狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

続・沖縄戦での米兵の蛮行、『鉄の暴風』と米軍の呪縛続・

2023-10-18 07:26:14 | 政治
 

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10月11日付産経新聞に『沖縄「集団自決」』が大きく掲載されました

沖縄考

右手ひとつ、反日と戦う 那覇支局長・川瀬弘至 

ブログ「狼魔人日記」をつづる江崎孝さん=沖縄県宜野湾市の自宅

沖縄の「民意」が、変わりつつある―。

明星大教授らの研究グループが6月に公表した安全保障問題に関する沖縄県民への意識調査によれば、日米安保の強化を望む県民は39%で、望まないと回答した23%を上回った(37%は「どちらとも言えない」)。

とくに18~34歳の若い世代は49%が安保強化に肯定的だ。この世代は、革新勢力が「民意」とする基地反対運動には否定的で、「国防政策は政府に決定権があるので基地反対運動は無意味」と考える割合が55%にも達した。

 

 

             ★

■狼魔人日記・文藝コーナー■(毎日三首紹介します)

これは平成22年から令和4年まで私の生活の中で見て聞いて感じた事をメモのつもりで三十一文字にまとめたものです。 一つでもこれはとこれはと思われるものがありましたら幸いです。令和五年一月  

富原盛安(82歳・南城市)

道端の電話ボックス闇の中人呼びたげに明かりともれり

ベタ凪の渚に遊ぶ乙女らの足に漂うほのかな色気

ウクライナすったもんだの大騒ぎオバマおろおろプーチンの勝

■狼魔人日記・文藝コーナー■への投稿

瀬良垣譲二 (糸満市)

 道交法守らず基地反対のデモの群れ それを励ます知事も異景

 勝負服ダースベイダー着こんで応援 デニー辺野古へ

 

            ★

 

続・沖縄戦での米兵の蛮行、『鉄の暴風』と米軍の呪縛続・

2022-12-31

続・『鉄の暴風』と米軍の呪縛2008-08-28

米民政府の職員で新聞記者としては素人同然だった太田良博氏が、沖縄タイムスに呼ばれて『鉄の暴風』の執筆を始めた。

『鉄の暴風』と米軍の呪縛


 では、素人同然の太田記者に『鉄の暴風』に執筆という重責を委ねた沖縄タイムス社が、交通も通信もままならぬ当時の沖縄で、現在の新聞社のような機動力をもって短期間で「体験者」を集めることが出来たのか。
  当時の沖縄では、交通・通信等の手段を独占していた米軍の強力な支援なくして、沖縄タイムスが情報源を確保することは考えられないことである。

 昭和24年当時は民間人が沖縄全島を自由に通行することが許可されてからまだ2年しか経っておらず(昭和22年 3月22日許可)、何よりも、住民の足となる日本製トラックが輸入されるようになるのが、その年(昭和24年)の12月17日からである。

 住民の交通事情をを考えても、その当時米軍の支援なくしての『鉄の暴風』の取材、そして執筆は不可能である。

 太田氏が取材を始めた昭和24年頃の沖縄タイムスは、国道58号から泊高橋を首里城に向かって伸びる「又吉通り」の崇元寺の向かい辺りにあった。

 その頃の那覇の状況といえば、勿論又吉通りは舗装はされておらず、通行する車両といえば米軍車両がホコリを撒き散らして通るくらいで、沖縄タイムス社向かいの崇元寺の裏手から首里方面に向かう高台には、まだ米軍の戦車の残骸が放置されているような有様であった。

 太田記者はドキュメンタリー作品の基本である取材に関しては、何の苦労もすることもなく、米軍筋を通してでかき集められた「情報提供者」達を取材し、想像で味付けして書きまくればよかったのだ。

 「取材」は沖縄タイムスの創刊にも関わった座安盛徳氏(後に琉球放送社長)が、米軍とのコネを利用して、国際通りの国映館の近くの旅館に「情報提供者」を集め、太田氏はそれをまとめて取材したと述べている。
  三ヶ月という短期間の取材で『鉄の暴風』を書くことができたという太田氏の話も納得できる話である。

 余談だが座安氏が「情報提供者」を集めたといわれる旅館は、当時国映館近くの浮島通りにあった「浮島ホテル」ではないかと想像される。 
 その後同ホテルは廃業したが、通りにその名前を残すほど当時としては大きなホテルで、米軍の協力で座安氏が「情報提供者」を全島から集められるほど大きな「旅館」は、当時では同ホテルを除いては考えにくい。国映館は今はないが、太田記者が取材した昭和24年にも未だ開業しておらず、後に世界館として開業し、国映館と名を変えた洋画専門館である。

 
 このように太田記者の経験、取材手段そして沖縄タイムス創立の経緯や、当時の米軍の沖縄統治の施策を考えると『鉄の暴風』は、米軍が沖縄を永久占領下に置くために、日本軍の「悪逆非道」を沖縄人に広報するため、戦記の形を借りたプロパガンダ本だということが出来る。 当時の沖縄は慶良間上陸と同時に発布された「ニミッツ布告」の強力な呪縛の下にあり、『鉄の暴風』の初版本には米軍のヒューマニズムを賛美する「前書き」があったり(現在は削除)、脱稿した原稿は英語に翻訳され、米軍当局やGHQのマッカーサーにも提出され検閲を仰いでいた。
  『鉄の暴風』を書いた太田記者の取材源は、「社」が集め、「社」(沖縄タイムス)のバックには米軍の強大な機動力と情報網があった。

 ちなみに民間人の足として「沖縄バス」と「協同バス」が運行を開始するのは翌年、『鉄の暴風』が発刊された昭和25年 の4月1日 からである。

 『鉄の暴風』の出版意図を探る意味で、昭和25年8月に朝日新聞より発刊された初版本の「前書き」の一部を引用しておく。

なお、この動乱を通じ、われわれ沖縄人として、おそらく終生忘れることができないことは、米軍の高いヒューマニズムであった。国境と民族を超えた彼らの人類愛によって、生き残りの沖縄人は、生命を保護され、あらゆる支援を与えられ、更正第一歩踏み出すことができたことを特記しておきたい

 米軍のプロパガンダとして発刊されたと考えれば、『鉄の暴風』が終始「米軍は人道的」で「日本軍は残虐」だという論調で貫かれていることも理解できる。

 実際、沖縄戦において米軍は人道的であったのか。

 彼らの「非人道的行為」は勝者の特権として報道される事はなく、すくなくとも敗者の目に触れることはない。

 ところが、アメリカ人ヘレン・ミアーズが書いた『アメリカの鏡・日本』は、米軍の沖縄戦での残虐行為に触れている。

 その一方、米軍に攻撃された沖縄人によって書かれた『鉄の暴風』が米軍の人道性を褒め称えている事実に、この本の欺瞞性がことさら目立ってくる。

沖縄戦で米軍兵士が犯した残虐行為をアメリカ人ヘレン・ミアーズが同書の中で次のように記述している。

≪戦争は非人間的状況である。自分の命を守るために戦っているものに対して、文明人らしく振る舞え、とは誰もいえない。ほとんどのアメリカ人が沖縄の戦闘をニュース映画で見ていると思うが、あそこでは、火炎放射器で武装し、おびえきった若い米兵が、日本兵のあとに続いて洞窟から飛び出してくる住民を火だるまにしていた。あの若い米兵たちは残忍だったのか? もちろん、そうではない。自分で選んだわけでもない非人間的状況に投げ込まれ、そこから生きて出られるかどうかわからない中で、おびえきっている人間なのである。戦闘状態における個々の「残虐行為」を語るのは、問題の本質を見失わせ、戦争の根本原因を見えなくするという意味で悪である。結局それが残虐行為を避けがたいものにしているのだ。≫(ヘレン・ミアーズ著「アメリカの鏡・日本」)

『鉄の暴風』が発刊される二年前、昭和23年に『アメリカの鏡・日本』は出版された。

著者のヘレン・ミアーズは日本や支那での滞在経験のある東洋学の研究者。

昭和21年、GHQに設置された労働局諮問委員会のメンバーとして来日し、労働基本法の策定に参加。アメリカに帰国した後、同書を書き上げた。

だが、占領下の日本では、GHQにより同書の日本語の翻訳出版が禁止され、占領が終了した1953(昭和28)年になって、ようやく出版されることとなった。

沖縄人を攻撃したアメリカ人が書いた本がアメリカ軍に発禁され、

攻撃された沖縄人が書いた『鉄の暴風』がアメリカ軍の推薦を受ける。

これは歴史の皮肉である。

 

【ヘレン・ミアーズ著「アメリカの鏡・日本」の内容】

日本軍による真珠湾攻撃以来、我々アメリカ人は、日本人は近代以前から好戦的民族なのだと信じこまされた。しかし、前近代までの日本の歴史を振り返ると、同時代のどの欧米諸国と比較しても平和主義的な国家であったといえる。開国後、近代化を成し遂げる過程で日本は、国際社会において欧米先進国の行動に倣い、「西洋の原則」を忠実に守るよう「教育」されてきたのであり、その結果、帝国主義国家に変貌するのは当然の成り行きだった。

以後の好戦的、侵略的とも見える日本の行動は、我々欧米諸国自身の行動、姿が映し出された鏡といえるものであり、東京裁判などで日本の軍事行動を裁けるほど、アメリカを始め連合国は潔白でも公正でもない。また日本が、大戦中に掲げた大東亜共栄圏構想は「法的擬制」(本書中にしばしば登場する言葉で、「見せかけ」、「建て前」と類義)であるが、アメリカのモンロー主義同様、そのような法的擬制は「西洋の原則」として広く認められていた。さらに戦前・戦中においては、国際政治問題は「道義的」かどうかではなく「合法的」かどうかが問題とされていたのであり、戦後になって韓国併合や満州事変も含め、道義的責任を追及する事は偽善である。

実際に戦前・戦中の段階で、日本の政策に対して人道的懸念を公式表明した国は皆無であり、自国の「合法性」を主張する言葉でのみ日本を非難し続けるのは不毛であるとする。

 

 では、素人同然の太田記者に『鉄の暴風』に執筆という重責を委ねた沖縄タイムス社が、交通も通信もままならぬ当時の沖縄で、現在の新聞社のような機動力をもって短期間で「体験者」を集めることが出来たのか。
  当時の沖縄では、交通・通信等の手段を独占していた米軍の強大な力なくして、沖縄タイムスが情報源を確保することは考えられないことである。

 昭和24年当時は民間人が沖縄全島を自由に通行することが許可されてからまだ2年しか経っておらず(昭和22年 3月22日許可)、何よりも、住民の足となる日本製トラックが輸入されるようになるのが、その年(昭和24年)の12月17日からである。

 住民の交通事情をを考えても、その当時米軍の支援なくしての『鉄の暴風』の取材、そして執筆は不可能である。

 太田氏が取材を始めた昭和24年頃の沖縄タイムスは、国道58号から泊高橋を首里城に向かって伸びる「又吉通り」の崇元寺の向かい辺りにあった。

 その頃の那覇の状況といえば、勿論又吉通りは舗装はされておらず、通行する車両といえば米軍車両がホコリを撒き散らして通るくらいで、沖縄タイムス社向かいの崇元寺の裏手から首里方面に向かう高台には、まだ米軍の戦車の残骸が放置されているような有様であった。

 太田記者はドキュメンタリー作品の基本である取材に関しては、何の苦労もすることもなく、米軍筋を通してでかき集められた「情報提供者」達を取材し、想像で味付けして書きまくればよかったのだ。

 「取材」は沖縄タイムスの創刊にも関わった座安盛徳氏(後に琉球放送社長)が、米軍とのコネを利用して、国際通りの国映館の近くの旅館に「情報提供者」を集め、太田氏はそれをまとめて取材したと述べている。
  三ヶ月という短期間の取材で『鉄の暴風』を書くことができたという太田氏の話も納得できる話である。

 余談だが座安氏が「情報提供者」を集めたといわれる旅館は、当時国映館近くの浮島通りにあった「浮島ホテル」ではないかと想像される。 
 その後同ホテルは廃業したが、通りにその名前を残すほど当時としては大きなホテルで、米軍の協力で座安氏が「情報提供者」を全島から集められるほど大きな「旅館」は、当時では同ホテルを除いては考えにくい。国映館は今はないが、太田記者が取材した昭和24年にも未だ開業しておらず、後に世界館として開業し、国映館と名を変えた洋画専門館である。

 
 このように太田記者の経験、取材手段そして沖縄タイムス創立の経緯や、当時の米軍の沖縄統治の施策を考えると『鉄の暴風』は、米軍が沖縄を永久占領下に置くために、日本軍の「悪逆非道」を沖縄人に広報するため、戦記の形を借りたプロパガンダ本だということが出来る。 当時の沖縄は慶良間上陸と同時に発布された「ニミッツ布告」の強力な呪縛の下にあり、『鉄の暴風』の初版本には米軍のヒューマニズムを賛美する「前書き」があったり(現在は削除)、脱稿した原稿は英語に翻訳され、米軍当局やGHQのマッカーサーにも提出され検閲を仰いでいた。
  『鉄の暴風』を書いた太田記者の取材源は、「社」が集め、「社」(沖縄タイムス)のバックには米軍の強大な機動力と情報網があった。

 ちなみに民間人の足として「沖縄バス」と「協同バス」が運行を開始するのは翌年、『鉄の暴風』が発刊された昭和25年 の4月1日 からである。

 『鉄の暴風』の出版意図を探る意味で、昭和25年8月に朝日新聞より発刊された初版本の「前書き」の一部を引用しておく。

なお、この動乱を通じ、われわれ沖縄人として、おそらく終生忘れることができないことは、米軍の高いヒューマニズムであった。国境と民族を超えた彼らの人類愛によって、生き残りの沖縄人は、生命を保護され、あらゆる支援を与えられ、更正第一歩踏み出すことができたことを特記しておきたい

 米軍のプロパガンダとして発刊されたと考えれば、『鉄の暴風』が終始「米軍は人道的」で「日本軍は残虐」だという論調で貫かれていることも理解できる。

 実際、沖縄戦において米軍は人道的であったのか。

 彼らの「非人道的行為」は勝者の特権として報道される事はなく、すくなくとも敗者の目に触れることはない。

 ところが、アメリカ人ヘレン・ミアーズが書いた『アメリカの鏡・日本』は、米軍の沖縄戦での残虐行為に触れている。

 その一方、米軍に攻撃された沖縄人によって書かれた『鉄の暴風』が米軍の人道性を褒め称えている事実に、この本の欺瞞性がことさら目立ってくる。

沖縄戦で米軍兵士が犯した残虐行為をアメリカ人ヘレン・ミアーズが同書の中で次のように記述している。

≪戦争は非人間的状況である。自分の命を守るために戦っているものに対して、文明人らしく振る舞え、とは誰もいえない。ほとんどのアメリカ人が沖縄の戦闘をニュース映画で見ていると思うが、あそこでは、火炎放射器で武装し、おびえきった若い米兵が、日本兵のあとに続いて洞窟から飛び出してくる住民を火だるまにしていた。あの若い米兵たちは残忍だったのか? もちろん、そうではない。自分で選んだわけでもない非人間的状況に投げ込まれ、そこから生きて出られるかどうかわからない中で、おびえきっている人間なのである。戦闘状態における個々の「残虐行為」を語るのは、問題の本質を見失わせ、戦争の根本原因を見えなくするという意味で悪である。結局それが残虐行為を避けがたいものにしているのだ。≫(ヘレン・ミアーズ著「アメリカの鏡・日本」)

『鉄の暴風』が発刊される二年前、昭和23年に『アメリカの鏡・日本』は出版された。

著者のヘレン・ミアーズは日本や支那での滞在経験のある東洋学の研究者。

昭和21年、GHQに設置された労働局諮問委員会のメンバーとして来日し、労働基本法の策定に参加。アメリカに帰国した後、同書を書き上げた。

だが、占領下の日本では、GHQにより同書の日本語の翻訳出版が禁止され、占領が終了した1953(昭和28)年になって、ようやく出版されることとなった。

沖縄人を攻撃したアメリカ人が書いた本がアメリカ軍に発禁され、

攻撃された沖縄人が書いた『鉄の暴風』がアメリカ軍の推薦を受ける。

これは歴史の皮肉である。

【ヘレン・ミアーズ著「アメリカの鏡・日本」の内容】

日本軍による真珠湾攻撃以来、我々アメリカ人は、日本人は近代以前から好戦的民族なのだと信じこまされた。しかし、前近代までの日本の歴史を振り返ると、同時代のどの欧米諸国と比較しても平和主義的な国家であったといえる。開国後、近代化を成し遂げる過程で日本は、国際社会において欧米先進国の行動に倣い、「西洋の原則」を忠実に守るよう「教育」されてきたのであり、その結果、帝国主義国家に変貌するのは当然の成り行きだった。

以後の好戦的、侵略的とも見える日本の行動は、我々欧米諸国自身の行動、姿が映し出された鏡といえるものであり、東京裁判などで日本の軍事行動を裁けるほど、アメリカを始め連合国は潔白でも公正でもない。また日本が、大戦中に掲げた大東亜共栄圏構想は「法的擬制」(本書中にしばしば登場する言葉で、「見せかけ」、「建て前」と類義)であるが、アメリカのモンロー主義同様、そのような法的擬制は「西洋の原則」として広く認められていた。さらに戦前・戦中においては、国際政治問題は「道義的」かどうかではなく「合法的」かどうかが問題とされていたのであり、戦後になって韓国併合満州事変も含め、道義的責任を追及する事は偽善である。

実際に戦前・戦中の段階で、日本の政策に対して人道的懸念を公式表明した国は皆無であり、自国の「合法性」を主張する言葉でのみ日本を非難し続けるのは不毛であるとする。

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3 コメント

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本日の沖縄タイムス投稿欄 (カウンター58)
2023-10-18 07:58:28
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オピニオン面に一般投稿8本(児童生徒の「ぼくも私も」など除く)。

「若者を戦渦に巻き込まないで」の那覇市・大見昭子さん(88)は、2月18日、3月7、27日、4月13、29日、5月15、29日、7月13日、8月8日、9月28日に続き今年11回目の掲載。
「五感を刺激 動植物の新聞広告」の那覇市・上原孝志さん(67)は、昨年1月19日以来の掲載。
「たくましく生きるグッピー」の八重瀬町・宮城あゆみさん(41)は、今年初掲載。
「『玉手箱』の未来は民意が左右」の宜野湾市・吉村武さん(84)は、1月11日、2月18日、9月1、30日に続き今年5回目の掲載。
「忙しい毎日 赤トンボに憧れ」の浦添市・天久富雄さん(71)は、7月24日、8月7、22日、10月5日に続き今年5回目の掲載。
「愛知で高校のクラス会に参加」の那覇市・玉城百代さん(76)は、3月9日、6月6日、8月3日、9月17日に続き今年5回目の掲載。
「教員の魅力ある働き方 学力テストの多忙解消を」の那覇市・宮城須美子さん(84)は、1月8日、2月8日、3月14日、4月8、26日、5月26日、7月4日、8月12日、9月7日に続き今年10回目の掲載。
「命の道」の那覇市・新垣香代子さん(65)は、7月8日に続き今年2回目の掲載。
 
カギカッコは投稿欄における見出し。

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返信する
Unknown (amai yookan)
2023-10-18 15:10:13

>『鉄の暴風』の出版意図を探る意味で、昭和25年8月に朝日新聞より発刊された初版本の「前書き」の一部を引用しておく。

≪なお、この動乱を通じ、われわれ沖縄人として、おそらく終生忘れることができないことは、米軍の高いヒューマニズムであった。国境と民族を超えた彼らの人類愛によって、生き残りの沖縄人は、生命を保護され、あらゆる支援を与えられ、更正第一歩踏み出すことができたことを特記しておきたい≫

*       *  

● この前書きをタイムスお得意の「知らん顔して又削除」・♪削除は続くーよ~どこまでも~、、そして

・「だんまりを決め込んでの得意技」これ、今もやらかす「沖タイ・琉球新報←まるでC国生き写し」


■狼魔人日記・文藝コーナー■への投稿
瀬良垣譲二 (糸満市)

 辺野古基地 台湾有事に間に合わず 務めを果たし鼻高々の関係者たち
返信する
本日の沖縄タイムス投稿欄 (カウンター58)
2023-10-19 10:25:38
10月19日付。
オピニオン面に一般投稿8本(児童生徒の「ぼくも私も」など除く)。

「県の不承認は当然で正当だ」の浦添市・安里蕪冥さん(74)は、2月27日、9月10日に続き今年3回目の掲載。
「自民党の役員人事にあきれた」の那覇市・上原壽章さん(67)は、1月4、19日、3月3、20日、4月4日、5月3日、6月1、16日、7月8日、8月8日、9月19日に続き今年12回目の掲載。
「戦争の巻き添え食うのは住民」の沖縄市・荷川取順市さん(83)は、1月3、20日、2月11、28日、3月20日、4月6、20日、5月4、19日、6月1、14、28日、7月13、27日、8月10、25日、9月8、23日、10月4日に続き今年20回目の掲載。
「子の人権を大切にする社会に」の豊見城市・松原須奈子さん(75)は、2月1、21日、3月8日、4月1、18日、5月5、19日、8月24日に続き今年9回目の掲載。
「100歳の目標へ前向きに生きる」の南風原町・上原彦一さん(95)は、1月30日、4月8日に続き今年3回目の掲載。
「空覆うトンボ 自然豊かな時代」の那覇市・山根光正さん(79)は、1月5日、2月7日、3月1、18日、4月3、19日、5月10、23日、6月7、22日、7月8、30日、8月13、27日、9月11日、10月4日に続き今年17回目の掲載。
「スマホ時代のメディア 新聞は民主主義に不可欠」の糸満市・岸本定政さん(75)は、1月8、21日、2月2、20日、3月15日、4月1、15日、5月3、30日、6月17、30日、7月14、27日、8月10、25日、9月6、20日、10月7日に続き今年19回目の掲載。
「朝の風景」の西原町・津波古輝子さん(76)は、9月10日に続き今年2回目の掲載。
 
カギカッコは投稿欄における見出し。

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