにょ上人の思いが入っているのかもしれない。

キリストのバイブル。
キリスト自身は書いていない。
論語も孔子自身が書いていない。
周りの人が書いた。

本人が書くより、周りの人が書くほうが
よりきびしく、客観的に書くだろう。

仏典もブッダが書いていない。
ブッダの言葉は、歌として引き継がれたという面もある。

ブッダの教えを聞いた弟子たちが、町に出て
ほらを吹く。ほらを吹くと、何事かと人が集まってくる。
人が集まったところで、太鼓やら笛でもって、
ブッダの教えを歌にして広めていった。

ほらを吹くとは、うそをつくときに使われる言葉だが、
このときは、真実のことを言っているのであって、
今の意味とは逆の意味になってしまっている。

ブッダの死後、何百年後に文字になった。
聖書も、論語も、仏教も、言い伝えで
世の中に受け継がれてきた。
(つまり書物から理解するよりも
むしろ、いい伝え聞くことで教えが
伝わるという大切さがある。)

(ちょっと余談のようで)
中国のお寺、だるま大師にゆかりのあるお寺。
座禅が始まる。日本とはまるで違う、
最初は雑談からはじまり、自然に会話が
なくなり、なんとなくはじまる。日本のように
、棒でたたくということなどしない。
食事のとき、合掌してから食事という日本のような
ことはしない。
ちょっと、びっくりした。

真宗は、本を読むより、面と向かって
直接法話を聞くということに重きを置く。

親鸞が書いた教行信証は難しい。
読解しても難しい。
結局、たんにしょうに行き着く。

親鸞は、和讃(わさん)を老年期によく書いた。
わさんには、メロディがつく。
人が集まって歌うと味がある。
活字としてみただけでは味気ない。
わさんは七五調。

当時、地獄、極楽がはやった時代。
疫病や、地震も多かった。

法然、親鸞が、念仏を唱えれば
救われると説いた。

さらに、この教えを広めたいということで、
歌うことを考えて、当時の流行にあわせて
わさんという形をとった。

ブッダの時代も歌でも教えは広まった。
教えは、聞くということで広まってきた。


後記:
さすがに有名な作家ともなると、
立て板に水のごとく、よくしゃべる。
ちょっと難しい言葉がでたりするところは
ちょっとわからなかったりした。

今日は、目からうろこ的なことも多かった。
文章の他、言い伝えて伝わる大事さを感じた。
真宗が推進している法話、聴聞の大切さを
実感した。

個人的にも、法話の聴聞に数多く触れられる
というのはありがたいことだ。





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築地本願寺、仏教文化講座2016.2小谷みどり氏

2016-02-27 23:04:26 | 仏教
小谷みどり氏 (第一生命経済研究所主席研究員)
講題「現代人にとって、よき死とは ~つながりから考える~」

終末医療とか、人が亡くなった後のことに関する
研究をしている。

いい死にかたとは?

テレビにもたまに出ることがある。
3/16NHKの朝ドラのあとくらいの
いのちのTVという番組にもでる。

ぽっくりと死にたい人はどれくらいいるでしょうか?
と聴衆に質問。すると割と多くの人の手があがった。
(自分も直感的に手をあげた)

手を上げた人は、今すぐには死にたくないでしょう?

ぽっくり死にたいというのは、日本人独特の観念。
ぽっくり死ねるというお寺があるのは日本くらい。

アンケートのデータから、
ぽっくり死にたいという人の理由。
~家族に迷惑をかけたくないから。苦しみたくないから。
 寝たきりなら生きていてもしかたないから。
 という割合が多い。

逆にぽっくり死にたくないという人の理由。
~死の心づもりをしたいから。
 少しでも長生きしたいから。


来週、列車をとめた認知症の人の上層の裁判結果が
でる。注目している。
鉄道会社が損害賠償を求めている裁判。
(後日のニュースで、最高裁判決。
 訴えられた認知症の家族が勝訴。
 当初請求された720万の賠償金はなし)


日本では、出産は自然分娩。痛みをともなう。
病室で大声を出す。ところが欧米では、
無痛分娩。日本人は、痛いほうを選ぶ。
病気で死ぬときも、痛みを伴うのは、ふつうだと日本では
考える傾向。


こっちから半分の人は、たぶんガンになる。
と聴衆に対して発言。
ブラックユーモアすぎるといえば、そうなのだが、
これがけっこう聴衆には受ける。
これだけでなく、その後もけっこうブラックユーモア。

ガン。欧米では緩和ケアが進んでいる。
痛いほうが患者の気がする。ということで、
日本では、痛み、苦しみは、ほどほどにあったほうがよいという考え。
痛み、苦しみがあるから、ぽっくり死にたいということにつながる。

欧米では、死ぬならガンで死んでもよいと思っている人も多い。
欧米では、痛みを(強く)抑える。


孤独死について、かわいそうと言われる。

郵便局で何千円か払うと、月一回話をしに来てくれる
サービスがある。
でも月一回だったら、死後腐ることも十分ありうる。

欧米では祖父祖母と住むという文化はない。
日本で65歳以上の人の同居状況を調査した。
1980年ころ日本では三世代同居が5割ほど。
現在では7世帯に1世帯くらいは三世代同居。
でも6割は高齢者だけで暮らしている。

一昨年、東京都で亡くなった高齢者。
家族がいても半分は孤独死。
つねに24時間いっしょにいるわけではない。
ぽっくり死は、孤独死の可能性も高い。

ぽっくり死にたいというのは、病院以外で死ぬことが
想定されている。

病院入院中でも、
夜中から明け方にかけて死ぬことが多い。
孤独死の可能性は高い。

厳密には孤独死になる可能性は高くなるが、
死んで数日以内で発見される場合は、
孤独死とはいえないかもしれない。
回りに人がいなくて、一ヶ月も二ヶ月も
気遣ってくれる人がいない。
そういう状況が、孤独死がかわいそうという
状況なのだろう。
孤独死は、死に方の問題ではない。

おじいちゃん、おばあちゃんの入院。
普段はあまり病院に来ないのに
死にかけているときには家族は来る。
死の瞬間に日本人はこだわる。

2年前にスイスに行って、安楽死をするおばあさんに
たち合わせてもらった。
尊厳死は、日本で認められている。
治る見込みがないときに延命措置をしないという尊厳死。
自分は尊厳死にしたいか、どうしたいか、
考えて家族と相談しておいたほうがよい。
医者まかせにする人もいるが、
そんなこと医者には関係ない。

安楽死は、死が近いときに人工的に死を早める。
日本では、医師は殺人罪に問われる。

安楽死は、アメリカではワシントンやオレゴン州。
オランダ、ベルギー、スイスなどでも認められている。

安楽死は許可された国でも、
そんなには安楽死は選ばれない。
最期の手段が、安楽死。審査も厳しく、
何年もかけて審査される。

安楽死をするおばあさん。
実は認知症。自分のことがわからない。
心の苦しみ。体の苦しみのケースではない。
そのおばあさん、30人ほどの家族親戚の人たちとの
最期の別れを告げた。
そして注射をうたれ、眠くなるように死んでいった。

日本では、遺族の立場があるので、死に方にこだわる。
韓国、中国など儒教の国の発想。

欧米では、人の死に方を尊重する。遺族の立場なんて
あまり考えない。

日本人のいんとうがんの男性。
いんとうがんは、声がでなくなる。それをいいことに
妻は、そんな不摂生をしていたからそうなるんだみたいな
ののしるような、そんな状況にも遭遇したことがあった。

孤独死がかわいそうという発想は、欧米には無い。

介護疲れからくる介護殺人。日本だけ。
介護は、欧米では家族はしない。

介護施設において、介護の観念が欧米とは違う。
日本では、家族に代わって、自分がやらなくても
世話してもらえるというのが日本的な考え。
本人にとって、というよりも、家族にとって
という視点で考える。
欧米では、介護の考え方が違う。歩けなくて
車椅子のお年寄りがいたとする。
手が使えるなら、過度に補助はしない。
手が動けば、自分で車椅子を動かしてもらう。


余命半年といわれたら、どうしたいか?
というアンケートデータ。
男性は、銀座クラブで女性と飲み明かしたい。
温泉に行きたい。・・・・
女性は、ダイエットはやめて、たらふく食べたい。・・・
余命半年と言われたら、健康でないのに
そんなにいろいろできない。
(個人的な経験談だが、余命半年時点なら、
 少しはやりたいことはできるのでは?と思う。)

最期に、生きる指針としてのヒント。
高齢者になっても、夢をもつ。
それから「きょうよう」「きょういく」。
きょうようは、今日する用事を作る。
きょういくは、今日行くところがある。

いい生き方をした人が、いい死に方ができる。


後期:
綾小路 きみまろ以上の、
ブラックユーモアもありつつ、
死に対しての考え方を聞くことができた。
なかなか、おもしろく有意義な講話だった。






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「大仏をめぐろう」 坂原弘康氏の本より

2016-02-21 22:37:05 | 本の紹介
牛久大仏120mという表記から
蓮華座、台座込みの表記になっている様子。
(牛久大仏は蓮華座抜きでは100m)
個人的には、蓮華座などの台座は
仏像の大きさには含まないものと
考えているので、
引き算する必要はあろうかと思う。
でも、とにかく、大仏、巨大仏は
全国にけっこういるもんだ。

この本の中から、
10m以上で、まだ見たことない
仏をリストアップしてみた。


北海道大観音88m
札幌市南区、御霊供養大仏13m
札幌市南区、札幌涅槃大仏45m

青森市、昭和大仏、大日21m
秋田県仙北市、田沢湖金色大観音35m
岩手県、釜石大観音48m

宮城県柴田町、船岡平和観音24m
宮城県酒田市、酒田大仏17m
仙台大観音100m
福島県会津若松、巨大釈迦横臥像13m
福島県相馬市、百尺観音27m
会津慈母大観音57m

群馬県太田市、白蛇観音10m
群馬県、中之嶽神社、大黒天20m
茨城県、一乗院、毘沙門天16m
栃木県宇都宮市、平和観音27m

静岡市葵区、井川大仏11m

新潟県越後の里、親鸞上人40m
新潟県糸魚川市、白馬大仏23m
長野県下高井群、平和観音25m

愛知県尾張旭市、愛宕山厄除弘法大師10m
愛知県西尾市、刈宿の大仏14m
愛知県江南市、布袋大仏18m
岐阜大仏13m
三重県津市、大観音寺33m

富山県射水市、新湊弁財天15m
富山県高岡市、高岡大仏15m
石川県、加賀大観音73m
石川県小松市、ハニベ巖窟院仏頭15m

奈良県高市郡、天竺渡来大観音20m
兵庫県美方郡、但馬大仏15m

広島県尾道市、耕三寺15m
山口市、大聖青不動明王10m

小豆島大観音大きさ非公表
高知県室戸市、弘法大師像21m

福岡県、南蔵院、涅槃像41m
福岡県朝倉市、香山昇龍大観音28m
久留米市救世慈母大観音62m
大分県豊後大野市、稲積昇龍大観音22m
熊本県玉名市、大釈迦坐像38m


近いところから、
是非回ってみたい。




ちなみに
自分が見たことがある10m以上の
主な大仏・大観音は、
牛久大仏の他、千葉館山萬徳寺涅槃仏、
大船観音、東京湾観音、日本寺大仏、
高崎観音、鎌倉大仏、東大寺大仏。

他にも、思い起こすと、
奈良の長谷寺の十一面観音は10mを越して
いるみたい。
親戚のような鎌倉の長谷寺の十一面観音は9m台。
麻布の長谷寺(ちょうこくじ)の麻布大観音も
10mほどあるらしい。


追加で見たい大仏:
久里浜の三浦大仏
琵琶湖大仏

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メトロ一日券で少しケンブツ(目黒不動他)

2016-02-11 21:31:52 | 見仏(東京)
目黒不動
地蔵菩薩のお堂は、扉に
少し隙間があるので
中の様子をみることができる。
慈悲に満ちたような、そして、どこか
怖い雰囲気の地蔵菩薩(写真)。
地蔵菩薩の左は、脱衣ばあだろうか?
右は不動明王。
本堂には、これぞっという仏像はいないが、
本堂裏には露天の大日如来坐像281cm。
前に来たときに見た記憶より、大きいなという印象。
歴史を感じられるなかなかの貫禄のある仏。
現在は露天だが、江戸時代は
そうではなく、建物の中にいたようだった。

日本橋駅下車。日本橋を見てよりみち。

浅草寺
本尊は秘仏。露天の仏像はあるが、
仏像としては、このお寺は見所が無い。
休日なので人多し。さらに、
春節のこの時期、中国語が周りでとびかう。
西洋人、マレーシアなどの東南アジア系の人は
見た目で外国人というのがわかる。
パット見日本人と区別がつかない中華系は
外国人かどうか、すぐにわからない。
が、春節の時期なので、かなりの中国人は
いただろうと思う。
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築地本願寺、法話2016.2.5

2016-02-05 21:25:32 | 仏教
東京のどこかの住職。真宗にしては
珍しく、中学生くらいの短い髪。

今日、忙しい中、法話に来た人、、、
功徳が… (ためて)…特別ないです。
(今日の中では個人的には一番面白かった言葉だった)。
いつも通り、当たり前の阿弥陀さんの
功徳がある。


阿弥陀経より、青色青光。
これは、お浄土の様子を示した言葉。
青色は青色のまま、違う色には
ならない。違う色ではないかどうか、
考え巡らせていないでしょうか。

当たり前のことが、尊い。例えば親子。
1年前子供が生まれた。
自分にとっても尊い存在。
自分の母にとっても尊い存在。
二世帯住宅の母が、何かにつけて
孫を見に来る。


人生は苦である。とお釈迦様。

死は逃れられない。死を苦しみに
ならないようにする教え=仏になる。
なもあみだぶつというお念仏で
仏にならせて頂く。


(私的なこと)
子供の頃は、恥ずかしがりや。
人前で話すなんて、考えられなかった。
今はお取次ぎをしている。


子供が生まれたとき、一人では何も
できないこの命をなんとかしなくては
ならないと思った。

それに似たようなこと。
自分ひとりでは、仏になれない。
それを実践させてくれる阿弥陀如来。
なもあみだぶつと唱えることにより、
仏にならせてもらえる。

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