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半年で派遣社員ら40万人失職も 厚労省予測の4倍 製造業の派遣・請負企業の業界団体、日本生産技能労務協会と日本製造アウトソーシング協会は27日、昨年秋から今年3月末までの約半年間に、製造業で約40万人の派遣、請負社員ら非正規労働者が失職するとの見通しを示した。厚生労働省がほぼ同じ期間に見込む失職者の約4・7倍の規模で、両協会は「(製造業への労働者)派遣・請負市場は壊滅状態」としている。
同日の自民党労働者派遣問題研究会で示した。大規模な失職者発生は、不況に円高や金融機関の貸し渋りなどが重なり、製造業のさらなる業績悪化が予想されるため。
厚労省が昨年12月に実施した調査では、製造業を中心に昨年10月から今年3月末までの間に、約8万5000人の非正規労働者が失職する見通し。
一方で、両協会は製造業の派遣、請負社員として働く人は今回の不況前には100万人程度いたと説明。会員企業への聞き取り調査などから、このうち4割に当たる約40万人が失職する可能性があるとした。
2009/01/27 19:38 【共同通信】
◇
今から四年ほど前の2005年秋。
あのヒトラーの狂気でもってしても燃やすことのできなかったパリが燃えた。
パリのアラブ系若者を中心にした若者たちが職を求めてデモをし、それが飛び火して放火騒ぎにまで発展したのだ。
この騒動はフランスが抱える「硬直した正規社員制度」が若者の雇用機会を奪っているという現在の日本が抱える雇用問題のさきがけであった。
だが当時の日本の各紙はフランスが過去に行ってきた植民地政策のツケが廻ってきたのだとピンとはずれの論調で、
もっぱら民族問題、差別問題と捉え、アラブ系移民のジダンなども話題になった。
その当時治安を担当していたサルコジ内相は、暴動に参加する移民系若者のことを「ごろつきだし、社会のくずだ」と罵倒した。
日本の担当大臣が職を求める若者に向かって同じような発言をしたら、即時大臣辞任か政治家としての生命も立たれていただろう。
そのサルコジ元内相が現在のフランス大統領だから、日本では考えられないことだ。
名前:溜辞灼丸の国内ト⑯ス解説投稿日:2005/11/12(土) 05:13:53 ID:S5YRBgO9
フランスのサルコジ内相は10日、国営フランス2テレビに出演し、暴動に参加する移民出身者の
若者らについて「ごろつきだし、社会のくずだ。(呼び方を)変えるつもりはない」と明言した。
内相は暴動発生当初に若者らを「社会のくず」と呼び、暴動が激化する要因となって野党から
批判されていたが、発言を撤回することを拒否、強硬姿勢を変えるつもりがないことを示した。
◇
2005年のパリ発の移民系若者の暴動は年を越して、当時のドビルバン大統領は若者の雇用機会拡大を目的として現在の日本の「正規vs非正規雇用問題」に一石を投じるような新法案を発布した。
初期雇用契約(CPEと略される)というその新法案は若者の失業率の悪化への対応として次のような内容であった。
26歳未満の若者の雇用にあたり2年間の試用期間を設け、この期間中は雇用者側は理由を問わず解雇することを認めるという法案で、この内容を盛り込んだ機会平等法は、2006年4月2日に公布された。
一見、現在の日本が抱える派遣切りや非正規切りに通じるようで、若者にとっては不利な悪法ではと考える人も多いだろうが、これについて詳述はさておく。
日本のマスコミはパリで若者が騒ぐと情緒的な記事を書くのを得意とするが、2005年秋のパリの若者の暴動も当初は植民地問題、民族問題と捉えていた。
その当時まだブログ開設をしていなかった当日記は友人仲間のプライベートサイトにカキコしていた。
以下はその転載です。
◇
Date: 2005年11月9日(水) 午前8時17分
Subject: パリは燃えているか!
パリは燃えているか!
これは新聞の見出しではない。
約40年前のフランス映画のタイトルである。
第二次大戦の末期、ノルマンディ作戦の直後、連合軍によるパリ解放の2週間を描いたドキュメント風の名作のことだ。
映画のラストでパリ占領ドイツ軍司令官に対しベルリンのヒットラーが「パリは燃えているか」と何度も電話に向かって叫ぶ。
ヒットラーの狂気が画面に漂った。
しかしパリは燃えなかった。
この映画の翌年から2年後にかけて「パリが燃えた」。
1968年のパリ学生街カルチェラタンの5月革命である。
発端は単純な動機からだった。
大学の女子寮への男子学生の出入りを認めよと言うのである。
パリ大学の移民居住地近くの分校から学生デモがパリ各地に飛び火したのだ。
これに左翼学生が便乗した。
スローガンは当初の「男女交際の自由!」から「ベトナムに平和を!」と変わった。
学生デモは急速に過激化して当時のドゴール政権を揺るがすほどのうねりを見せ日本にも飛び火した。
更にその翌年の1969年3月30日。
パリの暗い日曜日の朝。
1人の女学生が焼身自殺で衝撃的に命を絶った。
フランシーヌ・ルコントと言うその女学生はベトナム反戦やビアフラ飢餓児童救援をその衝撃的自殺で訴えたと1969年3月30日の朝日新聞夕刊は報じた。
朝日に続く各紙もこの少女の死をヒロイックに取り上げた。
そして日本で1人の女性歌手が学生運動のアイドルになった。
フランシーヌの場合
いまいずみあきら 作詞 郷 五郎 作曲
新谷のり子 歌
1. フランシーヌの場合は あまりにもおばかさん
フランシーヌの場合は あまりにもさびしい
三月三十日の日曜日
パリの朝に燃えたいのちひとつ フランシーヌ
Francine ne nous reviens plus
Pauvre carriere l' enfant perdu
Francine s'est abandonnee
A la couleur de fraternite
Au petit matin du 30 mars
C'eat dimanche
Une vie s'enflamme pour son eternite
A Paris Francine
ひとりぼっちの世界に 残された言葉が
ひとりぼっちの世界に いつまでもささやく
三月三十日の日曜日
パリの朝に燃えたいのちひとつ フランシーヌ
フランシーヌの場合は 私にもわかるわ
フランシーヌの場合は あまりにもさびしい
三月三十日の日曜日
パリの朝に燃えたいのちひとつ フランシーヌ
反戦歌手新谷のり子がフランシーヌを熱っぽく歌いだして12年後、パリでフランシーヌの跡を辿った人がいた。
パリであのフランシーヌをしっている人は誰もいなかった。
そして彼女は心の病があって通院をしており、焼身自殺と反戦運動は直接の関係は無かったとの親類からの情報を得た。
ホントのことを云ったら オリコウになれない
ホントのことを云ったら あまりにも悲しい
三月三十日の日曜日
パリの朝に燃えたいのちひとつ フランシーヌ
フランシーヌは故国のフランスでは当の昔に忘れ去られている。
しかし何故か遥か離れた日本で今でも反戦運動のシンボルとして往き続けている。
新谷のり子は今でも36年の歳月を超えて同じ歌を歌いつづけている。
反体制のヒロインとして。
日本のマスコミが作り上げた「フランシーヌの伝説」は日本の学生運動の「歴史」となった。
ひとりぼっちの世界に 残された言葉が
ひとりぼっちの世界に いつまでもささやく
三月三十日の日曜日
パリの朝に燃えたいのちひとつ フランシーヌ
フランシーヌの場合は 私にもわかるわ
フランシーヌの場合は あまりにもさびしい
三月三十日の日曜日
パリの朝に燃えたいのちひとつ フランシーヌ
ヒットラーの狂気でもってしても燃やす事が出来なかったパリが今燃えている!
◇
「正規社員vs非正規社員」問題を書こうと思っていたら、思いっきり脱線してしまい、「フランシーヌの場合」で終わってしまった。
だが「フランシーヌの場合」は、マスコミぐるみでフランシーヌという只の精神を病む女を「反体制のカリスマ」に造り替えてしまった虚像である。
フランシーヌの正体は、マスコミにとって「不都合な真実」として「井伏鱒二現象」という真実隠しと同じ状況に陥ってしまい誰もその真相に触れるものはいない。(続く)
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