狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

沖縄・首里城再建と紅型の父鎌倉芳太郎 【付記】

2007-12-19 06:49:38 | 未分類

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ウィークリー沖縄-本土に伝わらない沖縄の真実-

 ■沖縄コラム
◎「紅型」の父、鎌倉芳太郎

 今月初め、香川県の高松南ロータリークラブのメンバーが沖縄を訪れた。「人間国宝だったわが県の鎌倉芳太郎さんが情熱を注いだ縁の地をぜひみんなで見学したかった」と、代表者の一人である豊田章二さんは、訪問の理由を語った。

 泡盛と並んで、沖縄の特産物の一つとして、「紅型」がある。紅型とは、沖縄の伝統的な染織技法の一つで、「紅」は色全般を指し、「型」は型絵染めの型紙をいう。起源は16世紀ごろとされているが、この紅型を戦後世に出したのが、鎌倉芳太郎である。

 1898年生まれの芳太郎は、香川県師範学校卒業後、東京美術学校図画師範科(現在の東京芸大)に入学、1921年に沖縄県女子師範学校と県立第一高等女学校に赴任する。教鞭(べん)を執る一方で沖縄の美術工芸を研究、持参のカメラで現地の文化財を撮影したほか、克明にノートを取った。特に首里城に感激し、詳細に記録を残した。

 23年にいったん帰京、東京美術学校研究科に再入学し、東京帝国大学の伊東忠太教授に師事、沖縄研究を続けた。同年6月、老朽化した首里城正殿の取り壊しの報道に接した芳太郎は、伊東教授に相談した。同教授が内務省に電話し、取り壊し寸前に内務省が工事中止の命令を出して、正殿は史跡名勝記念物として保存されることになった。首里城の保存、再建に貢献したのも芳太郎である。

 24年に伊東教授とともに琉球芸術調査事業のため沖縄入りし、琉球王朝尚家や那覇の名家の所蔵品を調査、撮影し、それが現在の「鎌倉資料」となって現存している。

 45年の空襲で自宅と蔵書、資料を失うが、琉球芸術資料だけは東京美術学校文庫に保管していたため、焼失を免れ、芳太郎の琉球紅型研究の再出発となる。
その後、「琉球紅型」の実物大彩色豪華本を完成、61年に日本工芸会正会員となり、72年の伝統工芸展で日本工芸会総裁賞を受賞。翌73年に人間国宝に認定され、10年後の83年に84歳で亡くなった。

 鎌倉芳太郎について、「一般県民はあまり知らない」(地元の知人)。沖縄の伝統文化・芸能に貢献した彼の名を忘れずにいたい。(H)
(2007.12.18 )

                                         ◇

鎌倉芳太郎という名を聞いてもその名を知る沖縄県人は少ないだろう。

だが沖縄観光の目玉とも言える首里城の復元の最大の功労者であり、沖縄が誇る伝統工芸「紅型」の名付け親であると言われると改めて鎌倉芳太郎と沖縄の密接な関係に感じ入るだろう。

沖縄人は何かというと「本土の人は沖縄のことを知らなさ過ぎる」と不満を述べるが、人間自分の地域のことは良く知っていても他県のことは知らなくて当たり前のこと。

知らないのを怒る前に知らしめる努力が必要だと思うのだが、かく言う筆者も含めて意外に地元のことは知らないものだ。

以前、佐渡出身で沖縄嫁をもらい沖縄に永住している某君と酒を飲んだ時の沖縄人への不満を想いだす。

「沖縄人はヤマトンチュが沖縄のことを良く知らないと、すぐ馬鹿にしているというが、佐渡の出身だと言うと『帰省するのが大変ですね、タライで帰るのですか』と本気で聞くのですよ」

まぁ、この話は極端な例だが似たような話は多々転がっている。

 

鎌倉芳太郎については首里城復元の折、戦火で原型もないほど破壊しつくされ図面も消失していたが鎌倉芳太郎が戦前の首里城の詳細な図面を記録し大事に保存していた。

その図面と鎌倉芳太郎助言なくしては現在の首里城は復元できなかったと言われている。 なお鎌倉芳太郎は首里城の完成した姿を見ること無く亡くなっている。

紅型も琉球王朝時代に栄えたが廃藩置県とともに衰退し、戦後に復興したが紅型の普及にも鎌倉芳太郎の存在なくして考えられない。

紅型の字が当てられた のは、大正14年に鎌倉芳太郎が講演で使った時からで、それまで古文書では「形附」が一般的な呼び方であった。

昨日のエントリで愛媛県のことをミカンと「坊ちゃん」の舞台となった程度の知識しか無いと書いたが、訪問したことのない土地なんて所詮はこんなもの。 

お隣の香川県についても「讃岐うどん」の本場程度の知識だったが首里城、紅型の大恩人鎌倉芳太郎が香川県の出身だったとは上記ニュースで初めて知った。

 

香川県つながりで恐縮だが私事を言わしてもらうと、

娘の夫が香川県の出身で、現在夫婦は車で那覇から二時間ほどの名護に住んでいる。

夫(義息子?)は琉球大学農学部を出て数年間食品会社に勤めていたが、永年の夢諦めがたくそこを辞めて現在ヤンバル(山原ー沖縄北部)にある小さな牧場で牛糞にまみれて牛の世話をしている。

本人の父君が公務員なのでただ1人の男の子にも公務員になって欲しかったようだが、沖縄に遣ったのがウンのつきだったようで沖縄の田舎に住み着いてしまった。

勤務場所は社会保険もない個人牧場のようだが、めったにない休日にもわざわざ母校の琉大で飼育している牛を見に行くくらいだからよっぽど動物が好きなのだろう。

現在は辛くとも将来は自分で牧場を経営したいらしい。

夢を失った若者が目に付く昨今、牛糞まみれでも夢のある若者はいいね。

本題から完全に外れてしまったが、首里城、紅型の大恩人ともいえる鎌倉芳太郎の故郷は香川県であることを知って、

まだ訪ねたことのない香川県にも親戚がいるということで強引に締めにしたい。

 

【付記】

話が脱線して肝心のことを書き漏らしてしまった。

香川県の有志が故郷の先輩鎌倉芳太郎氏がその文化歴史の研究に情熱を燃やした沖縄の地を訪問してくれた、・・・これは沖縄の地方紙としては、県人に忘れ去られがちの鎌倉芳太郎氏の紹介と共に是非とも記事にして欲しいニュースだったはず。

だが、琉球新報、沖縄タイムスともこのニュースはスルーした。

首里城や紅型に関連付けても記事にして欲しかった。

両紙は「集団自決」で大騒ぎするだけが地方紙の役目ではないはずだ。

県民の知る権利を何と心得る。

鎌倉芳太郎氏は石垣名誉市民になっているが同じ石垣名誉市民・「風邪のウスメー」こと岩崎卓爾の記事と関連付けて八重山毎日新聞にこんな記事があった。⇒東北人の足跡Add Star

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