狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

安仁屋政昭教授の大嘘、「チビチリガマの集団自決」

2023-09-24 14:33:04 | 政治

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安仁屋政昭教授の大嘘、「集団自決は南京大虐殺の結果だった!「チビチリガマの集団自決」

2022-09-12 07:56:40 | ●●沖縄の黒歴史

 

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読者の皆様へ

昨年来、沖縄タイムス編著『鉄の暴風』による歪められた沖縄戦の歴史を是正すべく、「慶良間島集団自決」を中心に長年当ブログで書き綴ってきた記事をまとめて出版する予定でした。 ところが思わぬ難問が続出して出版の足を引っ張りました。 

まず昨年末から今年の初めにかけて、思わぬ腰痛を患い寝たきり状態を余儀なくされました。 そのため、ブログを休載したり、今まで経験したことのないコロナ禍、ウクライナ戦争で思考が乱れ、加えて安倍元首相の暗殺というショッキングな事件で右往左往し、脱稿が遅れてしまいました。

最後のそして最大の難関が出版費用の問題です。

出版不況の折、すでに忘れ去られた感のある「沖縄集団自決」という地味な問題の出版に興味を示す出版社が無いという現実です。

 

■出版費用の献金のご協力願い

しかしながら、沖縄タイムスが、梅澤、赤松両隊長の名誉を傷つけ、同時に旧日本軍を「残虐非道」と決めつける反日史観に対し、万難を排し已むに已まれぬ思いで立ち向かう決意です。

出版の目的の詳細は下記引用の「前書き」(※)に、説明してあります。

※★前書き★

皆様の献金ご協力を伏してお願い申し上げます。

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※「前書き」に続き、週一回の割りで本文の一部を抜粋、紹介して、皆様のご理解に供したいと思います。
 

沖縄戦と米軍のジェノサイド

■「東京裁判」と『鉄の暴風』の共通点

本章に入る前に「東京裁判」と『鉄の暴風』との関係について述べておかねばならない。しかし、戦勝国が敗戦国を戦時国際法で裁く「東京裁判」と、敗戦国日本の一地域である沖縄、それも離島で起きた事件に言及した『鉄の暴風』を関連付けるのは、いささか強引すぎるという意見もあるだろう。

ところが、両者には不可分には出来ぬ二つの大きな類似点がある。

先ず第一に両者はGHQ最高司令官マッカーサーの強大な支配下の下に行われた。 次に両者は最初から結論ありきの「残虐非道な日本軍」を断罪する目的で行われた。

 

沖縄の集団自決問題は、昭和25年に発刊された沖縄タイムス編著の『鉄の暴風』に端を発する。著者の太田良博記者は、那覇から目と鼻の先の慶良間諸島には一度も取材に行かず、伝聞と噂を物語風に書いたのが『鉄の暴風』である。

問題はその伝聞記事を根拠にノーベル賞作家大江健三郎が自著『沖縄ノート』で、名指しこそしていないが、赤松嘉次、梅澤裕両隊長を島民に自決命令を下した極悪人であるかのように描き、両隊長の名誉を著しく棄損した。

そこで梅澤氏と赤松氏の実弟が大江氏らを相手に大江岩波訴訟を提訴したが、軍命の立証は出来ぬまま、大江氏らの名誉棄損は免責され、残念ながら大江氏ら被告の勝訴が確定した。

■「軍命」に対する反証は悪魔の証明

裁判で争われた「軍命の有無」に関し、挙証責任は「軍命はある」と主張する被告大江岩波側にある。

「軍命は無かった」という証明は、原告側にとっては立証は不可能である。「悪魔の証明」と言われる通り、反証は不可能だから。

ちなみに曽野綾子氏の現地聞き取り調査では「軍命があった」という証言は一件もなかった。地元の作家星雅彦氏の現地調査でも「軍命があった」という証言はなかった。・・・続きを読む⇒沖縄戦と米軍のジェノサイド

 

先日物故した集団自決の重要証人金城重明氏は、1970年3月27に沖縄タイムスに初めて登場した時、後に大岩波集団自決の証人になるとは考えず、正直に真実を語っていた。

2005年の大江岩波集団自決訴訟が提訴されて以降、手の平返しで証言を変えた。 最初は正直に証言して信実を語るが、2005年の大江岩波集団訴訟以降、証言を変えるのが、集団自決問題の特徴である。

≪1970年3月27日付沖縄タイムス

集団自決の生き残りとして

ー牧師となった金城重明さんの場合ー

記者:当時の状況はどうでしたか。

牧師:わたしは当時16歳だったが、当時のことはよく覚えている。しかし、あくまで自分の考えていたことと自分のやった行為だけだ。

記者赤松大尉が村民に自決を命じたといわれているが。

牧師直接命令を下したかどうかはっきりしない。 防衛隊員が軍と民間の連絡係りをしていたが、私の感じでは、私たちの間には生きることへの不安が渦まいていた.。 つまり敵に捕まったらすごい仕打ちを受けるとか生き恥をさらすなというムードだ。 そして戦況も、いつか玉砕するというところに少なくとも民間人は追いこまれていた。

記者自決命令についてはどう思うか。

牧師:わたしの感じでは、離島にあって食料にも限界があったし、民間人が早くいなくなればという考えが軍にあったように思う。 しきりにそうゆうことがささやかれ、村民の中では、足手まといになるより自決して戦いやすくしたら・・・ということがいわれていたし、こうした村民の心理と軍の命令がどこかでつながったか、はっきりしない。

記者:自決命令は別として西山盆地に集結させたのは軍の命令ですか。

牧師:わたしたちは阿波連にいたが、とくに集結命令というものはなく、人づてに敵は南からくるもので北部に移らなければならないということがいわれた。 事実、米軍の攻撃も南部に集中し、南部は焼け野原になっていた。 二日がかりで西山についた。

記者:村民の集結から自決までの間が不明だが。

牧師:集結した村民は米軍の攻撃にさらされ、絶望のうちに一種の陶酔が充満していた。軍部もすでに玉砕したというのが頭にあった。肉親を殺し、自分もしぬという集団自決がはじまった。今にして思えば、まったくの異常心理としかいいようはないが、とにかくあの光景は軍部をぬきにしては考えられないことだ。 私自身母親や兄弟を兄弟を殺し、自分も死ぬつもりだったが、どうせ死ぬなら敵に切りこんでやれということで米軍のいる方向へむかった。 しかし、そこで玉砕したはずの日本軍が壕にたてこもっているのをみて、なにか悪夢から覚めたようになった。 この壕は赤松大尉がずっとたてこもり村民を近づけなかったところで、住民を保護すべきはずの軍隊が渡嘉敷では反対になっていた。はっきり言って、沖縄戦で最初に玉砕したのは渡嘉敷であるが、日本兵が最後まで生き残ったのも渡嘉敷であった。(1970年3月27日付沖縄タイムス)》

1970年当時、金城氏は「西山盆地に集結したのも軍命ではなかった」と正直に証言している。

ところが後年、裁判が起きると、「西山盆地に集結したのは軍命である」と前言を翻し、さらに「手榴弾軍命説」が破綻すると、今度は「西山盆地に移動させたのが自決命令だ」と、とんでもない詭弁を弄すことになる。

 

「集団自決」は「南京大虐殺」の結果だって? 「チビチリガマの集団自決」2007-07-20 

文科省 沖縄戦「強制集団死」 軍関与“削除”  
「決して自発的に死のうという意識はありませんでした」と語る金城重明さん(略)
 自身が体験者の金城重明さん(沖縄キリスト教短期大学名誉教授)による第1部の基調講演では、感情を抑えた静かな語りに会場は緊張感に包まれた。

 「3月27日渡嘉敷島の最北端に移動しろという日本軍の命令がありました。雨が激しく降っていました。アメリカの艦船から艦砲射撃が打ち込まれました。(夜で)何にも見えない不安の中を移動したわけであります。たぶんその夜のうちに到着し、28日の朝を迎えました。その時の精神状態は、軍から命令が出たという状況でなくても、軍と運命を共にする、最期を遂げるという強圧的な押し付けがありまして、決して自発的に死のうという意識はありませんでした。

 軍官民共生共死さらには一木一葉に至るまで日本軍の支配下にありました。朝鮮半島から来た軍夫は空腹から畑の芋を食べただけで死刑になりました。学校の教頭をされていた大城という先生は小さい子供たちを抱えた身重の奥さんの様子を見に何度か部隊を離れました。それだけのことで彼は死刑にされました。

 集落の区長だった私の親戚に当る人の残酷な様子が私の目に飛び込んできました。1本の木をへし折って妻子をめった打ちにしているのです。自分たちもあんなふうにして、愛する者に手をかけなければならないのだなと以心伝心で感じ取りました。私の父親は離れ離れになってしまったものですから、兄と2人で母親、弟、妹に手をかけました」。

(略)
安仁屋政昭沖縄国際大学名誉教授の話
 「『合囲地境(ごういちきょう)』という言葉をしっかり押さえておいて欲しい。『合囲』とは、包囲、囲い込まれるという意味で、つまり空も海も陸も全て囲い込まれているという状況のこと。合囲地境においては民政はないんだということです」。安仁屋さんの用意した資料によると、陸軍士官学校の教科書である『軍制学教程』に「合囲地境ニ於テハ地方行政事務及司法事務ノ全部管掌ノ権ヲ其ノ地ノ司令官ニ委スモノトス」とある。だからたとえ直接命令がなかったとしても司令官に責任はあるという。

「昭和17年(1942年)陸軍士官学校の校長は、後の沖縄守備軍の親分、牛島司令官、参謀長の長勇、沖縄戦を語る時この2人をしっかり押さえておいてください。沖縄戦では中国戦線において『いざ敵に捕まったら、女性は強姦され、男は戦車にひき殺されたり、首を斬られる』というようなことが語られていたわけです。住民は米軍が来た時にそれを恐れていた。南京大虐殺の前線にいたのがこの牛島なんですね揚子江を渡って逃げていく中国人民衆を、撃ち殺せと命令したのが上海派遣軍の参謀だった長勇。彼らが沖縄戦にやってきて、総指揮を執った。中国戦線で彼らがやってきたことを自慢たらたらいっているわけです」。

 「沖縄の年配の戦争体験者は『ヤマトゥ兵隊がウチナーンチュを殺した』というが、そういうことではなく、天皇の軍隊が住民を殺したということです。ざっと10万人といわれる沖縄守備軍のうち4分の1に相当する2万5000人以上は、沖縄県出身の日本軍であります」。(略) (JAN JAN .2007/06/09)
(西脇尚人)

 

                                            ◇

沖縄戦では中国戦線において『いざ敵に捕まったら、女性は強姦され、男は戦車にひき殺されたり、首を斬られる』というようなことが語られていたわけです。住民は米軍が来た時にそれを恐れていた。南京大虐殺の前線にいたのがこの牛島なんですね。(略)

極左思想の安仁屋政昭沖縄国際大学名誉教授は、どうしても日本軍を残虐非道にしたいため、戦後問題となった中国のプロパガンダ「南京大虐殺」を鵜呑みにして、そのまま沖縄戦に当てはめようとする過剰な思い入れが目立つ。

暴論である。

安仁屋教授にかかると、牛島中将、長参謀が「南京大虐殺」の犯人で“中国人を虐殺した”とでも言いかねない。根拠は、残虐な「南京大虐殺」の犯人が沖縄に赴任したのが、結局「集団自決」の原因、といいたいのらしい。日本軍憎しのあまりに、ずい分乱暴な主張をするものだ。

ただ、時系列から判断すると、上記引用文で沖縄住民が本当に怯えていたのは、大陸帰りの県人から聞かされた通州虐殺事件の惨劇である。戦後中国によって流布された「南京大虐殺」に戦時中の沖縄県民が怯えるはずがない。

実際に中国は日本の民間人を大量虐殺しており、敵は中国、アメリカに関わらず一般県民にとっては恐怖の的であった。

安仁屋教授が引用する「南京大虐殺」は戦後に東京裁判で出てきた話で、沖縄戦でこれを持ち出すの暴論というもの。

中国人による蛮行(通州虐殺事件)
当時第二連隊長萱嶋中将。
「私の目撃したものはあまりに残酷であり、一生忘れることのできない印象となっている。旭軒とかいう飲食店では、四十から十七、歳までの女七、八人がみな強姦され、裸体で陰部を露出したまま射殺されていた。そのうち四、五名は陰部を銃剣で突き刺されていた。
 錦水楼という旅館はもっとも悲惨で、そこは危急を感じた在通州の日本人が集まった様子で大量虐殺を受けていた」
 
 元陸軍少佐、桜井文雄氏(千葉市)。
 「守備隊の東門を出ると、数間ごとに居留民男女の遺体が横たわっていた。某飲食店では一家全部首と両手を切断され、十四、五歳以上の婦女は強姦されていた。旭軒では女が全部裸体にされ強姦射殺され、陰部にほうきを押し込んである者、腹部をたてにたち割ってある者など見るにたえなかった。
 東門の近くの池では首を電線で縛り、両手に電線を通し、一家六人数珠つなぎにした死体が浮かんでおり、池の水は真っ赤になっていた。夜半まで生存者の収容にあたり『日本人はいないか』と叫んで各戸ごとに調査すると、鼻に牛のように針金を通された子供片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦などがチリ箱の中や塀の陰から出てきた」

『東京裁判(上)』P310 朝日文庫 朝日新聞東京裁判記者団

中国の歴史ではこういった残虐行為はよくあること。

沖縄住民が大陸帰りの県人(例えばチビチリガマの大陸帰りの従軍看護婦(★注1)から、中国人の残虐性に恐怖し、攻撃してくるして来る米軍にパニック状態になったとしても不思議ではない。

★注1:チビチリガマの「集団自決」http://www.yomitan.jp/sonsi/vol05a/chap02/sec03/cont00/docu
129.htm

通州事件を知るものは少ない。

中国に気を使い、日本の歴史学者が口を閉じ、教科書も新聞も雑誌も一行すら書こうとしないこの世紀の大虐殺。

この事件を【資料保存】として下記に引用及びリンクします。


◆通州事件http://www.history.gr.jp/~showa/tushu.html

盧溝橋事件発生から3週間後の7月29日、北平(北京)東方の通州で中国保安隊による大規模な日本人虐殺事件が発生した。
 世に言う「通州事件」である。
 中国に気兼ねする余り、我が国の歴史学者が口を緘(かん)し、教科書も新聞も雑誌も一行すら書こうとせぬこの世紀の大虐殺―――。
 恨みを飲んで殺された200数十名の同胞への鎮魂の気持ちを込めて、この事件を書き留めておこう。

通州事件とは、1937年(昭和12年)7月29日に発生した事件で、「冀東防共自治政府」保安隊(中国人部隊)による日本軍部隊・特務機関に対する襲撃と、それに続いて起こった日本人居留民(朝鮮系日本人を含む)に対する虐殺を指す。

通州とは、北平(現在の北京市)の東約12kmにあった通県(現在の北京市通州区北部)の中心都市である。

1937年7月29日、約3000人の中国人部隊が、華北各地の日本軍留守部隊約110名と婦女子を含む日本人居留民約420名を襲撃し、約230名が虐殺された。これにより通州特務機関は全滅。

事件の原因は、日本軍機が華北の各所を爆撃した際に、通州の保安隊兵舎をも誤爆したことの報復であるとする説明が一般的だったが、近年は反乱首謀者である張慶餘の回想記により、中国側第二十九軍との間に事前密約があったとの説も有力になっている。

なお、中国側ではむしろ「抗日蜂起」と看做されている。

 

虐殺現場を目撃した証人の宣誓口供書は受理されたので、そこから惨劇の一端を拾い出してみよう。
 当時、天津歩兵隊長及び支那駐屯歩兵第2連隊長で、7月28日の南苑戦闘に参加した後、30日午後通州に急行して邦人救援に当たった萱島高証人は凡(およ)そ次の如く証言した。
 「旭軒(飲食店)では40から17~8歳までの女7、8名が皆強姦され、裸体で陰部を露出したまま射殺されており、その中4、5名は陰部を銃剣で刺殺されていた。商館や役所に残された日本人男子の死体はほとんどすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、血潮は壁に散布し、言語に絶したものだった。」
 まさになぶり殺しではないか。
 中でも悲惨を極めた旅館・近水楼での惨劇について通州救援の第2連隊歩兵隊長代理を務めた桂鎮雄証人の供述は次の通り。
 「近水楼入口で女将らしき人の死体を見た。足を入口に向け、顔だけに新聞紙がかけてあった。本人は相当に抵抗したらしく、着物は寝た上で剥(は)がされたらしく、上半身も下半身も暴露し、4つ5つ銃剣で突き刺した跡があったと記憶する。陰部は刃物でえぐられたらしく、血痕が散乱していた。帳場や配膳室は足の踏み場もない程散乱し、略奪の跡をまざまざと示していた。女中部屋に女中らしき日本婦人の4つの死体があり、全部もがいて死んだようだった。折り重なって死んでいたが、1名だけは局部を露出し上向きになっていた。帳場配膳室では男1人、女2人が横倒れ、或(ある)いはうつ伏し或いは上向いて死んでおり、闘った跡は明瞭で、男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のようだった。女2人はいずれも背部から銃剣を突き刺されていた。階下座敷に女の死体2つ、素っ裸で殺され、局部はじめ各部分に刺突の跡を見た。1年前に行ったことのあるカフェーでは、縄で絞殺された素っ裸の死体があった。その裏の日本人の家では親子2人が惨殺されていた。子供は手の指を揃(そろ)えて切断されていた。南城門近くの日本人商店では、主人らしき人の死体が路上に放置してあったが、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた」

(注)近水楼を襲撃したのは武装した黒服の学生団と保安隊であった。彼らは女中数名を惨殺、残る10数名の男女従業員・宿泊客に対して金品を強奪した後、全員を麻縄で数珠つなぎにして銃殺場に引き出し、処刑したのであった。
 その凄惨極まる処刑場の情況については、当時だれ1人これを知るものもなかったが、当日近水楼に泊まり合わせた同盟通信特派員・安藤利男氏が命がけで銃殺場から脱走し、北京にたどり着いた結果、世界はその実相を知ったのであった。
 安藤氏の手記は「続対支回顧録」に、体験談は寺平前掲書に収録されている。
 安藤氏の体験記は「通州の日本人大虐殺」として「文藝春秋」昭和30年8月号に掲載され、その後「文藝春秋にみる昭和史」第1巻(昭和63(1988)年1月)にも転載されたが、それには、いかにも戦後のものらしい解釈がつけ加えられている。

 支那駐屯歩兵第2連隊小隊長として7月30日、連隊主力と共に救援に赴(おもむ)いた桜井文雄証人によれば、 「守備隊の東門を出ると、ほとんど数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横たわっており、一同悲憤の極みに達した。「日本人はいないか?」と連呼しながら各戸毎に調査していくと、鼻に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等の死体がそこここの埃箱(ゴミばこ)の中や壕(ごう)の中から続々出てきた。ある飲食店では一家ことごとく首と両手を切断され惨殺されていた。婦人という婦人は14、5歳以上はことごとく強姦されており、全く見るに忍びなかった。旭軒では7、8名の女は全部裸体にされ強姦刺殺されており、陰部に箒(ほうき)を押し込んである者、口中に土砂をつめてある者、腹を縦に断ち割ってある者など、見るに耐えなかった。東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合わせてそれに8番鉄線を貫き通し、一家6人数珠つなぎにして引き回された形跡歴然たる死体があった。池の水は血で赤く染まっていたのを目撃した」(中村粲著「大東亜戦争への道」展転社刊より)

                     ◇

チビチリガマの「集団自決」を指導した大陸帰りの従軍看護婦

「集団自決」体験記 玉城※※(字儀間)
 昭和十九年当時、私は大山医院で住み込みの看護婦をしていて、後にチビチリガマで「自決」された知花※※さんとは、とても親しくしていました。---彼女は「満州」で従軍看護婦をしていたそうですが、そこで知り合った本土出身の男性との結婚の了解を得るため、両親のもとにいったん帰って来たのだそうです。しかし戦況が悪化して「満州」に戻ることができなくなり、しばらくは大山医院で働いていたそうですが、私が大山医院に勤める頃からは、北飛行場の医務室で看護婦として働いていました。

 彼女は、医務室の薬が切れると大山医院に取りに来たりするので、話をする機会がよくありました。当時は女に生まれて、国のために何が出来るかと考えると、従軍看護婦の道ぐらいしかありませんから、私は従軍して戦場で働き、天皇陛下のために死のうと考えていました。しかし諸事情から、従軍看護婦の道を諦めざるを得なかった私にとって、「満州」で従軍看護婦をしていた彼女は憧れのお姉さんでした。とても有能な人で、看護婦の免許のほかに産婆の免許を持ち、話すことも知的でいつも希望に燃えていました。---

 「※※ちゃん頑張るんだよ、大和魂で負けたらいかんよ。最後の最後まで頑張らんといかんよ。最後はどうなるか分からんし、私もどうなっていくのかわからんけど、もし戦争に負けることになったら、生きるんじゃないよ。自分で死んだほうがいい、捕虜になったら虐待されて殺されるんだから」彼女はそう言うと、「満州」で「支那事変」帰りの兵隊に聞いた「戦場での女の哀れ話」を私にも話して聞かせるのでした。その話は非常に恐ろしく、敗戦国の女性がどんな目に遭うのか私にまざまざと感じさせるものでした。

 ----戦争が激しくなると、「満州」にいる恋人のことが心配で落ち着かなかったのでしょう、大山医院の院長先生に相談に来ることもありました。「ねえ、先生、どうしよう、どうしよう」と彼女が言うと、医院長先生は「どうもこうもない。戦争だぞ。お前はもう、ここで働きなさい。満州には帰れないだろう、そうでないと一人の恋人のために命を捨てることになるぞ」と彼女をたしなめていました。

 ※※さんは戦後、チビチリガマの「自決」のことが明るみに出てから、いろいろ思われたようですが、私は彼女が悪いんじゃない、すべて日本の教育が間違っていたんだと思います。彼女は日本の教育をまともに受けただけなんです。日本の教育が、彼女を「大和魂の女性」にしたんだと思います。また従軍看護婦時代に、「支那事変」帰りの兵隊にいろいろ聞いたことも、後の行動に大きな影響を与えたのだと思います。(「読谷村史」より抜粋)


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