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コメント欄で太平山さんが「琉球処分」について詳述されているので、本欄に記事として転載します。
従って、コメント欄は削除させてもらいますのでご了承ください。
◇
沖縄タイムス、琉球新報の偏向報道をブログネタにさせてもらっているが、両紙は偏向を通り越して、反日新聞ではないかいう声も聞く。
沖縄タイムスが戦後、米軍政府のプロパガンダ紙の性格で創刊されたことは再三述べたが、その軸足は最近では「中国が祖国」といった論調に立っているように思える。
タイムスがその論拠を琉球処分に求め、そのとき「侵略者日本」を撃退する為に「解放者中国(清)」が援軍をよこすといった「タイムス史観」を書いたのが、
再三引用するタイムス・コラムの「大弦小弦」。
何度も繰り返して恐縮だが「絶滅危惧文」として以下にしつこく引用して、それに対する大平山さんのコメントを転載します。
その前に、復習の意味で「琉球処分」の概略を琉球新報の解説で参考までに。(煩雑と思う方はスルーしてください)
琉球処分 (りゅうきゅうしょぶん)
明治政府による琉球藩設置から分島問題の終結までをいう。明治維新にともない、1872(明治5)年、明治政府は〈琉球国〉を廃して〈琉球藩〉とし、廃藩置県に向けて清国との冊封関係・通交を絶ち、明治の年号使用、藩王(国王)自ら上京することなどを再三迫った。が、琉球が従わなかったため、79年3月、処分官、松田道之が随員・警官・兵あわせて約600人を従えて来琉、武力的威圧のもとで、3月27日に首里城で廃藩置県を布達、首里城明け渡しを命じ、ここに事実上琉球王国は滅び、〈沖縄県〉となる。華族に叙せられた藩王(国王)尚泰は東京在住を命じられた。しかし琉球士族の一部はこれに抗して清国に救援を求め、清国も日本政府の一方的な処分に抗議するなど、問題は尾を引いた。外交交渉の過程で、清国への先島分島問題が提案され、調印の段階まできたが、最終段階で清国が調印を拒否して分島問題は流産、琉球に対する日本の領有権が確定した。
◇
琉球新報はタイムスと違って、中国(清)に援軍を求めたのは琉球士族の一部と正確に記述している。
付け加えさせてもらうと琉球士族のなかの中国系士族で、琉球王府で既得権を享受していた一部士族とした方が正確であろう。
沖縄タイムスの言うように「沖縄」(明治の琉球人)全てが中国に援軍を求めたのではない。
◆<2005年5月16日> 沖縄タイムス
[大弦小弦]
黄色軍艦がやってくる…。船体に黄色の龍の文様を描き、黄龍旗を掲げる清国の南洋艦隊は黄色軍艦と呼ばれたという。知人とこの話をしていたら、黄色軍艦が沖縄を侵略すると、勘違いして話がややこしくなった▼実際は逆で、明治の琉球人にとって清国軍艦は援軍だった。武力で琉球国を併合した明治政府に対し、琉球の首脳らは清へ使者を送って救援を求めている。そして、沖縄側はその黄色軍艦を待ちわびたのだった▼一八八六(明治十九)年に大迫貞清県知事が上申した「事変準備ノ件」が残る。清が軍艦を派遣するとの報に対し、政府派遣の知事は、対策十項目を提案。政府も北洋艦隊から戦艦九隻が派遣されると情報を得て、県に指示を出した▼日清戦争時にも清国の援軍は話題になった。それから百余年が経過し、あれほど待ちわびた援軍をも敵と間違うところに今の位置があるのか。林泉忠著『「辺境東アジア」のアイデンティティ・ポリティクス』は当時の言葉を紹介する▼「生きて日本国の属人と為るを願はす、死して日本国の属鬼と為るを願はす」。生きても死んでも日本とは一緒にならないという激しい決意。中国で死んだ幸地朝常が李鴻章へ送った書簡に残る言葉。歴史の反転は大きかったようだ▼百余年前はともかく、少なくとも最近の銃口や占領者を忘れてはいけない。境で揺れる島だからこそ、平和の選択肢を選び取る覚悟も必要だろう。(後田多敦)
◇
以下は上記タイムス記事に対する、
太平山さんのコメントの転載です。
◆
公開 タイムス記事 2008-08-20 18:22:34 太平山 thz11 李登輝氏の沖縄講演
狼魔人さま
こんばんは。またまた出しゃばることご了承の程を。タイムス記事を読み、黙っておられなくなりました。李登輝氏についてはさておきタイムス記事に言及してみたいと思います。
相変わらず何が言いたいのか、論理の一貫性がなく意味不明の文章が多いですね。例えば以下の文章です。
>日清戦争時にも清国の援軍は話題になった。それから百余年が経過し、あれほど待ちわびた援軍をも敵と間違うところに今の位置があるのか<
これは何が言いたいのか?知人が「黄色軍艦が沖縄を侵略する」と勘違いしていることを現在の沖縄の人が、かつて中国が琉球の宗主国であったことを知らないでいることを嘆いているものなのか?今の位置とは?沖縄が日本であることなのか?何か嫌らしい表現ですね。沖縄が日本であることが不満で中国へ帰るべしと言っているように思われます。次に
>中国で死んだ幸地朝常が李鴻章へ送った書簡に残る言葉。歴史の反転は大きかったようだ。百余年前はともかく、少なくとも最近の銃口や占領者を忘れてはいけない。境で揺れる島だからこそ、平和の選択肢を選び取る覚悟も必要だろう<
上記も全く意味不明!歴史の反転とは?最近の銃口や占領者とは誰のことなのか?沖縄戦と米軍のことか、それとも日本軍のことか?そして「平和の選択肢を選び取る覚悟も必要だろう」について何故黄色い軍艦や幸地親方の言葉がこれに繋がるのか全く解らない。一体何が言いたいのか。
援軍を頼むのが平和の選択肢なのか?幸地親方の言葉のように日本を拒否するのが平和の選択肢なのか?援軍を頼まないのがそうなのか?あの文章では中国に帰ることが平和の選択肢であるように受け取れるのだが。添削して大きな×を沢山つけたいですね。はっきり書け!と。
そして「武力で琉球国を併合した明治政府に対し」これも大間違い。軍隊は送ったがそれは不測に事態に備えるためであって当然のこと。その軍隊は人民に銃口を向けてはいないし、実際死者は一人も出なかった。明治政府はその前に琉球藩を置いている。突然に併合したわけではない。全く姑息で悪意を感じさせる文章ですね。平和さえ唱えれば論理なぞどうでも良いと思っている。
琉球処分(1) (太平山)
2008-08-20 18:43:06
≪琉球処分について、
「つまり琉球は当時は日本への帰属をいやがっていた。住民の意思を無視して無理矢理日本領にしてしまったわけです」
上記については王府や役人達はそうであったかもしれないが一般民衆の大半を占める農民は明治新政府の大和世に期待していました。特に史上希にみる悪法の人頭税に長年苦しめられていた宮古、石垣の先島地方の農民はそうでした。もちろん正確な情報が伝わるわけではありませんが噂で光明を見る思いだったでしょう。
http://www.beats21.com/ar/A01051824.html
http://www.tabiken.com/history/doc/J/J226R200.HTM
明治4年明治新政府から琉球側に最初の琉球処分((王国解体)の通達がなされて琉球王国は琉球藩となりましたが王府側では頑固党(親シナ派)と開明党(親大和派)がそれをめぐって相争うようになります。明治新政府は宮古島島民の台湾遭難事件(明治4年)を奇貨とし明治7年台湾征伐を行い大久保利通を全権大使として清国との交渉に当たらせ琉球の日本帰属を認めさせました。
明治新政府は同8年それを琉球側に伝え清国側との朝貢関係を断つよう命じますが既得権を失うことを不服とした頑固党は新政府が佐賀の乱、西南の役で忙殺されている隙をつき明治10年3月琉球処分の撤回を求めて清国に救援の密使(幸地親方)を送ります。それは軍や軍艦の派遣要請といったものでなく琉球を見捨てないでくれと訴えるものだったでしょう。
琉球側の要請を受け清国は翌11年日本に抗議しますが国際問題になりつつある状況に内務卿伊藤博文(大久保利通は5月に暗殺される)は先手を打って翌12年3月松田道之に命じ軍隊を伴わせ琉球処分(廃藩置県)を断行します。そこではじめて首里城が明け渡され沖縄県が誕生します。
しかし頑固党の密使(幸地親方)はそれでも諦めず時の宰相、李鴻章に何度も嘆願しその情意に動かされた李鴻章はその頃清国を訪れていたアメリカ前大統領のグラント将軍に日本政府との仲介を頼みます。グラント将軍はこれを聞き入れ琉球2分割案すなわち北琉球(奄美)中琉球(沖縄本島)は日本が領有し南琉球(宮古、石垣)は清国が領有すると言った内容の仲裁案を日本政府に提示します。
琉球処分(2) (太平山)
2008-08-20 18:49:17
(NO.2)
日本政府はアメリカ前大統領の調停とあって無視もできず国際問題となった琉球問題に再度交渉の場につきます。その際日本政府は明治4年に締結した日清修好条約の改正を代償条件としてその案に同意することを清国に提示しますが清国はそれには同意せず日本を警戒し別案(奄美は日本が宮古、石垣の先島は清が領有し沖縄本島は琉球王国に復活させるという案)を提示しました。
しかしそれは日本政府の拒否にあい清国はやむなく日本政府の提示した2分割案に合意します。条約は10日後に調印する予定でしたがしかし事はそう簡単には終わらず清国が調印をずるずると引き延ばしたため結局分島案は決着を見ることなく曖昧のままに終わりました。
清国が調印を遅延した理由として
① 条約内容をリークした琉球密使幸地親方が合意撤回を必死に清国側に嘆願したこと
② 欧米列強の圧力に屈して結んだ不平等条約と同等な特権を日本側に与えることに対し国内の抵抗が大きかったこと
③ ロシアとの国境紛争の最中であったこと(イリ条約で解決)
③フランスの安南侵攻があったこと(後に清仏戦争となり天津条約を締結)
④朝鮮をめぐって日清間に軋轢があったこと(後に日清戦争となる)
以上が考えられます。
琉球処分(3) (太平山)
2008-08-20 18:54:30
(NO.3)
沖縄では先の琉球処分を日本の侵略としてとらえ琉球を被害者として見る向きがあり清国へ渡った幸地親方を始めとする頑固党一派を分島案を阻止した功労者として評価する偉い先生方もいます。
http://www.jca.apc.org/~runner/oki_sosyo/oki-jyunbi3/dai2.html
http://w1.nirai.ne.jp/ken/rekishi.htm
しかし琉球王国は1609年薩摩の侵攻により実質的には滅びていますからその後は薩摩藩の支藩であり続けたと考えるのが妥当でしょう。外交権は薩摩が握っていました。
幕末まで琉球王国はさも独立国であったかのような前提でもって文化人・学者達は琉球論を展開するため大半の人が琉球処分即日本の侵略として捉えがちです。しかし当時の国際情勢の中にあってはそれが琉球にとっては最善であった少なくとも最良であったことは言うまでもありません。
琉球側も現実的にこれ以外の選択肢はなかった。薩摩藩という日本最強の雄藩が背後にいたからこそ欧米列強の植民地支配からも免れたとも言えるのです。
そもそも明治維新も奇跡と言われる程当時の欧米列強進出による日本の対外状況は非常に危うかった。それが成就したのは日本側に幸運があったからだとも言われる。即ちクリミヤ戦争でロシア、フランス、イギリスが、南北戦争でアメリカがそれぞれ釘付けとなり一時期本格的に日本に進出することができなかった。
戦後処理を終え体制を整えるには時間が要る、少なくとも結果的に日本は時間を稼ぐことができた。その僅かな空白と間隙をつき明治維新が成功したそれが僥倖だったと言える所以で、その明治維新後の日本に統合された琉球もまた幸運だったとも考えられるのです。
琉球処分(4) (太平山)
2008-08-20 18:57:35
幕末期、明治初期の琉球国首脳は国際情勢が見えなかった。何より琉球国は独立国であると錯覚してしまった。あるいは錯覚はしなくとも過度に清国を過大評価し期待し過ぎていた、その反動として当然のことながら維新後の明治新政府を見くびり清国が出れば日本は譲歩するだろうと考えていた。
当時の清国はアヘン戦争、太平天国の乱と欧米列強の進出に遭い内外共に難題を抱え争乱期にあって国力の低下が著しかった。琉球を顧みる余裕等無かったのではないか。
琉球は260年間薩摩の支配下にありながら己の立場がどういうものか解せず現状認識が非常に甘かった。その認識の甘さは他でもない清への過度の期待に因るものでありそれはまさしく1609年慶長の役(薩摩侵攻)で明を頼った謝名親方の轍と全く同じである。260年後再び同じ轍を頑固党の幸地親方、林世功は踏みつつあった。
明治12年(1879年)の琉球処分(廃藩置県)以降も頑固党による琉球王国復興の工作は尚も執拗に続く。日清戦争(1894)時には清国の黄色い軍艦が琉球に大挙してやって来るとの報に、頑固党は狂喜乱舞するがそれは一時のうたかたと消えた。黄色い軍艦が現れることはとうとうなかったのである。
頑固党はそれでも日本の勝利をデマだと信じて疑わず清国艦隊襲来を期待する。しかし那覇港に目にするのは台湾に往来する旭日旗の軍船のみでそこでようやく清国は敗れたと悟るのである。清国へ渡った頑固党一派26人が沖縄へ帰ってきたのが日清戦争2年後(1896)で彼らは清国には琉球を救援する意志は無しと伝えるのでした。
(終り)
勝手にこの板を借りて好き放題言って来ました。非常に不快な言動も多々あったと思います。これまでの投稿、もし不都合があれば遠慮なく削除して下さい。
私だけが書いてしまって他の人が書き込むことを阻害してきたように思われます。しばらくコメントすることは控えますが、また頭に来た場合には書き込むことをお許し下さい。このコメントもしばらくしてから削除して下さいね。お願いします。
それではこれにて失礼します。
◆
太平山さん
>また頭に来た場合には書き込むことをお許し下さい。
頭にこなくてもコメントは歓迎します。(笑)
特に琉球処分に関するこのコメントは大変勉強になりました。
以下は当日記で過去に「琉球処分」について触れたエントリーです。
琉球処分報じた中国紙入手 沖縄は日本ではない? |
「琉球処分」Ⅱ 王朝の春 優美に幕開け
司馬遼太郎も読んだ『鉄の暴風』 「琉球処分Ⅲ」 |
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こんにちは。また出て来ました。狼魔人さんも人が悪い(笑)。私の一連の投稿を記事にして頂き大変恐縮していますが、同時に感謝申し上げます。私は業務をさぼって投稿している不届き者ですので汗顔の至りです。
あれはある掲示板でのやり取りで、ある方の意見に対し私見を述べたものです。決して反論ではなく参考にしてくれればという思いで投稿しました。2005年9月3日のことですから今からちょうど3年前になりましょうか。ちょうどその頃、小林よしのり氏の沖縄論が出ていたかと思います。その方は沖縄タイムス記者のように姑息ではなく、誠実で真面目な方でしたので意見は違えど私には好感が持てました。
話を戻します。タイムス記事の黄色い軍艦のこと、当初私は一体何を言っているのかすぐには理解できませんでした。文面通り読めば日本を拒否し中国へ帰ろうと読みとれる。まさかそんなことはあるまい、これは私の偏見が強いからそう考えるのだろうと思っていました。しかしあの占領者を日本と考えればあの文意が全て理解できる。何という脳天気さ、私は自分のアホさに腹が立つと同時にタイムス記者に猛烈な怒りを覚えたものです。
今回狼魔人さんの記事を読み、狼魔人さんも私と同じように捉えたことを知り、決して私の偏見ではないことを確信しました。感謝します。それだけに怒りが倍増します。何故か?やり方が非常に姑息だからです。決して断定はしない。それだけに言い逃れがいつでもできます。(後田多敦)と取って付けたような名前など責任は持ちません。
2005年5月16日の記事ですから、これも3年前ですね。小林よしのり氏の「沖縄論」に対抗するために書かれたものでしょうか。全く知りませんでした。実を言うと私は沖縄タイムス、琉球新報は殆ど読みません。見出しだけザーッと眺めるに止めます。何故なら精神衛生上よくなく仕事にもなりませんから。
今思うとそれは現実逃避でした。狼魔人さんのブログは昨年の11月に知ったのですが、沖縄関連の記事はあまり読みたくありませんでしたので、訪問はしませんでした。状況がこれ程酷かったとは慚愧に堪えません。
あの記事を一言で言えば、「幸地親方のように侵略者である日本を断固拒否し、解放者である中国へ帰ろう。それが沖縄が平和になる唯一の道である。沖縄県民よ、その平和の道を歩む覚悟を持とうではないか!」それに尽きると思います。狼魔人さんの云うとおりです。
私もこれからは遠慮せずに発信して行きます。ここへしばしばコメントを寄せる金城さんの意見も読みました。流石です。私も全く異存はありません。お互い頑張りましょう!とお礼を言いたいですね。あと数々の資料の紹介ありがとうございます。特に司馬遼太郎の話は興味深く読みました。私も以前に読んだような気がするのですが、改めて読むとまた感懐ひとしおですね。「鉄の暴風」は別にして。
「琉球処分」についてはまた補足したいのがありますので何れ機会を見て話したいと思います。それではこれにて失礼します。
太平山
こんばんは。「世の中は三日見ぬ間に桜かな」の江戸期の俳人・大島蓼太(りょうた)の句があります。タイミングというのは非常に大事なもので、何れ機会を見てではなく今、話したいと思います。
琉球処分(5) 幸地親方
先に私は「沖縄では先の琉球処分を日本の侵略としてとらえ琉球を被害者として見る向きがあり清国へ渡った幸地親方を始めとする頑固党一派を分島案を阻止した功労者として評価する偉い先生方もいます」と言いました。
その代表的存在が琉球大学教授の西里喜行氏だと思います。氏は平成10年6月1日~6月5日にかけて「琉球分割の危機」という題で沖縄タイムスに論考を寄せています。ちょうど10年前ですね。狼魔人さんも読まれたかと推察します。
それによると琉球分割案には3案あったことが記されています。以下のとおりです。
(1) 琉球列島二分割案(グラント提案)
前アメリカ大統領グラントが提起した案で実際には二分割案か三分割案か定かではないが日本政府は二分割案と受け止めたようです。すなわち北琉球の奄美、中琉球の沖縄本島、は日本が領有し宮古、石垣の南琉球は清が領有すると言った案です。
(2) 琉球列島三分割案(清国提案)
北島(奄美)は日本が南島(宮古、石垣)は清が領有し中島(沖縄本島)には琉球王国を復活させるという内容でした。
(3) 琉球列島二分割案(清国提案)
北島(奄美)、中島(沖縄本島) は日本が領有し南島(宮古、石垣)に琉球王国を復活させるという内容で交渉が難航した際の清国側からの代案というべきものでした。
以上ですが番号は交渉過程において提案された順に振ってあります。(1) ,(2)は大抵の人が知っていると思いますが(3)については西里教授の論文を読んで初めて知りました。宮古、石垣に琉球王国を復活させる。おもしろい話ですね。この件について、西里教授の論文を抜粋紹介しましょう。
(つづく)
琉球大学教授西里喜行氏の論文「琉球分割の危機」より抜粋
>分島案については清国側も抵抗なく合意したが、尚泰およびその一族の引き渡し問題をめぐって難航した。清国側は割譲予定の南島に王国を復活させ、尚泰かその子息を国王に即位させるつもりで引き渡しを要求したけれども、日本側は尚泰一族の引き渡しを拒絶し、その代わり天津に滞在している琉球人の向徳宏(幸地朝常)を国王に即位させるよう勧告した。
当時、向徳宏(幸地朝常)は李鴻章への救援を要請中であった。分島案については、清国側代表は李鴻章の賛成を取り付けていたことから、李鴻章が説得すれば向徳宏(幸地朝常)は国王即位に同意するものと速断し、向徳宏の意向を確かめることなく、八〇年十月二十一日、日本側代表との間で琉球分割条約に合意するとともに、十日後に調印することを約束するのである。<
※以上ですが当の向徳宏(幸地朝常)はそれに対しどう対応したか、西里教授は次のように記しています。
>向徳宏の性格は忍耐強く忠誠心に富み、琉球王の親族であることも明白なので、尚泰以外の人物を琉球王に立てるとすれば、彼以上の人物はいない。ところが、当の向徳宏は貧瘠(ひんせき)の南部二島(宮古、石垣)に自立できる条件はないといい、分島=建国案は「断断として遵行(じゅんこう)し能わず」と泣いて訴え、どのような説得にも応じない等々。
「訴えに李の心動く」
琉球分割=南島建国に断固反対する向徳宏の悲壮な姿に感銘を受けた李鴻章は、ついにこれまでの分島案容認の態度を変更し、書簡の最後の一節で、日清交渉の妥結を延期するよう要請した。向徳宏は、李鴻章に態度変更を決断させる上で決定的役割を果たしたのである。しかし、十月二十一日の交渉妥結以前に、この李鴻章書簡が総理衛門(清国外務省)へ届いたのかどうかは明らかではない。いずれにせよ、李鴻章の態度変更は、琉球分割条約に調印すべきか否かをめぐる清国内の大論争の発端となる。<
※さて事態はどう動くか、全部紹介したいのですが西里教授の論文は大変長いものです。要約しながら向徳宏(幸地親方)について私見を述べてゆきたいと思います。
(つづく)
向徳宏(幸地朝常)の嘆願と林世功(名城里之子親雲上)の自決をもっての請願に調印延期=再交渉論が大勢となり琉球分割の危機はひとまず回避されます。
「分割条約復活へ」
1881年6月24日、清国駐在のドイツ公使ブラントは、清国政府の意向を受けて、明治政府に琉球問題について日清再交渉を呼びかけます。明治政府は一旦ブラントの仲介を拒否しますが尚泰の嫡子尚典を清国側へ引き渡すことによって前年妥結済みの分割条約への調印を清国側に迫る方針を追求します。
外務卿の井上馨は香港総督ヘンネッシーにこの趣旨を清国側へ伝えるよう委嘱し、同時に清国側の意向を探らせます。ヘンネッシーが清国側に伝えたところ総理衛門(清国外務省)は難色を示しますが李鴻章はそれを積極的に受け止め、妥結済みの分割条約で決着をつける外に方法はないと判断します。そこへ駐日公使の黎庶昌(れいしょしょう)が妥結済みの分割条約に附帯条件(首里城の尚泰への返還)を追加する案を提案します。
「琉球の全面返還を」
黎庶昌から黎庶昌案を受け入れるよう説得された在京の馬兼才(与那原良傑、最後の三司官)はこれを拒否、この情報を北京在住の琉球人や琉球現地の士族層へ通報します。北京在住の毛精長らは馬兼才から情報を得るや直ちに総理衛門に請願書を提出し「琉球の全面返還なしには建国できず、黎庶昌案は亡国を意味するので断固反対して欲しいと訴えます。
一方、現地琉球側は連日会議を開き毛鳳来(富川盛奎、最後の三司官)を請願代表に選出します。それを受け毛鳳来は官職を辞し清国への亡命を決意し82年4月27日、随行者4、5人とともに福州へ向け出航します。福州へ到着するや、直ちに北上して北京に入り、琉球分割反対、全面返還要求を趣旨とする請願書を提出します。
新たに請願運動に加わった毛鳳来らの請願書は、清国内の対日強硬派を勢いづかせ、総理衛門の対日妥協案を牽制することとなり調印は再び延期されます。
1882年前半の第二次琉球分割の危機も、毛鳳来をはじめとする在清琉球人の懸命の分割阻止運動によって回避されるが、日清関係正常化の手段として、琉球分割条約が復活する可能性は90年代の初頭に至るまで潜在し続ける。したがってこの間、琉球人の分割阻止運動も継続する。
以上「琉球分割の危機」より要約紹介
西里教授は琉球分割案が阻止されたのは、向徳宏(幸地親方)、毛鳳来(富川盛奎)、林世功(名城里之子親雲上)等の在清琉球人の懸命の分割阻止運動によるものと言われていますが、私はそれはおかしいと考えている。
そもそも琉球分割の危機を招いたのは誰か?向徳宏(幸地親方)らの請願運動が発端ではなかったのか。分割阻止運動は私から言えば、向徳宏らが自ら火をつけ自ら火消しに回ったに過ぎない。非情かもしれないがそう断定せざるを得ない。
「得権を失うことを不服とした頑固党は新政府が佐賀の乱、西南の役で忙殺されている隙をつき明治10年3月琉球処分の撤回を求めて清国に救援の密使(幸地親方)を送った」
それにより本来国内問題であるはずの琉球問題が国際化しより複雑化してしまった。琉球分割案が出てきた時、向徳宏(幸地親方)は予想外の出来事に大変ショックを受けたことであろう。何としてでも阻止しなければならない。当然である。
西里氏の論文は琉球問題の発端となる向徳宏(幸地親方)の行動に全く触れていない。最も肝腎な部分だがそれへの考察がなされていない。それもそうだろう、それが否定されると後の向徳宏(幸地親方)らの阻止運動が全く意味をなさないものになってくる。私が「向徳宏らが自ら火をつけ自ら火消しに回った」と言ったのはその事である。
向徳宏(幸地親方)には琉球建国に対する何の戦略も戦術もビジョンもなかった。唯々、清国の情けにすがるより外はなかった。当時の国際情勢を見れば独立が如何に困難なことか、また問題を国際化すれば分島案も出てくるのは当然のことと何故予測できなかったのかと言いたい気持ちである。
そしてもっとも肝腎なことを忘れている。琉球国王尚泰は東京にいるのである。琉球建国に欠かせない存在であるならば、どうやって琉球国王尚泰を奪還するのかまずそれを考えねばならないのではないか。清国が日本と戦端を開き奪還してくれるとでも思っていたのだろうか。
清国がそれほど琉球のことを深刻に考えていなかったことは南島(先島)に琉球国を建国する案を出したことでも判る。清国は琉球をずいぶんと持て余していたのではないか。そんな余裕なんて無かったはずである。「かってにしろ!」というのが正直な気持ちではなかったのか。
私は問題をこじらせたのは明治政府にも責任の一端はあると考えている。何故に交渉に応じたのか。国内問題として突っ張ればそれで済むことである。大久保利通が生きておれば確実にそうしていたでしょう。大久保利通は清国を李鴻章を呑んでかかっていました。清国が当時日本と戦端を開くことはまずありえなかったのです。明治政府は分島案に同意したところを見ると先島なぞはどうでも良いと思っていたとも言える。
向徳宏(幸地親方)らの琉球建国運動は結局は琉球分割阻止運動にならざるを得なくなる。何という徒労であったことか。向徳宏の「生きて日本国の属人と為るを願はす、死して日本国の属鬼と為るを願はす」の言葉を聞くと本当に琉球国のことを考えていたのかと問いたくなる。
(終わり)
琉球処分の続編、大変勉強になります。
機会を見て、本文記事として転載させて頂きたいと思っています。
狼魔人さま
異存はありません。駄文でよければどうぞ、お任せします。急いで書き、推敲をそれほどしていませんので、誤字、脱字、の訂正をよろしくお願いします。
訂正 琉球処分(8)
上から11行目
得権→既得権
下から10行目
突っ張れば→突っぱねれば
上記に訂正します。
琉球処分の続編、明日のエントリーで本文で紹介させていただきたいと思います。
タイムスの後田多敦という記者、最近コラムをかかないようですが、古い記事を調べると、幸地親方を英雄視したコラムを外にも書いていましたので、併せて紹介したいと思います。
太平山さんの「幸地親方は自分で火をつけて、消すのに大童」説は言いえて妙だと思います。