■「鬼畜米英」と「ストックホルム症候群」■
8月15日の玉音放送で日本人の価値観はひっくり返ったと言われる。
しかしその約2週間後マッカーサーが丸腰で日本に上陸してから、日本人の心理状態は精神医学上極めて興味ある状況に陥る。
鬼畜米英と恐れたアメリカ軍は意外と紳士的だった。
それどころかマッカーサーは「自由と民主主義」を手土産に持ってきた持った紳士であった。
以後7年の間占領下という閉鎖空間で日本人と共に暮らすこととなる。
ここに日本人は後に精神医学用語となる「ストックホルム症候群」を全国的に体験することになる。
ストックホルム症候群とは、
4人の人質の犯人に対する複雑で難解な心理状態を指すための言葉で、彼らは被害者になったにも関わらず長い期間(6日間)犯人と時間を共にすることによって、
最終的には犯人に対して連帯感、親近感、同情を感じて犯人逮捕の際彼らは感謝するべき警察を非難し、非難すべき犯人を支持した。
この人質の心理状況が後にストックホルム症候群と言われるようになる。
米軍の日本占領時では、言うまでも無く、凶悪犯人は鬼畜と思った米軍の総大将マッカーサーであり、人質は敗戦国民の日本人、人質現場の銀行は占領下の日本(Occupied Japan)にあたる。
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■敵の敵は味方■
「ストックホルム症候群」は特に地上戦の激しかった沖縄戦で顕著に現れた。
沖縄でも終戦を待たないで米軍の捕虜になった人は価値観の逆転を味わった。
鬼畜が食料を与え怪我の治療をしてくれた。
無残な姿で未だ逃げ回っている日本軍は「敵」になった。
自分達の敵である日本軍の敵は米軍。
「敵の敵は味方」という方程式が成立し、この瞬間米軍は解放軍になった。
更に沖縄を日本から永久分断するための米軍の心理作戦、そしてそのため善意を強調する米軍との共同生活は沖縄でも「ストックホルム症候群」の症状が群発した。
凶悪犯人は鬼畜と思った米軍であり、人質は捕虜、人質現場の銀行は捕虜収容所、いや沖縄全島といっても良い。
この辺の複雑な心境を当時沖縄で捕虜になったある女性は次のように書き残している
≪米軍に保護された住民にとって、それまでの『兵隊さん』は、いつしか『日本兵』という“敵”に変わっていた。住民は、すっかり”親米派”になっていたのである。『お国のために』と信じ、日本軍と行動をともにしてきた私の母・宮城初枝も、大けがをして投降したものの、島の人たちからあらぬ噂をたてられ、日本軍に加担したとして批判の的にされていた。
戦争は終わった。しかし母にとっての”戦争”は終わらなかった。さまざまなできごとが戦後に尾を引き、母はその当事者になってしまうのである。≫
(宮城晴美著 「母の遺したもの」)
■マッカーサーの置き土産■
マッカーサーが7年後日本を去るとき「鬼畜」は「親愛なるマッカーサー様」に変わっていた。
彼のもとには日本国中から感謝と惜別の念に満ちた数万通の手紙と贈り物が届けられていたと言う。
だが、マッカーサーが日本に残したものは「言論の自由」ではなく、「焚書坑儒」、・・・いや、そんな荒業ではなく、知られざる「3年殺し」の技だった。
古来沖縄に伝わる空手の秘技「3年殺し」については「マッカーサーの三年殺し」【再掲】で書いた。
突かれたときは痛くも痒くも無いが3年目には内部の細胞が崩れて死に至るという必殺技だ。
しかしマッカーサーの秘技は3年どころか60年の時を超えて日本の内部組織を今でも壊し続けている。
■マッカーサーの焚書坑儒■
マッカーサーは当時のアメリカでも実施していなかった男女平等を始めとする数々の民主主義の理想を持ち込んだ。
彼は軍人でありながら何故このような当時は勿論、現在でも類のない理想主義に満ちていたたのか。
その鍵をとく為に彼が日本に第一歩を印すまでの足跡を辿ってみる。
パターンの復讐
マッカーサー、この誇り高きエリート軍人はフィリピンでは日本軍に敗走の屈辱を味合わされた。
挌下と見下していた黄色民族の軍隊に敗走する事は彼の辞書には無かった。
ダグラス・マッカーサーは1880年1月26日アーカンソー州リトルロック生まれ。父親のアーサー・マッカーサー・ジュニア中将は南北戦争の退役軍人であり名誉勲章を受章している職業軍人家系だった。
1898年、アメリカ陸軍士官学校に入学し、1903年に陸軍少尉になり卒業した。その成績はアメリカ陸軍士官学校史上最高で、マッカーサーの取った成績以上の成績で卒業したものは未だに現れていない。
1942年5月7日、その誇り高きマッカーサーがフィリピン・コレヒドールで日本軍本間中将との戦いに敗れてオーストラリアに敗走する。
この屈辱の負け惜しみに「I shall return」(必ず戻る)という有名な言葉を残した。
彼の屈辱の敗走の2年後、彼より10歳若いアイゼンハワーがヨーロッパ戦線でノルマンディ作戦を指揮して世界的英雄になった。
アイゼンハワーは軍人として必ずしもエリートコースを歩んでおらず一時は閑職で燻っていた時期もあった。
またアイゼンハワーはマッカーサーの部下として彼の補佐官を務めた時期もあった。
軍人のエリートコースを歩みながら、むしろ政治家志向のマッカーサーが後年大統領予備選に敗北をして、立候補を再三辞退していたアイゼンハワーが大統領になった。
日本占領までのマッカーサーはフィリピンでの屈辱を晴らす復讐の念に燃えていた。
それには日本の軍隊を徹底的に壊滅させる必要があった。
日本を手足のもぎ取られた子羊のように、二度と米国に反抗できない状態にしておく意図に燃えていた。
そのためには日本国憲法の設定、その中でも交戦権の否認は不可欠であった。
■マッカーサー 皇居を睥睨しながら執務をした■
マッカーサーは皇居に面した第一生命ビルの6階に占領軍の本部を構えた。
そこから皇居を見下ろして天皇の権威の上に君臨する全能の権力者となった。
日本の歴史上権力と権威を1人で独占して日本を統治した者は彼をおいて他に例が無い。
日本の歴史では朝廷の権威と幕府の権力は常に補完しあってきた。
マッカーサーと言えば日本に「自由と民主主義」を普及させた恩人とと見られている。
しかし彼が日本で最初に行ったことは「自由と民主主義」とは逆の「焚書坑儒」であった。
「焚書坑儒」とは中国の専売特許かと思ったらマッカーサーもこれを行った。
秦の始皇帝にも劣らぬ絶大な権力を振るったマッカーサーなら「焚書坑儒」もけして不思議ではない。
マッカーサー司令部は昭和21年3月に一通の覚え書きを出して、戦時中の日本の特定の書物を書物の存在すべきあらゆる場所から没収し、廃棄することを日本政府に指示した。
書物没収のためのこの措置は時間とともに次第に大がかりとなる。
昭和23年文部省の所管に移って、各都道府県に担当者が置かれ、大規模に、しかし、秘密裏に行わた。
没収対象の図書は7千7百余種に及んだという。
そのとき処理し易いように作成されたチェックリストが分厚い一冊の本として公開されている。
戦後のWar Guilt Informasion Programの一環であった私信にまで及ぶ『検閲』の実態はかなり知られている。
だが、数千冊の書物の『焚書』の事実はほとんどまったく知られていない。
チェックリストは、昭和57年に文部省社会教育局編として復刻され、やっと公開されるようになった。
失われた書物の内容を、殆んどの日本人は知らない。
つまり、先の大戦に関して、戦後の日本人は偏った情報を与え続けられ現在もそれが継続していることになる。
■「三年殺し」に潰された安倍政権■
マッカ―サーの「焚書」という「三年殺し」の荒業は彼の予想を遥かに越えて、60年経った現在でも日本の内部組織を破壊しつづけている。
マッカーサーの負の遺産である「戦後レジーム」。
それは「戦後民主主義」という形で今でも左翼マスコミの中に奥深く染み込んでいる。
その解消に果敢に挑んだ安倍前首相は、「戦後レジーム」そのものともいえるマスコミと左翼官僚によって見事に潰されてしまった。
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あまりにもうまくいきすぎてイラクでも同じ事をやろうと思っていたのでしょうね。
情報閉鎖がなければ天動説を信じ込ませ続ける事ができません。
世界中で情報閉鎖が可能なのは沖縄だけだとしたらなさけないです。
そして今、沖縄教科書問題を手始めに、厄介なことが起きようとしている。
今朝の産経の紙面を阿比留氏が解説している。
http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/405037/
>世界中で情報閉鎖が可能なのは沖縄だけだとしたらなさけないで
タイムス、新報の力は大きいですね。
沖縄人もお人好しとバカは紙一重ということにそろそろ気がつく頃だと思います。
◆きんじょうさん
リンク先読みました。
護憲を叫ぶ輩に限って憲法違反の「外国人参政権」に賛意を示す奇妙なねじれも現象も平和ボケのなせる業なのでしょうか。
次の次あたりのネタにしてみたいと思います。