狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

沖縄タイムスが県教委批判!空中分解の極悪複合体

2013-04-08 07:19:53 | 八重山教科書採択問題

 

 

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今朝の沖縄タイムス社会面に躍る大見出しを見て、思わずコーヒーを吹いた。

三段抜きの大見出しは、こうなっている。

県教委ちぐはぐ

教科書採択二重の方針

地元に「竹富町決定を尊重」

文科省には「指導を続ける」

やっと沖縄タイムスも目が覚めたのか、「方針転換」である。

ついにお仲間の県教委に批判の矛先を向けたのだ。

記事の署名はこの問題の火付け役・又吉嘉例記者ではなく、新垣晃視、与那覇里子、新崎哲史の3人の記者になっているのが目に付く。

■空中分解する極悪共同体

鉄の結束を誇った極悪複合体のタガが緩んで、お互いに責任の擦り合いになってきたと書いた。

これまで県教委・竹富町教委のコンビを応援してきた沖縄タイムスではあるが、このまま意味不明な記事を書いていたら責任の火の粉が自身にも降りかかって来るのを懸念し、曖昧な態度を続ける県教委を批判する決意をした。

責任転嫁が本日の記事ということか。

県教委の批判記事を応援団の又吉記者に書かせるわけにもいかない。 苦慮した結果、急遽「八重山教科書検証チーム」を結成したのが署名した3人の記者なのだろう。

県教委の「方針転換はない」と言いながら、「文科省の指導を重く見る」という態度は誰が考えてもおかしい。

諸見里県教育長は先輩の大城浩前教育庁の不始末を庇おうとすると「方針転換はない」と発言し、文科省に対する自己保身を考えれば「重く見る」という二重方針で県民を欺いてきた。

それに対し沖縄タイムスは、これまで県教委の態度の矛盾点に目をつぶったままなので、読者にとっては奇異な報道を続けてきた。

まるで自分は公平な報道をしているかのように読者を欺いてきたのだ。

ここに来て県教委に批判の矢を向け、自分は免責されたつもりだろうがそうは問屋がおろさない。

沖縄タイムスが批判する県教委を全社を挙げて支援してきたのはほかならぬ沖縄タイムス自身ではないのか。

天網恢恢疎にしてもらさず、

天知る地知る、

読者知る。

読者はオメデタイ名の記者が考えるほどオメデタくはない。

竹富町 育鵬社の使用断る 「八重山教科書」一本化できず

産経新聞 2013年04月05日08時05分
  沖縄県・八重山地方(石垣市、竹富町、与那国町)の中学公民教科書採択問題で、県教育委員会は4日、文部科学省の指導に基づき、石垣市や与那国町と同じ育鵬社版を使うよう竹富町に求めたが、同意が得られず、一本化できなかったことを明らかにした。

 文部科学省にも報告した。

 記者会見した諸見里明県教育長は、竹富町が平成25年度も独自に東京書籍版の使用を続けることについて「(町の)決定は尊重せざるをえない」としつつ、今後は石垣市や与那国町を交え、一本化に向けた協議を進める方針を示した。 教科書無償措置法は採択地区内で同一の教科書を使うよう定めており、文科省の義家弘介政務官が3月1日、八重山採択地区協議会が選んだ育鵬社版を使うよう竹富町を指導していた。しかし竹富町は既に、25年度も育鵬社版でなく、東京書籍版を使うことを決めていたため、指導を受け入れていない。

 文科省は現状を「違法状態」としており、4日、竹富町教育委員会にあらためて認識を問う文書を送ったことを明らかにした

 具体的な改善策や、義家政務官が指導してからの検討内容を報告するよう求めた

              ☆

>記者会見した諸見里明県教育長は、竹富町が平成25年度も独自に東京書籍版の使用を続けることについて「(町の)決定は尊重せざるをえない」としつつ、今後は石垣市や与那国町を交え、一本化に向けた協議を進める方針を示した。

文科省は竹富町教委の行為を「違法状態」と認識しているわけだから、県教委が指導すべきは竹富町教委のはず。 これは小学生でもわかる理屈だ。 それを今頃「石垣市、与那国町を交えて協議を進める」などと寝言を言うとは・・・。

諸見里県教育庁は、時を2年間逆回転させ、一昨年の8月の状態にせよ、とでも言っているのか。(怒)

>文科省は現状を「違法状態」としており、4日、竹富町教育委員会にあらためて認識を問う文書を送ったことを明らかにした

愈々極悪複合体の責任の擦りあいも大詰めに来て、県教育庁、大城浩前教育庁、竹富町教委、それに沖縄2紙が複雑に絡み合い見苦しい足の引っ張り合い劇を演じるのは、下手なテレビドラマを見るより、よっぽど興味をそそる見物である。

竹富町教委、東京書籍配布へ 八重山教科書問題

2013年4月6日

 【竹富】文部科学省が竹富町教育委員会に対し、同一採択地区内の石垣市、与那国町と同じ保守色の強い育鵬社版公民教科書を採択するよう指導している問題で、竹富町内の中学3年生には昨年度と同様、町教委が独自に採択した東京書籍版が配布される見通しとなった。教科書取扱店は5日までに各学校への教科書配布を開始し、8日までには配布を終える。始業式は8、9日に行われる予定だが、文科省への回答内容を決める町教委の会合は、早くても10日以降にしか開けないという。
 取扱店によると、教科書は学校現場の求めに応じて東京書籍版を用意した。今月から順次、八重山地区の各学校に送付を始めており、5日時点で既に教科書が届いた学校もある。教科書代金は町内篤志家の寄付で賄うが、まだ支払いはされていない。町教委によると、公民教科書を使用するのは町内9校の新3年生31人。公民分野の指導は例年、5月末から6月初旬に始まる。
 文科省は教科書無償措置法に違反している状況や、無償給付するための冊数報告がなされていないことへの見解と解決策を「早急に」明らかにするよう町教委に要求していた。町教委は8、9日に町内各島で入学式が行われることなどから、始業式前に会合を開き、文科省へ回答することは日程上不可能と判断した

               ☆

【付記】

本日の沖縄タイムスの県教委批判の記事に対し、これまで文科省の指導を真っ向から批判してきた数多くの「識者の見解」が影を潜めているのはいかにも奇異である。

だだ、高嶋伸欣琉球大学名誉教授がただ1人意味不明の寝言を吐いているのが目に付く程度。

「指導は、義家氏の法解釈のごり押しだ。 是正要求や訴訟の段階まで進むには厳しい。 県教委と、竹富町は冷静な対応が必要」(高嶋氏)

だってさ。(爆)

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9 コメント

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Unknown (東子)
2013-04-08 08:03:26
>県教委と、竹富町は冷静な対応

尖閣問題で中国漁船に対する対応も「冷静に」だった。
沖縄タイムスの「冷静に」とは、「相手の言い分を認めよ」だ。
つまり、県教委と竹富町は「国の言い分を認めよ」なんでしょうかねぇ(冷笑)

諸見里明氏は、高校校長就任も1年で教育庁へなど、ずっと教育長の地位を狙ってステップアップに励んできた節がある。
2年前の八重山教科書がヒートアップしていたあの頃、教育庁で教育指導統括監をしていた。
9.8「協議会」に県職員が参加したことを「オブザーバーとして出席した」と教育指導統括監の肩書で記者の問いに答えている。
こう答えられるからには、八重山教科書問題には深く関わっていたのでしょう。
それで、このまま教育長になるのはダークなイメージと考えたかどうかわかりませんが、教育指導統括監の地位もそこそこに県立総合教育センター所長に納まり(経歴ロンダリング?、ここも短く)、この春から晴れて教育長に就いた。
諸見里明氏は、賢い人のようにお見受けする。
この時期に教育長に就くなら何か方策(秘策?)があってのことかと思っていたが……。
どうも、竹富町の「自主的な」育鵬社の教科書選択を「願う」だけのようだ。
竹富町が変わらないんだもんっと竹富町のせいにしていれば、やり過ごせると思っていたのか?
このままでは、竹富町だけではなく、竹富町を指導する責を負う県教育委も国に指導される対象になることに、今ごろ気づいて、大慌てかな。
ここまで営々と築いてきた経歴が、文科省の指導の責をとってで終わるのでは、哀しい。
県教育長として指導力をしっかり発揮していただいて、「ここが沖縄の教育が変わった原点」と歴史に名を残す「偉大なる」教育長となられんことを、願う。
返信する
高嶋氏の寝言 (無法者キラー)
2013-04-08 09:20:49
狼魔人様

>「指導は、義家氏の法解釈のごり押しだ。 是正要求や訴訟の段階まで進むには厳しい。 県教委と、竹富町は冷静な対応が必要」(高嶋氏)


現政権の下村文科相も義家氏と同じ法解釈だし、そもそも義家氏は前政権の閣議決定を踏襲して同じ法解釈をしているのはネット検索すれば誰でもわかることです。

高嶋氏は「是正要求や訴訟の段階まで進むには厳しい」など裁判沙汰を恐れているようですが、義家氏の法解釈に間違いがあるなら、法廷で決着をつけるのが道理のはず。

それを恐れているのはデタラメ発言で世間を惑わした責任者の1人として糾弾されるのが怖いのでしょう。
返信する
毎度ながらのチョーニチのイカサマ論調 (町工場親方)
2013-04-08 13:03:13
さくらの花びら様の、「日本人よ、誇りを持とう」 ブログ 、より。

《朝日がシナ・朝鮮の手先だということがよくわかる事件》
.
2013/4/6(土) 午後 11:00

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近隣諸国条項―成熟した国の姿を示す
近現代史や領土の問題をどう教えるべきか。教科書検定の結果が公表されるこの季節、毎年のように議論がくり返される。とりわけ今回は自民党が総選挙で「近隣諸国条項の見直し」を掲げて政権についてから初めて出される検定だった。この機会に改めて考えたい。

この条項は検定基準の一項目であり、アジア諸国との近現代史の扱いに「国際理解と国際協調の見地から必要な配慮」をすると定めている。これが外国からの教科書への口出しをしやすくし、教科書を「自虐的で偏向した」内容にしているとの批判がある。
たしかに教科書の書きぶりを他国からあれこれ言われるのは気持ちのよいものではない。

しかし、そもそも子どもたちに歴史の光と影の両面を教え、アジアに限らず世界の国々を尊重する態度を養うことが大切なのは当然である。わが国は国際協調を重んじ、独善に陥ることなく、客観的に歴史を教える。

この条項は実際の検定基準としてより、内外にその姿勢を示す宣言として働いてきた。もちろん、そこには戦前の教育への反省が込められている。条項を削れば、近隣諸国にわざわざ「配慮をやめる」とメッセージを送る意味を帯びる。

また、条項があるゆえに日本の教科書が外国の言いなりに書かれているとは言いがたい。たとえば、今回は尖閣諸島が日本の領土とわかるようにとの意見がつき、「沖縄県に所属する」と加筆された例がある。領土の記述には近年、中韓から抗議が繰り返されているが、文部科学省はそれを受けて書きかえを指示してはいない。

文科省によると、条項に基づいて検定意見がついたのは確認できるかぎり91年度が最後で、今回もなかった。

この条項は81年度検定で 「華北を侵略」 が 「華北に進出」 に書きかえられたと朝日新聞を含む多くのメディアが報じ、中国などから抗議を受けてできた。実際は書きかえはなく、事実誤認から生まれた条項だという見方が見直し論の背景にはある。
誤報は反省しなければならない。ただ、「侵略」 を 「侵入」 「進出」 などに変えた事例はこの年や過去の検定で他にあったと文科省は説明している。条項を作った当時の判断までが誤りだったとはいえない。
的外れな抗議があったときはきちんと学説をふまえて説明すればよい。冷静で成熟した国の姿を示せば、子どもたちの誇りはおのずと育まれる。(2013.4.2.ーーー朝日新聞)

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朝日新聞がのうのうとよくこんな記事を書けるものであります。

「侵略を進出と書き換えたという誤報は我々朝日も書いたが他社も書いたのだ。誤報は反省しなければならない」と書いていますが、「条項を作った当時の判断までが誤りだったとはいえない」、と書いているのです。

ここが問題なのです。

この誤報事件の問題の本質は誤報によって「近隣諸国条項」なるものが出来てしまったということです。シナや韓国に「誤報」を知らせて、騒がせて、日本政府が「配慮条項」を作ってしまったという、絵に書いたような展開になったのです。

この教科書誤報事件の4年後に、自虐史観の教科書から脱する『新編日本史』という高校用歴史教科書を有識者で作り、検定に合格しました。

すると騒ぎだしたマスコミがいました。朝日新聞です。この日本史の教科書を徹底的に批判してシナや韓国に伝わるような報道をしたため、案の定、シナや韓国が騒ぎはじめました。これにいつものように日本政府 「はい、わかりました」と言って、『新編日本史』を書き換えるように指導したのです。

しかし、有識者たちは 「検定を通っているのに、それはおかしいだろう」ということで、書き換えるその根拠を示してほしいと言いました。

すると文部省は、「近隣諸国条項があるんだから、外国から批判されたらその通り書き換えなさい」と言いました。

正しいことを教えるよりも、近隣諸国が納得する教科書を優先させたのです。

近隣諸国(3カ国)はすべて反日ですから教科書が反日的になるのは当たり前です。

これが近隣諸国条項です。嘘でも何でも配慮が第一ということです。

「条項があるゆえに日本の教科書が外国の言いなりに書かれているとは言いがたい」と朝日は主張しています。

ならば 「近隣諸国条項をやめるべきだ」 となぜ言わないのでしょう。

この条項がある限り 「子供たちの誇りをおのずと育まれる」 ことなどあるわけないのです。


私(町工場の親方)のコメント

例によって、「朝日」、が火付け人となり、チョーニチ好みの馬鹿議員・宮沢喜一によつて、《近隣諸国条項》、が作られました。

これにより、チョーニチと兄弟分と言える、「日教組」、が真っ赤な嘘の日本極悪史観により、書きたい放題書いても、従来と異なり、日教組は、「近隣諸国条項」、を盾に押しまくるため、文部省の検定による歯止めが効かず、教科書は悪くなる一方となりました。

平成10年、中学校の歴史教科書のすべてに、「従軍慰安婦強制連行」、の記述が載り、「こんな内容を中学生にどう教えるんだ!!」、とたまりかねた全国の有志が教科書改善に立ち上がりました。
私もその一員でしたが、出来上がった、「扶桑社」、教科書に対する、朝日、日教組、中核派が全国で展開した反対運動、というより教科書潰し運動は凄まじく、まったく酷いものでした。
いまでも煮えくり返るような怒りが湧きます。
それと同時に、《私が絶対許せぬ》、と怒ったことは、自民党幹部・後藤田正晴と外務省・チャイナスクール幹部、が行った、何とも陰険、卑劣な妨害工作でした。

昨年聴いた、村田春樹氏の演説の悲痛な言葉、(たしか朝日新聞社抗議集会のときだったと思います)

>「皆さん!いいですか。我が日本と言う国は、自分の国の子供たちが使う教科書を
自分の国で作ることができない国なんですよ。
こんな国がありますか!!!」

>全て、「近隣諸国条項」、というもののせいなんです。

今、改めて、あの猛烈な暴風雨の中、毅然として耐えた石垣市・与那国町の教育委員長並びに、教育委員の方々に深甚な敬意を表する次第です。







返信する
Unknown (涼太)
2013-04-08 23:20:55
狼魔人様

竹富町のケースを放置したら、国の教科書採択システムの崩壊に繫がります。
国も絶対に引かないと思います。
それにしても沖縄タイムスも県教委も竹富町もいまいち大人になりきれませんね。
普天間問題しかり、オスプレイもサンフランシスコ講和条約も詭弁を弄すればするほど墓穴を掘ることに早く気が付いて欲しい。それを期待するのは無理なんでしょうか。
返信する
Unknown (涼太)
2013-04-08 23:24:26
狼魔人様


>>繫がります。

なんだか文字化けしています。

つながります。と書いたのですが。

失礼しました。

返信する
近隣諸国条項 (町工場の親方)
2013-04-09 07:26:03
近隣諸国条項制定の経過と、《日本の悪性癌、「朝日」・「日教組」・「自民党、外務省内左翼」》、について、

今から7年半ほど前の、平成17年10月、「チャンネル・桜。掲示板」、に書いたものをご紹介させていただきます。

藤岡信勝著 『教科書採択の真相』 《かくして歴史は歪められる》 PHP新書 より。

【第六話】 「中国共産党の教科書批判キャンペーン」
1982年6月26日、文部省から前日発表された高校教科書の検定結果について、新聞各紙がいっせいに報道した。そのなかで、実教出版の 「世界史」 の教科書で、検定前の 「日本軍が華北に侵略すると・・・」 とあったのが、検定後には 「日本軍が華北に進出すると・・・」 に修正された、という報道が特に注目を浴びた。当時の風潮では、文部省の検定を批判するのが新聞記者の仕事のようになっていた。

同日、中国の新華社電は簡単なコメント抜きの報道を行ったが、翌日には中国共産党の機関紙 『人民日報』 が、「歴史を歪曲し侵略を美化する日本の教科書」 と題する記事を掲載した。6月30日にも、『人民日報』 に短い記事が掲載された。しかし、それから19日間、中国はこの問題について何の報道もしんかった。問題が終わったかに見えた。

ところが、7月20日になって、『人民日報』 に 「この教訓はしっかり覚えておくべきだ」 という短い評論が掲載されたのを皮切りに、突如として、堰を切ったような日本批判が始まった。批判の強さは次第に激しくなり、膨大な量の対日批判の洪水となり、8月10日ころにはピークに達した。
二つの疑問がわく。第一に日本の教科書検定は毎年行われている。この年に限ったことではない。それなのに、なぜ、この年だけこれほど激しい対日教科書批判が起こったのか。
第二に、『人民日報』 がなぜ、「19日間の沈黙」 の後に、対日非難のキャンペーンを猛然と開始したのか。

この問題に関する田中明彦、井尻秀憲らの研究を総合すると、これは要するに中国共産党内の権力闘争と深く関係していたのである。小平は、当時すでに中国共産党の実力者だったが、改革・解放路線を採用し、西側から資本を導入して経済建設を進める方針を推進していた。党内にはまだ、華国鋒など文化大革命時代の気分の残っている頑固派の幹部もおり、は、さらに権力基盤を固めなければならなかつた。9月1日からは、中国共産党の党大会 (12全大会) が設定されていた。

そこで、は、歴史教科書問題で日本をスケープゴートにして、党内で点数を稼ぐ材料にすることを思いついたものと思われる。「19日間の沈黙」 は、そのための時間かせぎだったと考えられる。7月20日の 『人民日報』 の対日氏批判キャンペーンの開始も、が直接にゴーサインを出したといわれている。(井尻秀憲 「日中関係」、田中浩編 『現代世界と国民国家の将来』 1990年 御茶ノ水書房、所収)

田中明彦は、中国共産党の教科書批判キャンペーンが、青少年の共産党離れに対処する 「愛国主義教育」 キヤンペーンと連動していたことを指摘している。8月1日、中国共産党は 「全国の軍民、とくに青少年が中国共産党を愛し、社会主義の祖国を愛し、人民の軍隊を愛することを内容とする愛国主義教育」 を繰り広げるよう号令した。それには青少年に中国民族がいかなる苦難の深みから開放されたかをわからせる必要があり、「日本軍の残虐行為」 などを教材として 「精彩に富む形式」 で教えることが目指された。

そうした分析に基づき、田中は、おそらく、「日本に対し教科書の内容から 『誤り』 を取り除かせるための説得」 であった以上に、「国内に対する 『独立自主の対外政策』を示す機会であり、青少年への歴史教育と共産党への支持調達のための機会であった」 と結論づけている。(『教科書問題』 をめぐる中国の政策決定)岡部達味編 『中国外交ー政策決定の構造』1983年国際問題研究所、所収)

今、話題の、中国の反日デモ(というより、反日暴動) の基盤をつくったとされている 「愛国主義教育」 が、すでにこの時点で登場していることにご注目願いたい。「共産党への支持調達」 と党内闘争を乗り切るために、日本の教科書問題は格好の材料として利用されたのである。

「近隣諸国条項」 の制定
そんなこととはつゆ知らず、9月に訪中を予定していた鈴木善幸首相は、もし中国から訪中を拒否されれば、秋の自民党の総裁選で再選されることをめざしていた自分の経歴に傷がつくことを心配していた。そこで、宮沢喜一官房長官に支持して、この問題をおさめるように求めた。宮沢は、8月26日、『歴史教科書』 についての官房長官談話」(宮沢談話) を発表し、「我が国が国としては、アジアの近隣諸国との友好、親善を進めるうえでこれらの批判に十分に耳を傾け、政府の責任において是正する」 と表明した。

9月14日、文部大臣から 「教科書検定調査審議会」 に対し、「歴史教科書の記述に関する検定の在り方について」 諮問が行われた。社会科担当の第二部は、委員の反対を抑え込んで 「南京事件」 など11項目について、検定意見をつけないことで合意した。

11項目の内容は、中国関係では、「侵略」 と 「南京事件」 韓国関係では、「侵略」 「土地調査事業」 「三・一独立運動」 「神社参拝」 「日本語使用」 「創氏改名」 「強制連行」 の七件、その他で 「東南アジアへの進出」 「沖縄戦」 である。

1982年11月24日、文部省は 「義務教育諸学校教科用図書検定基準」 および 「高等学校教科用図書検定基準」 を改正し、「第三章 各教科固有の条件」 の「2 選択・扱い及び組織・分量」 のなかに「(5)近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がなされていること。」 という一項目を付け加えた。

これが、「近隣諸国条項」 とよばれているものである。

この文言だけを見れば、格別問題とするにあたらないように思えるかもしれない。「国際理解と国際協調の見地」 は大切なことであり、日本としてもこれを踏まえなければならないのは当然と思えるからだ。しかし、「近隣諸国条項」 の実質的な意味は、

《先の11項目に検定意見をつけないこと、すなわち、中国・韓国から文句をつけられそうなテーマについては、左翼学者が書き放題に放任する (さらにのちには、書かない著者には書かせる) ということなのである。》

返信する
近隣諸国条項・Ⅱ (町工場の親方)
2013-04-09 07:40:47
その証拠に、この年検定中の、中学校歴史教科書には、早速、満州事変と日華事変について、「侵略」 の語が一挙に多数の教科書に登場した。「近隣諸国条項」 こそは中国と韓国の一方的な歴史解釈を日本人に強要し、歴史教科書に書かせる装置であり、そしてついには、1996年に、「従軍慰安婦の強制連行」 という、まったくの捏造された嘘を中学校の教科書にまで登場させる元凶となったのである。
「近隣諸国条項」 の制定は、二重の意味で不当なものであつた。第一に、「侵略」 を検定によって 「進出」  に変えられたという報道は、実は誤報だった。だから、この事件は、「侵略・進出誤報事件」 とよばれている。第二は、それは、日本の教育主権を売り渡す行為だった。「当時の鈴木首相と宮沢官房長官は、独立国家の主権とは何かということに極端に無自覚であったからなのか、マスコミや中国・韓国の圧力に抗し切れなかったからなのか、ともかく、日本国家の教育主権を外国に売り渡したのである。

「新編日本史」 への外圧検定事件
「近隣諸国条項」 によって、日本の検定制度はまったく変質してしまったといっても過言ではない。それは、日本の国益と尊厳を守り、日本の教育を共産主義勢力の浸透から防衛する装置であることをやめて、むしろ、国益を損ない、尊厳を失い、自国の歴史を卑しめる装置に変ってしまったのである。それを実証するテストケースが1986年の外圧検定事件である。保守系の団体を糾合した民間組織である 「日本を守る国民会議」 (現在の 「日本会議」 の前身の一つ) は1982年10月、教科書を批判しているだけでは事態は変らないとして、日本国民の教育に相応しい、高校用の日本史教科書を編集する方針を決めた。教科書は、「新編日本史」 として原書房から発行され、1985年度の文部省検定を受けた。
1986年5月24日の 『朝日新聞』 は、社会面の見開き2ページを使った大きな教科書関連記事を掲載した。見出しは 「゛復古調゛の日本史教科書/日本を守る国民会議/高校用作成めざす/原稿本で教育勅語礼賛/建国神話・三種の神器も」 というものであつた。 「日本を守る国民会議」 の『新編日本史』 が恐ろしく右翼的な教科書であるかのような印象を与えるための誹謗記事であった。その記事は、文部省の教科用図書検定調査審議会(検定審) の内部でも疑義が出て紛糾していると伝えていた。しかし、まだ、検定作業中で、国民の誰も知りえない教科書の内容を、一新聞社が勝手に暴露して批判し、検定結果に影響を与えるキャンペーンをはるというのは、かってないことだった。
その記事はただちに韓国・中国の反発を招いた。むしろ、それをあてにして、外圧を誘導するために書かれた記事であるといってもよかった。朝日の記事がでてから三日後の検定審では、それでも 『新編日本史』 の合格を決定した。日本政府は、中韓に対しては、その教科書はまだ検定作業中であると答え、文部省に対しては、再検討を命じた。こうして、正規の手続きで検定に合格した教科書に対し、以後四回にわたって、文部省から違法・不当ともいうべき超法規的な修正要求が繰り返された。

小堀桂一郎  「正論大賞」 受賞記念論文
『自らの歴史を自らの手に取り戻すために』 ?? 近隣諸国条項を廃棄し、自律への路を歩め
雑誌 「正論」 平成十三年三月号 より。

はじめに
昭和五十七年は忘れもしない 「教科書検定虚報事件」 の発生した年で、六月末から九月上旬にかけての、あの長く暑かった夏の記憶は今でもありありと脳裏に再現できるほどに鮮やかである。でも本年から数へてみればあれは十九年もの昔の出来事だった。二十年に近い、この短からぬ年月を、我々日本人はあの忌まわしい虚報事件の後遺症に悩まされ続け、そして昨平成十二年の秋の外務省による教科書検定介入事件の如くに、今でもあの呪ひに祟られて苦しむといふ事態が生じもする。感慨なきをえない。
平成十二年秋の事態を、仮に 「中学校歴史教科書検定不合格裏工作事件」 とでも、長い名をつけて呼んでみるとして、この事件と、昭和五十七年夏の 「検定虚報事件」 との間にどの様な因果関係があるのか、そもそも二十年近い歳月を距てて二つの事件がいったいどの様な繋がりの糸で関係づけて論ぜられるのか、少し若い世代の人々にはその辺の事情が最早つかみにくくなっているといふこともあるのではないか。先行する世代の、且つ当事者の末端にともかくも位置していた者の一人として、そのあたりの事情を、次代への中継的地点に立って語り遺しておく義務の如きものがあるのではないか。さう考へて、偶々寄せられた、何か回想記風のものを、との編集部の求めに応じ、二つの事件を結ぶ脈絡とそれへの考察、及びそこから我々につきつけられてくる時務の要求とについて、思ふところを記しておきたいと思ふ。

・・・・・七月二十九日以降、当時の文部省初等中等局長は、検定により 「侵略」⇒「進出」 書き換への指示は事実として存在しなかった、新聞の記事は誤報であるとの旨を、参議院文教委員会等で数回にわたって言明している。そのことは前引の八月十日の新聞報道 (「文部省見解」) を注意深く読めば読み取れるのである。そして 『それにも拘わらず』 八月二十六日に至って、あの禍々しい 「内閣官房長官談話」 は出され、日本政府の責任に於いて教科書記述を是正させる、との約束が中・韓両国政府に通達された。その官房長官・宮沢喜一の犯した罪 (内閣法及び国家行政組織法に違反の疑ひ、そして 「外患誘致」 といふ明白な国家反逆の行為) については、本誌 「正論」 平成九年三月号の拙論 「「漢奸」の精神病理」 の中で、筆者が平生自らに加へているたしなみの埒を大幅に越える口調で糾弾しておいたのだが、勿論文章上の非難弾劾ですむことではない。爾来二十年に及ぶ日本の教育界への外圧といふ禍害は全くこの時のこの人物の売国的行為に淵源するものである。外交に於ける失策 (しかも意図的な) の責任が個人に対して問はれることがない、この倫理的鈍感の精神風土は昭和十六年十二月七日朝のワシントンに於ける日本大使館の大失態以来、依然として日本国のアキレス腱であり続けている。今後の日本国が是非真剣に考へておかねばならぬ検討課題である。

(二) 「近隣諸国条項」 の呪ひ
昭和五十七年の忌まはしい虚報事件から結果として二つの性質の異なる事態が生じた。一つはこの節で取り上げる 「近隣諸国条項」 であり、他の一つは次節で論及する、自前の歴史観の上に立脚した高校用歴史教科書制作の運動である。
五十七年八月の後半に入って、問題の焦点は文部省と外務省との対立といふ形に絞られてきた。文部省は、当然ながら、検定済教科書に更なる記述変更を要求するのは検定制度の根幹を揺るがすものだ、とて強く抵抗する。外務省では桜内外務大臣が先頭に立って、「首脳」 と称される人々が <近隣友好諸国との相互信頼> <早急に姿勢を正すことが必要> 中・韓両国の国民感情を <]軽く見ると大変なことになる> 等の表現で間接的に記述の変更を主張する。文部・外務両省の対立は、互ひにゆずらぬ形で二週間ほど続くのだが、そこへ八月二十六日の官房長官談話が、簡単に言へば外務省の主張に同調し、これに裏付けを与へる形で発表されたわけである。
談話のポイントは四節に分かれた全文の第二節の末尾にあり、当時の新聞紙面から直接引用してみると、 <・・・・我が国としては、アジアの近隣諸国との友好、親善を進める上でこれらの批判に十分耳を傾け、政府の責任において (引用者注、教科書の記述を) 是正する> といふものであるが、これが要するに日本国の教科書記述を支配せんとする外圧への無残な屈服の表明に他ならないことは、現在のどんな若い読者でも直ちに理解されるであらう。
ところでこの談話は次の第三節の冒頭に以下の如き、恥辱の上塗りとも称すべき対敵迎合的な約束を付け加えていた。曰く、<このため、今後の教科書検定に際しては、教科用図書検定調査審議会の議を経て検定基準を改め、前期の趣旨が十分実現するよう配慮する。

これが問題の 「検定基準」 への 「近隣諸国条項」 追加の根拠となった提言である。ここまで読んで下さればおわかりと思ふのだが、この条項の起草・添加は別に中・韓国の要求に発したわけではない。相手は現行の日本の歴史教科書の記述を 「友好」 的なものに改めろ、と申し入れてきたまでである。
だが官房長官は相手の要求の範囲を越えて、将来の日本の教育界での教科書制作にはめられることになる手枷・足枷を、自ら進んで相手に提供し媚び諂ったのである。何故そんなことをしたのか。それは九月に予定されていた鈴木善幸首相の訪中の旅を円滑に進め、官房長官としての面目を立てんためである。つまり私利を図って国家の名誉を売ったのである。
今、筆者の手元には昭和五十七年十一月二十五日付の 「文部広報」 第七四七号といふ資料がある。此を見ると前記の官房長官談話が僅か三箇月のうちに 「近隣諸国条項」 の検定基準への添加として結実した経緯がよくわかる。かいつまんで言へばかうである。

八月二十六日の官房長官談話を受けて、当時の鈴木内閣の小川平二文部大臣は、九月十四日付で 「教科用図書検定調査審議会」 に対して、「歴史教科書記述に関する検定の在り方」 について諮問した。九月七日のサンケイ新聞の報道で、一連の紛糾は要するに誤報に基くものだと判明したにも拘らず、である。検定審議会の方も亦誤報のことは聞かなかったの如き態度でこの諮問についての審議にとりかかり
二箇月後の十一月十六日に文相に答申を提出した。(余計な注釈かもしれないが、この時の検定審議会に 「外務省枠」 で加はっていたのが、後に今上天皇御訪中に際して、「お言葉」 の中で 「謝罪」 の意を表明せよと立論したN元大使である)この答申に基づいて小川文相は十一月二十四日付の 「文部省告示」 で、義務教育及び高等学校用図書検定基準の一部改正を布告し、「教科用図書の内容とその取り扱い」 と題する章節十四項の次に第十五項として以下の一項を加へ、この告示は <公布の日から施行する> とした。曰く、<(15)近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がなされていること> と。
八月下旬に頂点に達していた文部省と外務省の嶮しい対立を当時の新聞(サンケイ) 紙面で辿り返してみると結構面白い。文部省側は、<いま省内には、外務省に対する恨みつらみが渦巻いている> と書かれ、<外務省に頼んだのが間違いだった。・・・外務省は単なる取次ぎ機関だ > といふ文部省高官の言葉が記事になっている。実際我々市民の眼には日本外務省は国の外交を司る機関ではなく、中国からの日本攻撃の取次ぎ所にすぎないと見えていた。一方 <しょせん文部省は二流官庁。事の重大さをわきまえていない> といふかなりきはどい外務省幹部の放言もしっかり記事になっている。

小川文相は外務省の検定介入に徹底抗戦の構へで八月二十五日には、政府までが外務省の方針に同調するならば自分は辞任する、とまで表明していたのだが、翌二十六日の官房長官談話に接して辞表を叩きつけたのかと思ふとさにあらず、前引の如く、いつのまにか変心して十一月下旬には自らが検定制度に大きな傷をつけたその下手人となっているといふ不思議さである。
かうして、九月七日付のサンケイ新聞の画期的なおわび広告によって問題紛糾のそもそもの端著が新聞の誤報にあったことが判明したにも拘らず、何とも不思議な経路を辿って 「近隣諸国条項」 は成立した。その成立を自ら要求したわけでもない近隣の両国は、教科書に関はる紛糾が出来する度毎に、十分この条項を利用してその旨味に悦に入っている。
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近隣諸国条項・Ⅲ (町工場の親方)
2013-04-09 07:49:52
(三) 「新編日本史」 の編纂
五十七年夏の事件は、教育界の枠をはるかに越えて、政治・外交・社会問題としての広汎な関心を民間に喚起した。現在の 「日本会議」 はその頃は 「日本を守る国民会議」 と 「日本を守る会」 との合併以前で、筆者は前者に属していたが、この年の十月三十日に行はれた同会議の 「教科書問題を考へる懇談会」 に出席し、発言もした。黛敏郎氏がまだお元気で運営委員長を務め、自らも常に先頭に立って積極的に行動してをられた頃のことである。

この日懇談会に出席された方のうち二十人の発言録がいま筆者の手元にあるが、黛氏はじめ既に物故された方も何人か居られ、或る、或る種の感慨なきを得ない。
夏の事件の衝撃を受けて様々な意見開陳がなされているが、その中に、かかる状況の打開策として最も建設的なのは我々 (「日本を守る国民会議」 を指すとの共通の了解がある) 自身の手で、自らの納得のゆくような教科書を制作することではないか、との意見が見えている。筆者自身もそれを述べた記憶があるが、改めて発言録を検して見るに、そのことを最も明快に、且つ具体的に力強く主張されたのは、当時皇學館大學の学長の任に在られた田中卓博士である。

博士は同時に、日本史を社会科の枠からはづして独立させよとも述べられてをられる。これはやがて実現した。又高等学校に関しては学習指導要領だけを残して自由化(検定なし) せよとのお説もでている。

・・・原書房刊の 「新編日本史」 (現在は図書刊行会刊 「最新日本史」 といふ形をとっている) に関して、筆者はよくその執筆者の一員と思はれているがさうではない。むしろ序文として入れるはずだった 「日本の史学の歴史」 といふ章の原稿が没になった記憶がある。筆者が務めたのは 「監修」だが、これがどういふ役割かといふと、要するに本文の全体を、読みやすい校正刷りになった段階で校閲し、必要とあらば本文の欄外に入朱訂正を施し、疑点や異議を覚えた箇所にコメントを書き込んで執筆者にもどす、といふ作業である。

往々に 「監修」 といふと学会のその専門学科の有力者が 「監修者」 として名前を貸すだけといふ例がある様だが、「国民会議」 の教科書と筆者の場合そんなことはしていない。だから見本本完成のの後、文部省教科書調査官の検定意見を拝聴するために、編集主任の朝比奈正幸氏と共に調査官の許に赴き、問題が紛糾してからは執筆者代表の如き顔をして文部省との交渉にも当たったのである。

昭和六十年の九月半ばには、この日本史教科書は一応所謂 「白表紙本」 の形にまで仕上がり、検定審議会に提出するところまで漕ぎつけた。ささやかな内輪の祝宴を催した記憶もある。編纂の総監督ともいふべき役を務められたのは、その十年ほど前に文部省の主任調査官を辞任された、「家永教科書訴訟」での国側証人として有名な村尾次郎氏だった。

村尾氏は後に、一介のドイツ語教師だとしか聞いていなかった汝が国史教科書制作にのり出してきて、しかも結構働くとは全く思ひがけない面白い出来事だった、とて笑はれたものだ。

明けて六十一年の一月末に条件付合格の判定が出、その条件を満した内閣本について、三月彼岸の頃に文部省で二度目の検定意見の伝達といふことあり、私は朝比奈氏と共に文部省に出向いて調査官の意見を聴き、白表紙本に細かくメモを書き込んで修正・改善のための覚えとした。念のために記しておくが、調査官A氏の検定意見は、まさにこの教科書をよりよきものにするための適切な助言の趣に終始し、我々も時に反論や異議を呈しながらも概して穏やかに、相互の意見の妥協点を双方から模索する様な形で訂正要請・勧告に応じていたものである。

検定意見の聴取、それに基づいての訂正結果の提出、といふ段取りを踏んで、あとは判定結果の通知を待つのみ、といふ状況になっていた時、奇妙なことに、忘れもしない、、合否判定の発表を三日後に控えた六十一年の五月二十四日であるが、朝日新聞が我々の 「新編日本史」 編纂事業のことを報道した。検定結果の公表以前であるから所謂白表紙本は部外秘の秘密扱ひのはずであるが、朝日新聞はそれを入手し、内容を知っているらしかった。

但しこの第一報を見た時、我々は多少迷惑な扱ひとは思ったが、むしろ話題にしてくれて有難い、といふくらいに暢気に構へていたのである。ところが三日後の五月二十七日、検定結果が公表され、我々の教科書の 「内閣本」 が 「合格」 と決定してからその後がいけなかった。

六月に入ると朝日新聞による 「新編日本史」 非難の論調は次第に激しくなり、「復古調教科書」 と銘打って様々な攻撃を加へるようになった。(「復古調」 の刻銘は我々の嬉しく首肯するところであったが、朝日新聞の感覚ではこれが誹謗の意味になるらしかった)。その誹謗に応じてサンケイや世界日報が論説と投書欄とで新教科書擁護の論陣を展開してくれ、なかなかに賑やかな状況を呈することにもなった。

或る人の調査によると、六月初めから約四十日間、朝日新聞に 「新編日本史」 非難の記事が載らない日はなかったそうである。

しかし、六月の半ばになって、既に検定合格が決定したこの教科書に対し、文部省が本文に六箇所の再修正を要求してきた時には、我々は或る不吉な予感をいだいた。

合格後の再修正要求は、五十七年の事件の時には、文部省が、検定制度の根幹を揺るがすものとして、外務省と嶮しく対決する、その争点となった重大問題である。それを今度は文部省が先に立って我々に要求してきている。

いづれ背後には外務省が居るのだらうと思はれたが、文部省は外務省と対決するどころか、今度は自らが外圧の取次ぎ機関と化して我々に検定原則違反の記述修正要求をつきつけてくる、といふ形になったわけである。実は五月三十日にも文部省からの再修正要求はあった。ただ我々はそれを訂正洩れになっていた字句の正誤の追加くらいに考へて、それほど重大には受け取らなかった。(中に一箇所、単なる正誤ではない資料の削除要求があった。これは既に 「違法検定」 であった)

 しかし六月十日の再修正要求は全てが明らかに記述内容に関はることだったから、我々は大いなる疑惑を感じ、緊張した。ことに調査官が、この再修正要求は五月二十七日の合格決定公表以前の段階で出たことにしてもらいたい、といった小細工を弄したことで、逆にこの裏面に何かよからぬ裏工作があるらしいことを推測した。後でわかったことだが、六月七日に中国外務省は北京駐在の日本大使に 「新編日本史」 の合格に抗議する覚書を手交している。この時彼等がこの教科書の白表紙本を手にしてその内容に眼をふれていたとはさすがに考へられない。

朝日新聞の非難の論調に接して、間接的に、これは間違った歴史認識を含む教科書だと判断したとする他に考へられない。とにかく、当時の総理大臣中曽根康弘首相氏は、この覚書に忽ちしゅう伏した。そして後藤田正晴官房長官を通じて海部俊樹文相に、北京の意向に沿ふ形でこの教科書の記述を修正させよ、と指示した。

文相は、それは検定制度の破壊であるとて抵抗するどころか、唯々諾々と首相の意を奉じて、十日の編者側への再修正要求に及んだのだった。この外圧に屈しての違法の再修正要求の件は、六月十八日に中曽根氏が遊説さきの鹿児島での記者会見に於いて、自分が命令したものであることを自ら白状し、翌十九日の各紙の紙面で大きく取り上げられた。サンケイは社説(「主張」)で 「外圧に屈した教科書検定」 と題する厳しい批判を掲げ、「サンケイ抄」 は中曽根首相を名指して、四年前の土下座の醜態の再演、と断じた。

この段階では朝比奈正幸氏と筆者とが専ら執筆者代表といふ形をとり、国民会議事務局の松村俊郎氏が常に随行陪席して文部省との連夜の交渉に当たったのだが、殊に七月三日の交渉は遂に夜を徹して続き、四日の朝、家庭を持って初めて朝帰りなる経験をしたのも忘れ難い記憶である。

呆れたことに、この第三次修正要求に対応しての交渉の最中に、それにかぶせる様にして第四次修正要求が持出された。これは検定審議委員の中の一部の左翼的イデオローグから出た 「便乗要求」 といふものだといふことが後で判明し、その浅ましさに実にやり切れない思ひをした。私はこれを断固拒否する態度に出たのだが、この強硬さ故に、最後の一点で新教科書の合格がふいになるのではないかとの心配も生じ、黛氏、村尾次郎氏に大いなる御心労をおかけすることになったのは何とも不本意なことだった。

そして何と言っても文部大臣が判子をつかなければ教科書の検定合格は公認されないのだぞといふ脅迫的言辞が間接に伝へられたことで、筆者のこの人物の卑しさに対する不快感は絶頂に達した。決してその脅迫に屈したわけではないが、妥協に妥協を重ねた形で、七月七日に 「新編日本史」 は最終的に検定合格の認定を得ることができたのだった。・・・

此度の外圧検定事件は、教科書検定制度といふ国の法秩序の一環を、総理大臣、内閣官房長官、外務省が先頭に立って破壊しようとし、この制度をまもるべき責務を負うている文部省に又その責任を果たそうとする意志も勇気も無く、ひとり私共執筆者側の方が検定制度の理念と実施の準則を守ろうとした、さういふ構図になっていたのである。。私共検定を受ける側が検定に抵抗したのではなく、逆に検定の 「あるべき様」 を守ろうとし、且つ守り抜く辞意を明示した。その点で、かの家永訴訟とは正反対の、といふか裏返しの構図である。但し、編纂総監督の村尾次郎氏にしてみれば、家永訴訟の時と比べて、文部省の内側にいるか外側にいるかの位置の違ひがあるだけで、教科書検定制度の理念と倫理とを守るといふ姿勢に於いては見事に首尾一貫していたわけである。その点では全く志を一にしていたはずであるのに、私の対文部省姿勢が強硬に過ぎたために、汝が全てぶち壊しにしかねない、とてこの大先輩には心ならずもひどく御心労をおかけしてしまった。


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近隣諸国条項・Ⅳ (町工場の親方)
2013-04-09 08:02:35
事件全体を振り返って総括してみると、一言で言へば、かうした 「復古調」 教科書の出現を憎んだ国内の所謂 「反日勢力」 が、外圧を導入してこれを外交問題化し、出版を阻止しようとし、そしてある程度までそれに成功した事件だった、と捉へることができよう。

外圧自体の発源地はもちろん北京政府だが、これの介入を認めてしまったのが、総理、官房長官、外務省といふ国政の最高レベルを貫く権力線なのだから始末が悪い。国権行使の最上層部がどうしてかくも簡単に北京の恫喝に屈服してしまったのかといへば、当面の外交上の思惑といふことももちろんあるが、結局は 「近隣諸国条項」 にひそむ呪縛力の故である。

七月四日のサンケイ新聞も <今回の教科書問題では、政府首脳と外務省が四年前の教科書騒動のあとの宮沢官房長官談話をタテに、終始、文部省に ゛内圧゛ をかけ、これに屈した文部省が検定審議抜きの ゛違法検定゛ を行っている図式がはっきりしてきた> と書いているし、中曽根総理、後藤田官房長官共に、ーー北京からの申し入れは明らかに内政干渉であるが、四年前の宮沢談話が国際公約の正確を有している故に、外圧の受け入れは已むをえない、との趣旨の談話をしていたことが紙上に報ぜられている。

その宮沢談話は 「検定基準」 の中の 「近隣諸国条項」 として成分化されているのだから、所詮教科書問題をめぐる外交折衝に於いて日本の手足を拘束しているのは問題のこの条項である。

このことはこの昭和六十一年の事件の際にもちろん既に痛切に認識されていた。渡部昇一氏は七月七日のサンケイ新聞長官 「正論」 欄で後藤田官房長官談話に対する反論の形をとって、明快に、宮沢談話は 「日中共同声明違反」 である故に無効、北京政府からの抗議はその前提が誤報の上に立っているものである故に撤回させるべきである、との論を展開され、七月九日には社説 (「主張」) が、「『官房長官談話』を見直せ」 との標題で、四年前の政府見解は誤報の土台の上に出されたものであるから、「無効」 を宣すべきだ、と説いた。洵にその通りである。

しかしながら、この二つの主張はいづれも、政府によって顧みられることなく、輿論の広汎な支持を得るにも至らなかった。国家の 「あるべき様」 に関しておよそ道理といふものが通用しないといふ点で、昭和六十年前後の日本は昭和二十年秋から昭和二十七年にかけての米軍による占領下の日本と大して変らなかった。占領者が異国の軍隊ならぬ国内の反日勢力である点が違ふといふだけのことだった。

(四) 平成十二年秋の教訓から
・・・「新編日本史」 の編纂 ・制作は別に秘密にしたわけではなく、ただ世間に注目されることもないままに進んでいたただけのことであるが、「つくる会」 の運動は大勢の支持者・賛同者を募って華々しく首途をしたのだから、自然反対陣営の探索の眼も嶮しくそこに注がれていたことだろう。

そこで 「つくる会」 の教科書の白表紙本の部外者への流出といった不祥事も、殆ど起こるべくして起こったことと言へる。十二年の七月末に毎日・朝日の両紙が二種の新教科書のうち 「公民」 の方について、部外者が知るはずのない内容の一部を捉へて、反対陣営からの非難を唆す様な記事を載せた時、やはり来るものが来たな、との感想が浮かんだだけだった。

暴露と中傷はやがて歴史教科書の方にも及び、九月には白表紙本が外部に流出したことを窺はせる内容記述への批判が共同通信から全国に配送され、九月中旬には朝日・毎日両紙が同様の非難の記事を掲載した。新聞紙の記事が又しても外圧導入の呼び水となるといふ、図式は十四年前の昭和六十一年の事件の時とおなじである。

外圧はやはり北京に於いて発生した。前回にこの外圧を中継し増幅して文部省経由で執筆者側に伝へてきたのは外務省ー総理ー官房長官の線であったが、今回は少しく不思議なことに、文部省内部に直ちに外冠への呼応の動きが生じた。文部省内部といってもそれは 「教科用図書検定調査審議会委員」 歴史部会委員の一人に外務省出身者が居り、この人物が対敵内応の発動者だったのだから、或る面から見れば外圧導入の中継はやはり外務省が行ったのだと見てもよい。

やがて外務省には不正工作への組織ぐるみの関与があったと見做されるに至った所以である。
この人物が既に周知の通り元インド大使で現在日中友好会館副会長 (会長は後藤田正晴元官房長官) の地位にある野田英二郎氏である。
この人のことは産経新聞の本年一月十二日の第三面に、新聞記事としてはおそらく最大限であらう、その経歴と思想と過去の各種の発言にわたっての紹介があるので、本誌ではとくにふれない。不合格工作事件の十月中旬までの経過を詳述して河野洋平外務大臣、後藤田元官房長官、野中広務自民党幹事長等の売国奴的行動を厳しく糾弾した西尾幹二誌氏の論文 「汝ら、奸賊の徒なるや!」 (「諸君!」十二月号所載) にも野田氏のいかがはしい過去についての十分な情報が提供されている。

以上、近隣諸国条項について長い文章を書きましたが、「近隣諸国条項」、撤廃に反対する、
《朝日=築地カルトチョーニチ》、なるものがいかにタチの悪い憎日新聞であるかよくご理解いただけたと考えます。








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