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歴博の「集団自決」展示説明文は左翼勢力の圧力にも関わらず、必ずしも左翼勢力が意図するような「軍の命令や軍の強制」といった文言を明記させることはできなかった。
これまで左翼勢力の歴史歪曲により、集団自決については一般的に次のようなイメージが定着しているのは事実である。
集団自決⇒手りゅう弾⇒軍用品⇒軍の命令
歴博側が主張するように、軍の命令や強制で集団自決をしたという証拠や証拠は無い。 したがって歴博が「軍の命令(強制)」を明記しないのは当然であるの。 左翼勢力は「手りゅう弾=軍の命令」というイメージを基に記述変更を迫っているわけだから、元々無理な要求であることは明らかである。
何度もいうが集団自決で死亡した人たちは鋤、鍬、鎌等の農具で自決したのであり、手りゅう弾で自決した人はきわめて少数である。
渡嘉敷島集団自決の象徴的存在である金城重明兄弟は軍備品の手りゅう弾では無く、棍棒などで自決に手を貸している。
また座間味の集団自決でもほとんどが農具等や剃刀による自決であり、手りゅう弾で自決した人はたった一人の女教師であった。 それも、他人が投げた手りゅう弾の誤爆によるものだというから手りゅう弾使用による集団自決は例外的ということもできるくらいだ。
手りゅう弾で死んだ人のことを捉えて「軍の命令」だと強弁する手りゅう弾軍命説」は、いまでは、一部の左翼勢力以外に誰も問題にしない空論である。
読者の義挙人さんのお父さまも手りゅう弾を手にしていたが、自分の意思で捨てたの命拾いをされている。
何らかの方法で手りゅう弾を入手しても、自分の意思で捨てることのできるの状況ば軍命でもなければ強制でもない。 これは小学生でもわかる事実でである。
<他県にある国立歴史民俗博物館にまで、抗議する沖縄県の市民団体は、どこまで、府っているのでしょうか、、、、?。
>>沖縄戦の犠牲者のなかには、戦闘ばかりでなく「集団自決」による)死者も含まれていた。<<
この事実で十分だと私は思いますが、、、
必ず、、「命令、強制、あるいは、関与、指示」を表現しろと言う、、、市民団体は、どこの、何様でしょうか?
「手りゅう弾の配布は「善意の関与」」です。
亡き父が、私が幼い時に、私にそのように言っていた記憶があります。善意の関与と言う表現ではなく、、「いざという時は、これで、、(死のう)」と、、。
しかし、父は、、手榴弾は、逃げる途中で捨てたと話しました。
この話が、私は事実だと、今でも思っています。>(義挙人さん)
義挙人さんがご指摘のように一般の人が見る歴史博物館の展示には沖縄戦には集団自決があったことだけを伝えれば十分であり、命令、強制、あるいは関与等を書き加えることは蛇足以外の何物でもない。
同じような趣旨で高校教科書の沖縄戦の項目には「沖縄戦の犠牲者のなかには、戦闘ばかりでなく「集団自決」による死者も含まれていた」程度で必要かつ十分だと考える。
歴博の展示文変更で一番怒り狂ったのが、結果的には一番圧力をかけていた沖縄タイムスだったのは皮肉である。
その沖縄タイムスの読者欄に沖縄タイムスの「怒り」を諭すよう読者の投稿文が掲載された。
これまでの沖縄タイムスは、自分の論に異論を述べる投稿は、たいていはボツが相場であった。 だが、インターネットの普及が著しい昨今、沖縄タイムスもこのような投稿をボツにばかりしていたら、読者に見放されるのを肌で感じ始めたのだろう。
沖縄タイムス 2011年1月10日 オピニオン面
歴博の修正は沖縄側に配慮
金城英明さん=40歳 (那覇市)
国立歴史民族博物館の沖縄戦展示について、博物館は沖縄側の要求を考慮してパネル説明文の内容を一部修正したが、沖縄側は軍強制・関与が明記されていないとして反発している。 なぜ、そこまで軍強制・関与の明記にこだわるのか私にはわからない。 修正文を見ると、「日本軍により」軍民の一体化が進められ~」や「手りゅう弾の配布に示される軍人の指示~」などが盛り込まれており、この文脈から集団自決に軍が関与したことは十分うかがえると思う。 むしろ、沖縄川に配慮して専門家による再検討を行い内容を修正した博物館側の誠意にもっと敬意を表すべきではないか。 明記にこだわるのは集団自決に対して軍命があったということを明確にしたいという考えであろう。 だが、軍命についてはなかったという証言があることから、国の研究機関でもある博物館としてその両方を表現できるような内容にするのは、ごく当然のことであると思う。 一方的な視点と主張は逆に沖縄が孤立しないか心配である。(那覇市)
☆
ネットの普及した現在、このようなバランスの取れた視点で新聞を読む読者が増えている。
特に最後の結語部分は、このように読み換えてほしい欲しいという読者代表の意見だと受け取ってほしい。
一方的な視点と主張は逆に沖縄が孤立しないか心配である。⇒一方的な視点と主張は逆に沖縄タイムスが孤立しないか心配である。
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手榴弾は通常装備になっておらず
昭和20年1月10日にルソン島北部リンガエン湾で米上陸部隊を迎え撃ち
撃沈撃破16~22隻という大戦果を記録した
第十二戦隊などは、陸軍の他部隊から融通してもらって
やっと出撃に間に合わせた程でした。
仮に自警団や基地隊に装備されていたとしても
住民の自決用に回すなどとは思いもよらぬ事でした。
私のコメント採用ありがとうございます。
本件(歴博の「集団自決」)には、直接関係ないが、亡き父に関しもっと続きがあります。
ご迷惑だと思いますが、ご理解の上ご了承下さい。
上記のコメントは、南洋(サイパン)での出来事です。
父母から聞いた話を、そのまま記述します。
昭和何年かは、定かではないが、、、、
父は、大工をしながら、農業しておりました。
或る日、役場に勤めていた親戚の叔父さんが、父に、「そろそろ、この沖縄も、情勢が厳しくなってきている、、もしかすると、戦争に突入するかも知れない、、、今だったら、大丈夫だから、、夫婦でサイパンに出稼ぎに行ったらどうか?、、、」と進められて、サイパンに渡ったそうです。
結果的には、安全と思われていた、サイパンが一番、激戦地だったと後で聞きました。
現地で生れた、姉と兄(私の兄姉)を抱きながら、大変苦労して、非難したそうです。
日本軍のこともいろいろ話していました。
下っ端の兵隊は、「ンジャラー」(悪い性格、乱暴)でしたが、上の人(位の上)は、「とっても、上等で親切だった」と言っておりました。「田中中将」と名前まで、覚えていていました。
田中中将から、食べ物や、水も貰いましたと言っていました。
戦渦が激しくなると、逃げるのに精一杯で、母(現在96歳で元気です。)は右のコメカミに爆弾の破片を受け、今でも、傷が残っています。
田中中将のことは今でも、どうなつたかなぁ、、て、噂します。
つづく。
帰って来た、父は、戦争のことはあまり話はしなく、殆ど、母が話していました。
今、考えれば、そうです。
父の友達、同級生は、徴兵されて、ほとんど、戦争で亡くなり、自分ひとりが、戦争に行かずサイパンに渡り、戦渦を逃れて来たわけですから、、、、心に、、、思うものがあったのでしょう。
父は、昭和63年に73歳で亡くなりましたが、亡くなる前は、たしか、いつも、慰霊の日とか、終戦日には一人で、那覇に行っていました。
もしかしたら、護国神社に参拝、、、、?
それを、考えると、私は、、、自然と涙が、、出てきました。
自分の、口から、決して 戦争の話はしなかった父、狼魔人日記を拝見して自分も分かりました。今考えれば 徴兵を逃れるために、サイパンへ、、、、でも、そのおかげで、今の、私があります。
ですから、私が、戦争で亡くなりました英霊の皆さんに、感謝の気持ち、持たない訳がないでしょう。
義挙人様
貴重な話ありがとうございます。私がお世話になったオジーも老人会の旅行などで東京近辺に来る機会があったときは、真っ先に靖国神社に行かれていました。戦争の直接体験者の方々には私たちが理解できない心情があると思います。
金城会長と佐藤元総理のエピソードも、恥ずかしながら始めて知りました。
実際戦争体験者の方々の地道な活動が国を動かしたのだと思います。その様な方々の行動が、佐藤元総理に「沖縄の復帰なくして日本の戦後は無い。」「沖縄の苦労に報いるなら何でもやれ。」と言わしめたのだと思います。
左翼団体のように、いくら口で平和、平和と言ってもあまり説得力はありません。恩を仇で返すようなものです。
>>一方的な視点と主張は逆に沖縄タイムスが孤立しないか心配である。
同感ですね。中国などの留学生が、実際にアメリカ、日本などに留学し、自分たちが教えられた歴史観が嘘だったと分かりショックを受ける学生も多いそうです。沖縄の子供たちも本土の大学、会社に就職する子も多いと思います。
同じようなショックを受けるのでしょうか。
2月22日「竹島の日」を前に「竹島奪還」を声高に訴えたいと思います。
今さら言うまでも無く、『竹島』は日本固有の領土。そこを韓国が戦後のドサクサに紛れ上陸し、その後ド厚かましくも実効支配しています。数ヶ月前から生じている「尖閣の領有権問題」ともども、日本国として一歩も引くことのできない極めて重要な領土問題。ご参集をお願いいたします。
開 催 日 平成23年1月30日(日)
集 会 午後3時30分~
デモ出発 4時00分~
※ 大阪国際女子マラソンのため、集会、出発が当初の予定より2時間遅れます。
集会会場 大阪市西区新町北公園(厚生年金会館前)
※ 地下鉄四ツ橋駅北西へ5分
経 路 ~御堂筋~韓国領事館前~難波解散(午後5時頃終了;約2キロ)
主 催 竹島を奪還する会・関西(西秀士代表)
実行事務局 M情報 担当;藤島(090-3621-1509)
後 援 打倒民主『桜組』 外国人参政権に反対する会・関西
来 賓 梶谷萬里子(県土・竹島を守る会事務局長;島根)
お願い
①たいへん寒くなると思います。温かい格好で。
②プラカードは主催者で準備いたします。
③上記計画は間接、直接的に一般市民の皆さんにに対して「竹島問題」の啓蒙を目的としています。 それにふさわしくない言動、服装はご遠慮ください。また、妨害行為等に対しては『一切無視』の姿勢で行います。
以下引用
>沖縄の東京オリンピック
これ見てない方は見てくださいね。
涙なくしては見れません。東京オリンピックが開催された年、
沖縄はまだアメリカ占領下にありました。
その当時の沖縄での国旗、国家一体への思いが語られています。
国旗の重み 沖縄の東京オリンピック
ニコニコ動画
http://www.nicovideo.jp/watch/sm12942897
youtube
http://www.youtube.com/watch?v=ACb3qUmX8-U&feature=related
引用終わり
どのような姿勢で臨むのか、
その誠実さがよく伝わってきます。
一方で、
沖縄タイムス・オピニオン面金城英明さんのご意見について。
沖縄が(日本の中で)孤立しやしないかと心配する、
また、
自分が(周囲の親戚・知人の中で)孤立しやしなかと心配する。
沖縄(または自分)の利害損得、打算でモノを考えるな!
事実と信ずるならば、孤立を恐れず主張しろ!
この手の問題について。
左翼イデオロギーは日本全国に蔓延し、
保守系の共通の敵として認識可能ですが、
もう一つ、
沖縄には左翼イデオロギーのその下に隠れているものが沖縄の戦後問題の中にある、
と私は思っております。
沖縄が他の地域と異なる点は、以下の通り。
ことの起こりは、
米軍ではなく、
日本軍を対象にした、
その理由は、
金銭援助が受けられるから。
捏造でも歪曲でも、
さもありそうな作り話、人の心を打つ巧妙な作り話でもなんでもしよう、
沖縄のみんなの為になることなら、嘘をついて、何が悪いのか!
嘘をつくのに気後れがする人は、
話のある部分だけ取り出し、聞く人の想像を誘導する。
これは、
左翼イデオロギーが問題、という話ではない。
徴兵該当の年齢時、海外へ出稼ぎに行けば、
免除される。
(これ沖縄で多かったようです)
戦闘協力者ではないのに、協力者。
(3歳でも協力者)
抜け駆けは、イデオロギーの問題ではない。
心の問題。姿勢の問題。
これは、
戦後も続いて今も続いたまま。
これ、拡散して、
日本全国抜け駆けOKということになれば、
国家は存続不能で、
安全も金銭援助も享受することはできなくなる。
左翼イデオロギーは、
自己正当化・目くらまし・金の引き出し
道具として利用しているだけ。
問題は、
心の姿勢。
オカシイことをオカシイと思わず、
何が悪いのか、と開き直る、
その心が問題。
援護法の一般県民への適応に関する誤解が少々あるようですので、説明させて頂きます。
援護法の申請は、沖縄県側のみの捏造で可能だったとしても、その後の現認調査が通らなければ、適応となりません。
3歳の子供までが、軍属となった事、確かに腑に落ちないことと思います。
3歳の子供が軍属であったと申請すれば、これを軍が証明してくれなければなりません。
ですから、遺族と琉球政府の援護課だけでは、この申請が通らないようになっておりました。
通ったという事は、厚生省・法務省と旧日本軍がこれに協力したということになります。
3歳未満の子供まで軍属扱いになった理由は次のような経緯が事例としてありました。
山部隊(第24師団師団長雨宮巽中将)が5月4日の総攻撃に参加するためには、部隊を一日で南部から上陸してから首里北部戦線に転進しなければなりませんでした。
その時、後方参謀杉森少佐及び作戦参謀長苗代正治少佐は、当区の区長に相談し、区長の命により14歳から65歳男女までの男女に砲弾等の運搬の協力を要請しました。
しかし、当時ほとんどの男子は、防衛召集されており、女子供と老人が大半であったようです。
ある婦人は、一人の子供の手を引き、一人を背負い、砲弾を頭に乗せ、この移動に協力しました。
移動中米軍の攻撃にあいましたが、子供の手を引き、砲弾を頭に乗せていたため、伏せることも出来ず、背負っていた3歳の子供もろ共敵弾が貫通し、亡くなりました。
この事を杉森・苗代両参謀が雨宮司令に報告。
司令が婦人の協力ぶりに感謝された事が記録に残されております。
この事例がきっかけとなり「親子戦闘協力者について」という特措法が定められることとなりました。
軍人・軍属以外の戦死者の救済に、食糧の提供・壕の提供・戦闘協力等としたようですが、60年の安保闘争に敗れた全学連は、62年に沖縄を日本革命の拠点とする事を宣言。左翼による新しい歴史観を作り出して行きました。
沖縄返還が決定した69年以降はより一層、日本軍に憎しみを植え付ける沖縄戦史を作りあげるため彼らは、かつて援護法を適応させる為に理由づけられた食糧の提供・壕の提供・戦闘協力等を食糧の強奪・壕の追い出し・軍命、強制に変えて行きました。
給付を受けている遺族が、否定できないことを知ってのことですから、この狡猾ぶりには、底知れない卑劣さを感じます。
沖縄発のメデイアの情報は、気を付けて判断下さい。左翼運動家らが望んでいることは、沖縄と本土を分断することです。
的確なご指摘ありがとうございます。
でも、一方では北方領土の郵便教員や軍需工場への爆撃で無くなった女学生のように、国に殉じながら戦後何の補償もない方々がいることは沖縄県民もご理解ください。
軍人の名誉を守ろうと、すさまじい同調圧力の中、証言された照屋昇雄さん、宮平秀幸さん、金城武徳さんはじめ立派なな沖縄県民がいたことは、私たち本土に住んでいる人間は忘れません。どうか沖縄の皆様にはその方たちが疎外されないよう守ってください。お願いいたします。
それにしても、赤松さん、梅澤さんの善意を台無しにした、沖縄の馬鹿左翼の罪はは万死に値しますね。普段はウチナンテューのアイデンティティーを大事にしようとか言いながら、この人たちから感じるのは、自己主張のみで心底から沖縄を愛しているとは思えませんね。