狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

思い出の歌 「リルとお富さん」

2006-06-30 12:16:13 | 音楽

最近の沖縄出身の芸能タレント活躍は目覚しいものがある。

歌手、女優、お笑い芸人とジャンルを言うだけで個人名が数人はすぐ出てくる。

ところで沖縄出身の芸能人の先がけは一体誰だろう。

仲宗根美樹? 嘉手納清美? 大空真弓? それとも沢村みつ子?

やはり南沙織かフィンガーファイブか。 何故か女性パワーが炸裂している。

だが、忘れてはいけない男性が一人いた。

渡久地政信(1916年(大正5年)10月26日 - 1998年(平成10年)9月13日)は、昭和・平成期の作曲家。

渡久地という名は沖縄ではごく普通の姓で海洋薄公園の近くに「渡久地」という港もある。

因みに渡久地と言う姓には「政」が付く名前が多く(例:政一、政彦、政功)、筆者も数人はすぐ名を思いつく。

渡久地政信は沖縄・恩納村に生まれ、少年期を奄美大島で過ごす。日本大学芸術科卒業後、1943年(昭和18年)、日本ビクターレコードより貴島正一の名で歌手デビューした。

だが、歌手を断念し1951年(昭和26年)よりキングレコード専属の作曲家に転身(後に古巣のビクターに移籍)。

以後、『上海帰りのリル』、『お富さん』、『島のブルース』など数多くのヒット曲を手掛ける。

中山晋平メロディーが日本民謡、古賀政男メロディーが朝鮮民謡、服部良一メロディーがジャズを基調としているのに対し、渡久地メロディーは生まれ育った沖縄・奄美民謡をベースにしているといわれる。

1998年9月13日、肺炎のため死去。享年81


上海帰りのリル 昭和26年
作詞:東条寿三郎
作曲:渡久地政信
唄:津村 謙

 1951(昭和26)年、津村謙が歌って大ヒットし、その声を「ビロードの声」と評されるほどのブームとなった。

昭和27年には新東宝で同名映画が作られている。主演は水島道太郎、香川京子、森繁久弥が主人公の相棒役で出演している。

当時筆者は11歳。 この歌は大ヒットでタンゴ調の前奏は今でも憶えている。

映画は確か国際通りの三越の場所にあった大宝館で上映された。

戦後まだ6、7年しか経っておらず戦前のエキゾチックな国際都市・上海から引き上げてきた人が多かった時代を反映した歌。
 
上海リルという名前は、戦前の昭和9年に公開されたワーナー映画『フットライト・パレード』の主題歌『上海リル』から採られたようだ。

『上海リル』はW・ワーレン作曲・服部龍太郎訳詞で、昭和9年に歌川幸子、10年にディック・ミネが歌ったという記録がある。

日本の敗戦とともに、大陸や南方各地に散っていた多数の日本人たちが引き揚げてた。その混乱のなかで、さまざまな生き別れや死に別れがあった。

「上海帰りのリル」は、そんな社会情勢を背景として作られたもの。

歌詞にある四馬路は上海にあった歓楽街。

「四馬路」とは四頭だての馬車が通れるほどの広い通りの繁華街という意味だという。

ちなみに「ハマのキャバレーに居た」の「ハマ」は横浜のこと。

津村謙(1923-1961)
富山出身。魚津中卒業後、上京し、作曲家の江口夜詩の門下となる。昭和18年にデビューするが、すぐに出征。戦後、古賀政男門下となり、芸名を「愛染かつら」の主人公である津村浩三と、津村役を演じたスター俳優の上原謙からそれぞれとる。「ビロードの歌声」と呼ばれて23年の「流れの旅路」がヒット。26年には「上海帰りのリル」が爆発的なヒットとなった。28年の「待ちましょう」、30年の「あなたと共に」と、寡黙な人柄でその後も着実にヒットを重ねていったが、36年11/28朝7時半、杉並区神明町の自宅車庫の車内で、意識を失っているところを母(62)に発見され、医者が呼ばれたが間もなく死亡した。午前1時頃過ぎに練馬区向山町の作曲家、麻雀をしていた吉田矢健次の家から車で帰宅、朝早い時間で妻や母を起こす訳にもいかずにエンジンヒーターをかけたまま寝込み排気ガスが車内に充満、一酸化炭素中毒になったらしい。車庫のシャッターを下ろしていて、飲酒の形跡もなかった。本名は松原正。小平霊園に眠る。 (歌手の解説は「誰か昭和を想わざる」より引用http://www.geocities.jp/showahistory/index.html)

                    *

◆戦前の国際都市・上海のエキソシズムと、リルというカタカナ名前の女性の歌から一変、日本の伝統歌舞伎から題材をとった「お富さん」が爆発的に流行ったのは昭和29年、筆者が13歳の頃。

タンゴ風のリズムの「上海帰りのリル」の後は、日本調でのお囃子入りの「お富さん」で作曲者の渡久地政信は当時としてはかなり変わり身の早い作曲家だったようだ。

後に都会ムード調のヒット曲を連発した吉田正が三浦洸一の歌で「お富さん」の二番煎じとも言うべき「弁天小僧」を作曲したのはご愛嬌だ。

が、柳の下にドジョウはいなかった。

結局その三浦洸一も後に渡久地政信の「踊子」でその地位を不動のものにする。

お 富 さ ん

作詩 山崎 正  作曲 渡久地政信 唱 春日八郎
昭和29年
春日八郎(1924-1991)
会津出身。13歳でエンジニアを志して上京、苦学の末に早稲田大学高等学院の理科に入るが、しばらくの後に東洋音楽学校に進む。昭和23年に歌手デビューするが、その後は鳴かず飛ばずで、引退を覚悟していた27年、ようやく「赤いランプの終列車」がヒットする。29年には「お富さん」がヒット。この歌舞伎をモチーフにした奇妙な歌は、元々、岡晴夫が歌う筈であったが、岡のレコード会社移籍で春日にまわってきたものであった。30年代には「別れの一本杉」「山の吊橋」などが次々にヒット。三橋美智也などとともに一世を風靡する。徹夜で飲み明かして、翌日のレコーディングを一発でOKという離れ業も行った。48年には芸術祭賞大衆芸能部門大賞を受賞。平成1年には紫綬褒章、3年には勲四等旭日小綬章を受章。競走馬を所有し、野球チームも主宰するなど趣味多彩の人だった。昭和63年から村田英雄、三橋美智也と「三人の会」で年1回のコンサートを行っていたが、平成3年の6月に入院、左大腿部腫瘍を切除、7月の「三人の会」には欠席した。9/6に中野サンプラザでのキング60周年コンサートが最後のステージ。10/22午後8時38分、肝硬変と心肺機能不全で新宿区の病院で死去。足の切断手術を本人は覚悟していたのだが、容態が急変したもの。本名は渡部実。住まいは世田谷区深沢5丁目だった。(引用は同上)
 
(続く)

 


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