狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

【公開処刑】安芸高田市・石丸市長が、中国新聞エビス支局長の誤爆発言を徹底的に詰める…!!

2023-09-04 17:19:50 | 政治

 

 

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【公開処刑】安芸高田市・石丸市長が、中国新聞エビス支局長の誤爆発言を徹底的に詰める…!!

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【いい加減にしろ】中国新聞・胡子支局長の問題言動に市長激怒!「退出して頂いて結構です」

2023-09-04 17:02:59 | 政治

 

 

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【いい加減にしろ】中国新聞・胡子支局長の問題言動に市長激怒!「退出して頂いて結構です」

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【慈悲深い…】石丸市長が中国新聞胡子記者の市民団体肩入れ報道姿勢を正すため、取材方法や報道方法まで教えて差し上げる。なんて優しい

2023-09-04 16:58:31 | 政治

 

 

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【慈悲深い…】石丸市長が中国新聞胡子記者の市民団体肩入れ報道姿勢を正すため、取材方法や報道方法まで教えて差し上げる。なんて優しい

 

石丸市長 VS 清志会「議会の機能不全だと思います」「これを権力の私物化って言うんじゃないんですか」「皆さん逃げの一手」(広島県安芸

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マスゴミがドヤ顔で挑発も瞬殺され無慈悲にトドメの一撃

2023-09-04 16:57:28 | 政治

 

 

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#1863 マスゴミがドヤ顔で挑発も瞬殺され無慈悲にトドメの一撃。無双・安芸高田市・石丸伸二市長。選挙が怖い議会の「お気持ちの表明」

【石丸市長】市が発表する情報より中国新聞の記事の方が・・・安芸高田市市議会で大論争【新聞社,オールドメディア,広島,※フィクション

 

【論破力】市長が議会やメディアと対立?意見がぶつかることは大事?広島・安芸高田市長&ひろゆきと議論|アベプラ

 

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上原正稔VS琉球新報、「削除された沖縄戦記”パンドラ”」竜頭蛇尾の最終回

2023-09-04 14:27:09 | 政治

 

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読者の皆様へ

■出版社の都合で約1月発売が遅れる見込みです。 9月21日ごろ

8月15日発売を目途に皆様に献金をお願いした『沖縄「集団自決」の大ウソ』の編集作業が現在進行中です。ただ販促物のチラシ作成など、さらに最低限の出版数400冊で調整中ですが、出来れば市場に出回る出版数も800冊~1000冊と一冊でも多い方が目立ちますし、本の体裁もより目立つ体裁にしたいと考えています。

そこで再度皆様の献金ご協力お願いいたします。

■出版費用の献金のご協力願い

最低限での出版には何とか漕ぎつけましたが、増刷等で皆様の献金ご協力を伏してお願い申し上げます。

献金額の多寡は問いませんが、一口3000円以上にして頂けると幸いです。

まことに勝手なお願いですが、宜しくお願いいたします。

狼魔人日記

江崎 孝

お振込先

  • 金融機関:ゆうちょ銀行
  • 名義:江崎 孝
  • 記号:17050
  • 番号:05557981

 

ゆうちょ銀行以外からお振り込む場合の振込先

  • 金融機関:ゆうちょ銀行
  • 金融機関コード:9900
  • 預金種目:普通預金
  • 名義:江崎 孝
  • 店名:708(読み ナナゼロハチ)
  • 店番:708
  • 口座番号:0555798

★すでに御献金賜った方には、出版本を贈呈したいと思いますので、下記メルアドに贈呈本の送り先、住所氏名をご一報いただければ幸いです。

管理人への連絡⇒ezaki0222@ybb.ne.jp

                 ★

■「削除された沖縄戦記”パンドラ”」竜頭蛇尾の最終回

■安里巡査の証言、「沖縄警察史」より

 「パンドラ訴訟」は、琉球新報夕刊に2007年5月から連載中の沖縄戦記「パンドラの箱を開ける時」が急きょ中断されたことに対して執筆者の上原正稔氏が琉球新報に対し損害賠償を求め提訴したもの。未掲載の部分は、米軍兵士の手記に基づき、慶良間諸島における集団自決の真相を解明するもので、両隊長の名誉回復に向けてのメッセージでもあった。


 沖縄戦史の捏造は援護法のカラクリにより生み出された悲劇であり、その一番の被害者が「軍命で住民を自決させた極悪人」という汚名を着せられた梅澤、赤松両隊長ということになる

 上原氏は2011年1月、提訴時の記者会見の席で、梅澤、赤松両隊長に沖縄県民を代表して謝罪。「存在しない軍命令」で援護金を受給した沖縄人の複雑な心境を代弁した。

 しかし、沖縄のメディアはまるで申し合わせたように提訴の事実を黙殺し続けている。沖縄県民ですら、この裁判のことを知る者はほとんどいなかった。

 「援護法のカラクリ」により多くの日本の将兵が援護金申請の際に利用された。中でも梅澤裕、赤松嘉次の両隊長は、「慶良間列島の住民に集団自決を命じた」と濡れ衣を着せられ、沖縄戦で沖縄住民を虐殺した「極悪人」として糾弾されている。両隊長の汚名返上こそが歪められた沖縄戦史を是正する第一歩ではなかろうか。
 上原氏は提訴に際し次のように述べている。
 

 <最終稿(181回目)で、赤松さんと梅澤さんは集団自決を命じておらず、それは援護法の適用外の住民が援護金を貰うために嘘の報告を出し、そのために赤松さんと梅澤さんをスケープゴートにしたのだ、という旨の原稿を出したら、新報はその最終稿をボツにするという前代未聞の暴挙に出た
 

パンドラ訴訟は7月29日、高裁判決が下される。(※パンドラ訴訟は上原氏の勝訴が確定した⇒【おまけ】参照)
(完)

 

写真 「パンドラ訴訟」の原告、上原正稔氏

                ★

愈々「貶められた旧日本兵」シリーズの最終回である。

これまで断片的に取り上げてきた上原正稔氏が琉球新報を提訴した「パンドラの箱訴訟」について総合的にまとめてみよう。

月刊誌「WILL」ttp://ueharashonen.web.fc2.com/pdf/04_koutoubenron_fuzoku14_kou.pdf

2011年2月24日(火)、「パンドラの箱掲載拒否訴訟」の第五回公判が那覇地裁で行われた。(最終的に、上原さんの勝訴が確定している)

この訴訟はドキュメンタリ作家上原正稔氏が、琉球新報の「言論封殺」を訴えるという前代未聞の裁判であるにも関わらず、これを知る県民はほとんどいない。

沖縄の2大紙、琉球新報と沖縄タイムスが、自分たちにとって「不都合な真実」は、決して報道することはないからである。

■上原氏怒りの記者会見■
2012年1月31日。県庁記者会見室でドキュメンタリー作家上原正稔氏が記者会見を行った。

 その日の午前中に、上原氏は琉球新報に対する損害賠償訴訟を那覇地裁に起こし、それを受けての会見であった。代理人の徳永信一弁護士が訴訟の概略を説明した後、マイクに向かった上原氏は、開口一番沖縄戦時に慶良間島で戦隊長を務めた赤松嘉次、梅沢裕両氏に対して「大変なご迷惑を掛けた。ごめんなさい。許してください。そして同時にありがとうと言いたい」と侘びの言葉を述べ、両隊長による「集団自決の命令がなかったことは火を見るより明らかだ」、「真実を伝えるのがマスコミの使命だ」と訴えた。
さらに、会場の記者団に向かい「琉球新報の記者は来ているか」と問いかけた。 若手の記者が「はい、来ています」と挙手で答えると、上原氏はその記者に向かって「君たち新聞記者は、都合の悪いことは報道しないが、この裁判で君の会社が訴えられたのだよ!」と一喝し、「これを明日の記事にしなかったら新聞社の恥だよ」と釘を刺した。気の毒にも、まだ若い新報の記者は、上原氏の気迫に押されたのか「ハイ」のひと言だけで返す言葉はなかった。上原氏は、2009年5月、『うらそえ文藝』(第14号)で、異論を封殺する琉球新報を激しく糾弾したが、琉球新報はこれに反論どころか、一切これを報道せず黙殺で通したことを琉球新報の記者に皮肉ったわけだ。

■『うらそえ文藝』での告発■
沖縄の文芸誌『うらそえ文藝』で上原氏は、県文化協会会長の星雅彦氏との対談で自分が琉球新報から受けたあからさまな言論封殺について詳しく話していた。 少し長くなるが上原氏が琉球新報を訴えた経緯を知る上で参考になるので、関連部分を抜粋引用する。

≪星: そうですね。現在でもある意味では(言論は)統制されているわけですからね。

 上原: もう完全に右も左も統制です。僕は琉球新報の前泊記者たちに「パンドラの箱…」の掲載をストップさせられた。怒鳴りつけてやった。「君らは表現の自由を知ってるか」ってね。しかし動じる様子もなかった。連載は二〇〇七年四月から四ケ月も中断した。

 星: 社の方針に反するということだろうね。それはまたその人たちも統制の枠の中にいるってことだが、意識してないかもしれない。

 上原: 彼らはまず沖縄の知識人、自分たちは文化人だと思い込んでいるんですよ。それで自分たちの発言や行動はすべて正しいと思っているわけです。

 星: 正しいかどうかは何十年か何百年か経たないと分からない。

 上原: いつも彼等は正しいと思ってる。だから、僕が本当のことを書こうとしたら、もう読みもしないうちからストップかけるわけです。これは新報の編集方針に反するからといってね。僕は二回にわたって四人組の記者から吊し上げられ、連載を申止させられた。一番腹が立ったのはM記者だったが、彼も新聞社をバックに空威張りしたのにすぎない。彼等も統制のオリの中にいるわけですよ。≫(2009年5月、『うらそえ文藝』(第14号)

 

原告上原氏の挑発が効いたのか、被告の琉球新報は記者会見の翌日2月1日の紙面で、ベタ記事ながら次のように報じた。

「連載掲載拒否」本紙を提訴
表現の自由を侵害されたなどとして、那覇市のドキュメソタリー作家、上原正稔さん(68)が1月31日、琉球新報社を相手に慰謝料など約1千万円の損害賠償を求める訴訟を那覇地裁に起こした。
2007年5月から琉球新報タ刊で連載された「パンドラの箱を開く時」をめぐり、琉球新報社から途中の原稿の掲載を拒否され、表現の自由侵害などで精神的苦痛を被ったと主張している。
琉球新報社は「連載を一方的に止めた事実はない。従って『表現の自由の侵害』には当たらないと認識している」としている。(琉球新報2011年2月1日)≫

徳永弁護士によると、裁判の要点はこうだ。 
上原氏が琉球新報に長期連載中の沖縄戦記「パンドラの箱を開く時」の、慶良間の集団自決問題の真相に触れる部分が、「社の方針に相違する」との理由で掲載日の直前になって突然中断に追い込まれ、大幅な原稿の改変を余儀なくされた。 

4カ月後に執筆を再開したが、最終章の原稿の掲載を拒否され、未完のまま終了した。徳永信一氏は「琉球新報が、原稿の受け取りを拒否し連載を打ち切ったのは、契約違反である。事実に基づく真相の探求を封じたことは個入の表現の場を一方的に奪ったものであり、公正で不偏不党な報道という社是に背反し編集権を逸脱する」と述べた。

裁判の名目は民事訴訟では良くある「損害賠償の請求」だが、裁判の根底に大きな争点が隠れていることは被告の琉球新報が一番承知しているはずだ。

その争点は日頃言論の自由を標榜する新聞社としては最も恥ずべき行為とされる「言論封殺」を琉球新報自らが行った事に対する訴訟ということだ

そして琉球新報による「言論封殺」の裏には、沖縄戦で長年論議されてきた「集団自決における軍命の有無」が最大の争点として潜んでいるであることを、原告、被告の両陣営が強く意識していることは言うまでもない。 

沖縄戦記を研究テーマにするドキュメンタリー作家上原氏と琉球新報の間に起きた裁判沙汰を振り返ってみる。 

両者の間に一体何があったのか。

■2007年、沖縄のメディアは集団発狂した■

ここで時間を5年前の2007年に巻き戻してみる。この訴訟の本質を見極めるためには、上原氏の原稿に何が書かれていたかという点と、もう一つ重要な点は、その原稿が掲載拒否された2007年5月の沖縄の社会的時代背景である

平成19年(2007年)3月、文科省が高校の歴史教科書の検定意見で、沖縄慶良間諸島でおきた集団自決に関し「軍の命令によるもの」という従来の記述を削除するよう求めた。

 地元2紙は連日、「集団自決」に関する特集を組み検定意見を撤回することを求めるキャンペーンを大々的に張った。

 そしてその年は、9月20日に行われた左翼勢力主催の「高校歴史教科書検定意見撤回を要請する県民大会(11万人集会)」へと狂気のように雪崩れ込んで行った年である。

各市民団体、労働団体が抗議声明が連日の紙面を飾る騒然とした状況の中、筆者はドキュメンタリー作家の上原正捻氏が琉球新報の夕刊に連載していた沖縄戦記「パンドラの箱を開ける時」を深い興味を持って愛読していた。

 
というのは実証的戦記を得意とする上原氏が当時話題沸騰であった集団自決の「軍命論争」に関し、どのように記述するかが関心の的だったからだ。

 当時筆者は、上原氏とは面識はなかったが、従来の沖縄戦の研究者のように、戦争の持つ影の部分のみを捉えて無理やりイデオロギー問題にすり替える手法をとらず、沖縄戦の真実の物語を追及している異色の沖縄戦研究者として関心を持っていた。

上原氏が始めた1フィート運動を取り上げた沖縄テレビ制作『むかし むかし この島で』は、第14回FNSドキャメンタリー大賞ノミネート作品となり、沖縄テレビのサイトでは、上原氏の沖縄戦の記録発掘に対する姿勢がどのようなものかを垣間見ることができた。

 これも上原氏の「パンドラの箱を開ける時」に興味を持った一因であった。   http://www.fujitv.co.jp/b hp/fnsaward/14th/05-330.html

当時私と同じように上原氏の「パンドラの箱を開ける時」の連載に注目している人物がいた。

当時、産経新聞那覇支局長をしていた小山氏のことだ。 私は氏小山氏のブログを愛読していおり、6月16日のブログに第2話「慶良間で何がおきたか」が20日の夕刊から始まり、慶良間の集団自決がテーマになることが書かれていた。

 そこには上原氏は、「圧力に屈することなく執筆する」と話していたと記されていた。 私が長年関心を持っていた集団自決の軍命論争の核心が愈々上原氏の筆により語られる、と期待に胸が膨らんだのを記憶している。 

■パンドラの箱は閉じられた■


待ちに待った5月20日、琉球新報夕刊の紙面を隅から隅まで探したが「パンドラの箱を開ける時」は、何処にも掲載されていなかった。

 通常、何らかの理由で連載記事が予定日に掲載されない場合、執筆者か掲載紙の方から、休載の理由について断りがあるもの。

ところが、この予期せぬ休載については、上原氏はおろか琉球新報側からも一切何の説明もなかった。

突然の休載に愛読者として一抹の不安が胸をよぎった。言論封殺ではないかという不安だ。

 漫画家の小林よしのり氏が、沖縄の新聞のことを「異論を許さぬ全体主義」だと皮肉っていたことが現実のものとなって目の前に現れた、と考えた。

 筆者は、琉球新報に電話を入れて掲載中止の理由を問い質した。

 だが、最初に対応した琉球新報の記者は、連載記事が掲載中止になっている事実さえ知らない様子だった。

 「自分の新聞のことも見ていないのか」と難詰されれ対応に出た記者は、連載特集がが掲載されていないことを確認した。

その後、電話は編集部に回されたが、その時「上原さん、原稿が間に合わなかったのかな」という記者の独り言が聞こえた。

 上原氏の記事の突然の中止は記者にも知らされずに急遽「言論封殺」が行われたものと直感した。

 その後電話に出た編集部の担当記者も動揺を隠せない様子で「調整中です」を連発するばかりで、納得できる応答は出来なかった。

 その時のやりとりを、当時から書いていた政治ブログ「狼魔人日記」に「沖縄のマスコミは大政翼賛会か」というタイトルで書き、読者の支持を受けた。

翌日のブログには「琉球新報は報道機関としてのプライドをかなぐり捨て、連載中の記事を『削除』するという禁じ手を使ったことになる。自分の意見と異なるという非常に分かりやすい理由で」と書き、「沖縄の言論空間は、いよいよ異様な様相を呈してきたようだ。サヨクの方々が常用する『戦前のような言論弾圧』がメディア主導で今正に沖縄で行われている。」と続けた。

この琉球新報による唐突ともいえる「休載」に対し、私のブログ「狼魔人日記」の読者の反響は、予想以上に大きなものだった。

「琉球新報に抗議します」というタイトルで「琉球新報の言論封殺が今日で4日目です」「・・・今日で7日目です」と定期的にエントリーして琉球新報への抗議の意を表した。

■画龍点睛を欠く連載の再開■


それから四カ月が経過した10月16日、「パンドラの箱を開ける時」が突然再開された。

10月19日付のブログで書いたことを引用する。

《10月16日。 二回目の「教科書検定意見撤回要請団」が上京し、沖縄中を巻き込んだ「集団自決」に関する大フィーバーも一段落が着いた。地元2紙の紙面にも一時のような「新証言者登場」といった刺激的な記事も殆ど見なくなった。その静寂の合間をつくように、その日(16日)の琉球新報夕刊に、4カ月の長期にわたって中止されていた「沖縄戦の記録」がソッと再開されたまるで一目をはばかるように。 何の予告もなく。(略)新報側の突然の連載中止であるにも関わらず、新聞社側からは連載中止の知らせも、4カ月後の突然の再開の知らせも読者に対しては一言の説明もなかった。今後、琉球新報は「説明責任」で他人を責めることは出来ない。 結局、4カ月前に電話で問い合わせた答えの通りの長い「調整中」を、筆者の上原さんの「長い夏休み」としてゴリ押ししたのだろう。げに恐ろしきは新聞社の「調整」。これを別の名で言うと「言論封殺」と呼ぶ。長い「調整」の結果、内容も「調整」されている模様。

事前の予告では次は「慶良間で何が起こったか」を明らかにするとしており、集団自決の真実を白日の下にさらすとのことだったが、再開した第2話のタイトルは「軍政府チームは何をしたか」と変更されているではないか。「集団自決」が起きた1945年3月下旬の慶良間を飛び越えて、4月以降の沖縄本島の米軍上陸、投降住民の管理の模様を記しており、「慶良間で何が起こったか」については触れていない。》(「狼魔人日記」 2007年10月19日)

■琉球新報の言論封殺■
不自然な連載中止と同じく不自然な連載再開だった。 

琉球新報が上原氏に対して言論封殺を行ったという疑念は確信に変わった。 

筆者が一読者として感じたことは琉球新報の読者の誰もが感じたことだと考えた。

琉球新報が言論封殺した上原氏の記事「慶良間で何が起きたか」には、一体、琉球新報を動揺させるどんな内容が書かれていたのか。

 地元を代表する新聞が、「集団自決」に関する連載記事を突然中止したことに対しては当然、いろんな憶測が飛び交った。

 「新聞を中心に展開されている教科書検定運動に水をかけることになる内容になるため」だ、とか編集担当者の態度に変化があり、今回の事態になった」とも言われた。

 偏向記事で知られる沖縄紙ではあるが、連載中止という非常手段に打ってでるのはよっぽどのことがあったに違いない。

 後にわかったことだが、琉球新報に封殺された原稿には、上原氏が慶良間島の実地検証で得た「軍命はなかった」という論考が赤裸々に綴られていた。

■月刊誌『WILL』が琉球新報の告発記事掲載■
上原氏の連載が中止された日の朝刊、文化面のトップに林博史関東学院大学教授の「沖縄戦」特集の第一回目が掲載されていた。

 林教授といえば日本軍は残虐非道だと糾弾するサヨク学者で、「集団自決訴訟」でも被告側の証拠を収集したことで知られている。私は当時の沖縄メディアの異様な有り様を同時進行でブログに書き続けた。

それが偶然雑誌社の目に留まり「沖縄紙の言論封殺」について原稿を依頼され、月刊誌『W ill』に「これが沖縄の言論封殺だ」というタイトルで掲載された。 

本文と重複する部分も有るが、有力月刊誌が沖縄メディアの異常性を告発したという意味で注目されるので関連部分を抜粋引用する。

≪・・・平成19年6月19日は、琉球新報の長期特集記事(火曜から土曜の夕刊に掲載)の第二話「パンドラの箱を開ける時 沖縄戦の記録」の掲載予定日であった。 第一話「みんないなくなった 伊江島戦」が前日で終了、19日からは第二話「慶良間で何が起きたか」が始まる予定であった。 筆者上原正稔氏は掲載日の前、知人に「集団自決」に関するもので、圧力に屈することなく執筆する」と語っていたという。
「集団自決」というテーマは地元二紙を中心に沖縄メディアが“民意”を煽っている最もホットなテーマのはずだった。 言うまでもなく慶良間とは「集団自決」に関する「軍命令の有無」が問題になっている座間味島と渡嘉敷島を含む、慶良間諸島のことを指す。 
だが、その特集記事は、読者に何の断りもなく、突然、中止になった。執筆者あるいは新聞社側の「お知らせ」や「弁明」等は一行も掲載されていなかった。≫(『WILL』2008年8月増刊号)

■竜頭蛇尾の最終回■
上原氏の「長い夏休み」が終わり休載中の記事が再開されたとき、私は琉球新報の言論封殺を直感的に感じながらも、執筆者の上原氏に対して一種の失望感を感じたことを記憶している。

 ひと言で言えば「上原正稔よ、お前もか!」という心境だった。

その年2007年は新聞に登場する識者と言われる人達の「集団自決」についての論評は一斉に横並びで、例外なく「軍命があった」の大合唱だった。すくなくとも私の知る限り、「軍命」を否定する識者の論文は見たことがなかった

 そんな風潮の中で「右も左も関係ない、反戦平和も関係ない」と「豪語」していた上原までもが、琉球新報の言論封殺に唯々諾々と従ったと考えたからだ。 

一読者であり上原氏とは面識のなかった私は、後に知ることになるが、上原さんと琉球新報との掲載拒否について繰り広げられた壮絶なバトルを知るよしもなかった。

 従って肝心な部分で何の断りもなく四ヶ月も休載しておきながら白々しく「長期休暇」としか言い訳の出来ない上原氏に、やはり「全体主義の島」では実証的戦記を得意とする上原氏ですら新聞の論調には迎合せざるを得ないのか、と落胆したのだ。
それでも、肝心の「慶良間で何が起きたか」を欠落したままでは画竜点睛を欠くと考え、最終回までには慶良間の記述に戻るだろうと失望しながらも淡い期待を抱きつつ、2008年の連載記事の最終回を迎えることになった。


「第13話 最終章そして人生は続く」と題する最終回は、「慶良間で何が起きたか」についての記述をフラッシュバックするどころか、本題とは外れる上原氏が始めた1フィート運動の経緯について紙面の大半を使っていた。


これでは「パンドラの箱を開ける時」というタイトルからしたら、まさに竜頭蛇尾の最終回であた。

 長期連載戦記「パンドラの箱が開くとき」は、皮肉にも箱のふたを閉じたまま最終回を迎えることになったのだ。

■読者を敵に回した琉球新報■
「慶良間で何が起きたか」の記述を欠落したまま終わるのでは、期待して最後まで読み続けた読者を裏切ったことになる。 読者は琉球新報によって「知る権利」を奪われたことになるのだ。


その後、上原氏が琉球新報の言論封殺に対し提訴することを知った一読者としての偽らざる心境は、こうだ。

「パンドラの箱掲載拒否訴訟」は、上原と琉球新報の間の損害賠償の訴訟ではなく、琉球新報が自己のイデオロギーのため読者の「知る権利」を封殺したことに対する上原氏の糾弾の訴訟と。


つまりこの訴訟は、実質的には琉球新報が全読者を敵に回した「言論封殺」訴訟ということが出来る。

【おまけ】※

つづく

安里巡査の証言、「沖縄警察史」より

2012-04-30 07:07:32 | ★パンドラの箱訴訟

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琉球新報が己のイデオロギーを守るため掲載拒否した上原正稔さんの連載沖縄戦記「パンドラの箱を開く時」。

その核心部分である「慶良間で何が起きたのか」が現在、南の島の小さな新聞「八重山日報」で連日好評掲載中である。

同時にこの幻の原稿は沖縄戦研究者の注目を浴びている。

琉球新報の面目はこれで丸潰れと書いた。

琉球新報の独善的な掲載拒否により知る権利を奪われた読者の怒りが今、燎原の火の如く県内に広がりつつある。

筆者の知人にも上原さんの原稿を八重山日報で読んで怒り心頭のあまり琉球新報の購読を止めた人が複数いる。

琉球新報の面目が潰れれば潰れるほど読者は離れていく。

石垣市の読者より上原さんの記事を読んだ感想をメールで頂いた。

≪重い内容ですが、「極限の事実」、しっかり受け止めて読みました。
それにしても琉球新報の読者の皆様にはお気の毒なことです。

琉球新報の罪は相当に重い、と思いますね。書き手の書物から事実を知り、
学ぶ、読者の喜びであり、知的財産です。これを奪う罪ですね。

石垣島より≫


■八重山日報 2012念4月29日

慶良間で何が起きたのか④ ―人間の尊厳を懸けた戦い― 上原 正稔

 現地調査で知った意外な事実
 一九九五年夏、僕は渡嘉敷の金城武徳さんに案内され、島の最北端「北山(ニシヤマ)」に向かった。だが、金城さんは、ここは北山ではなくウァーラヌフールモーで第一玉砕場と呼ばれていると説明した。僕は『鉄の暴風』で植え付けられた自分の思い込みに呆れたが、さらに驚いたことに、金城さんと大城良平さんは「赤松隊長は集団自決を命令していない。それどころか、村の人たちから感謝されている。」と言うのだ。そこで『鉄の暴風』で隊長の自決命令を伝えたとされている比嘉(旧姓安里)喜順さんに会って事件を聞くと「私は自決命令を伝えたことはない。赤松さんが自決命令を出したとする。『鉄の暴風』は嘘ばかりです。世間の誤解を解いて下さい。」と言う。知念朝睦さんに電話すると、「赤松さんは自決命令を出していない。私は副官として隊長の側にいて、隊長をよく知っている。尊敬している。嘘の報道をしている新聞や書物は読む気もしない。赤松さんが気の毒だ」と言う。これは全てを白紙に戻して調査せねばならない、と決意した。渡嘉敷村史、沖縄県史など様々の証言を徹底的に検証した結果、次のような住民の動きが浮上した。―三月二十七日、村の防衛召集兵は前夜から「敵が上陸して危険だから北山に移動せよ」と各地の避難壕を走り回った。渡嘉敷村落の西側の避難場所北山には古波蔵村長ら村の有力者をはじめ数百人が集まった。(前年の村の人口は一四四七人であることに注意。)そこで古波蔵村長、真喜屋前校長、徳平郵便局長ら村の有力者会議が開かれ、「玉砕のほかはない」と皆、賛成し玉砕が決められた。一方、赴任したばかりの安里巡査は村民をどのように避難誘導しようかと考え、軍と相談しようと思い、赤松隊長に会いに行った。安里巡査が赤松隊長に会うのはこれが最初だった。赤松隊長は「私達も今から陣地構築を始めるところだから、部隊の邪魔にならない場所に避難し、しばらく情勢を見ていてはどうか」と助言した。安里巡査は古波蔵村長ら村の有力者にそのように報告した。ところが防衛隊員の中には既に妻子を殺した者がいて、「このまま敵の手にかかるよりも潔(いさぎよ)く自分達の手で家族一緒に死んだ方がいい」言い出して、先に述べたように村の有力者たちは集まって玉砕を決行しようということになった。防衛隊員も住民も既に平常心を失っていた。早まるな、という安里巡査に耳を傾ける者はいなかった。防衛隊員らは「赤松隊長の命令で、村民は全員、陣地裏側の北山に集まれ。そこで玉砕する」とふれ回った。住民は皆、死ぬことに疑問はなかった。最北端のウァーラヌフールモーを埋め尽くした住民と防衛隊員は黙々と「その時」を待っていた。防衛隊員から手榴弾が手渡された。天皇陛下のために死ぬ、国のために死ぬのだ。砲弾を雨あられと降らしている恐ろしい鬼畜は今にもここにやってくるのだ。夕刻、古波蔵村長が立ち上がり、宮城遥拝の儀式を始めた。村長は北に向かって一礼し、「これから天皇陛下のため、御国のため、潔く死のう」と演説し、「天皇陛下万歳」と叫んだ。皆もそれに続いて両手を挙げて斉唱した。村長は手本を見せようと、手榴弾のピンを外したが爆発しない。石に叩きつけても爆発しない。見かねた真喜屋校長が「それでは私が模範を見せよう」と手榴弾のピンを抜くと爆発し、その身体が吹き飛んだ。狂乱した住民は我も我も手榴弾のピンを抜いた。だが、不発弾が多く、爆発しないのが多い。「本部から機関銃を借りて、皆を撃ち殺そう」と防衛隊員の誰かが言った。村長は「よし、そうしよう。みんなついてきなさい。」と先頭に立って、三百メートルほど南に構築中の部隊本部壕に向かった。住民はワァーと叫んで陣地になだれ込んだ。その時、アメリカ軍の砲弾が近くに落ち、住民はいよいよ大混乱に陥った。本部陣地では仰天した兵士らが「来るな、帰れ」と叫ぶ。「兵隊さん、殺して下さい、と懇願する少女もいる。赤松戦隊長は防衛隊に命じ、事態を収めた。住民らはスゴスゴと二手に分かれて退散した。だが、午後八時過ぎ、ウァーラヌフールモー(第一玉砕場)に戻った住民らは「神もおののく集団自殺」を続行し、陣地東の谷間(第二玉砕場)に向かった金城武徳さんらは生き残った。そこでは、〝玉砕〟は終わっていたからだ。陣中日誌は記す。「三月二十八日午後八時過ぎから小雨の中敵弾激しく住民の叫び声阿修羅の如く陣地後方において自決し始めたる模様。(中略)三月二十九日、首を縛った者、手榴弾で一団となって爆死したる者、棒で頭を打ち合った者、刃物で首を切断したる者、戦いとは言え、言葉に表し尽くしえない情景であった。」


 一九九五年取材した元防衛隊員の大城良平さんは語った。「赤松隊長は、村の指導者が住民を殺すので、機関銃を貸してくれ、と頼んできたが断った、と話してくれた。赤松隊長は少ない食料の半分を住民に分けてくれたのです。立派な方です。村の人で赤松さんのことを悪く言う者はいないでしょう。」


 同じく比嘉喜順さんは語った。「赤松さんは人間の鑑(かがみ)です。渡嘉敷の住民のために泥をかぶり、一切、弁明することなく、この世を去ったのです。家族のためにも本当のことを世間に知らせて下さい。」


 僕はこの時点で「赤松さんは集団自決を命令していない」と確信した。だが、大きな謎が残った。なぜ、渡嘉敷の人たちは公(おおやけ)に『鉄の暴風』を非難し、赤松さんの汚名を雪(すす)ごうとしないのだろうか。その答えは突然やってきた。  (つづく)

              ☆

 

上原さんの文中に登場する集団自決の証言者で、琉球新報の方針と異なる証言をする人は、例え県内に在住している人でも、沖縄メディアは決して取材することは無かった。

最近物故されたが、1945年3月当時渡嘉敷島の巡査をしていた比嘉喜順さんや赤松隊長と終始行動をともにしていた知念朝睦副官らがそうだ。

「集団自決」の生き残りは老人と子供が多かったため既に物故した人が多かったり、当時幼かったため後の証言が他人の影響を受けて信憑性にかけ、それが真相解明の大きな妨げになっていた。

更に問題を複雑にしているのは、「集団自決」の関係者が血縁・地縁で何らかの繋がりがありそれが証言者の口を重くしているという点である。

それに援護法による年金支給の問題が絡むと今でも黙して語らないお年寄りが多数いると聞く。

その点、知念さんや比嘉(安里巡査ー戦後比嘉家に養子で改姓)さんは当時成年であり信憑性のある証言者としての条件を全て具備していた。

安里巡査は本島から赴任したばかりで渡嘉敷島の血縁社会にとっては「よそ者」であり、島の血縁・地縁社会とはつながりの無い新任の警察官だった。したがって「援護金」のために嘘の証言をする必要の無い証言者である。

また知念副官も他所から赴任した島の血縁社会には無縁な軍人であった。

当時安里巡査は29歳で知念副官は25歳。 二人とも渡嘉敷の血縁社会には無縁であり、親族に「集団自決」の被害者のいない証言者であり、「援護法」に絡む嘘の証言の必要の無いよそ者であった。

年齢的にも、村の指導的立場の副官、警察官という立場からいっても、生存者の中で最も信頼のできる証言者のはずだった。

これだけの証言者としての条件を具備していながら、又戦後沖縄に在住しているのにもかかわらず、不思議なことに地元マスコミで安里さんに取材したものは1人もいないという。

その理由は?

安里(比嘉)さんと知念さんが渡嘉敷島で起きた「集団自決」の「(沖縄2紙にとって)不都合な真実」を知っていたからである。

以下は安里巡査の証言、言論封殺訴訟を編集し、引用した。

安里喜順氏は渡嘉敷島の「集団自決」当時、島に駐在した警察官だが、「鉄の暴風」の著者は何故か安里氏には取材をしていない。

安里氏は戦後比嘉家の養子となり比嘉喜順と改姓したことは前に延べた。

曽野綾子氏の『集団自決の真相』には登場する安里氏の証言を改めて読むと、『集団自決の真相』やその他の文献で断片的に得た知識が一つの線となって繋がってくる。

下記に『集団自決の真相』に登場する安里喜順氏の関連部分を抜書きしておく。

渡嘉敷島「集団自決」の真相を解く鍵は安里喜順氏の証言の中にある。

曽野さんが、当時の渡嘉敷村村長だった古波蔵惟好氏に取材した時の様子を次のように記している。(『集団自決の真相』より抜粋)

「安里(巡査)さんは」と古波蔵氏は言う。

「あの人は家族もいないものですからね、軍につけば飯が食える。まあ、警察官だから当然国家に尽したい気持もあったでしょうけど。軍と民との連絡は、すべて安里さんですよ」

「安里さんを通す以外の形で、軍が直接命令するということほないんですか」

「ありません」

「じゃ、全部安里さんがなさるんですね」

「そうです」

「じゃ、安里さんから、どこへ来るんですか」

「私へ来るんです」

「安里さんはずっと陣地内にいらしたんですか」

「はい、ずっとです」

「じゃ、安里さんが一番よくご存じなんですか」

「はい。ですから、あの人は口を閉して何も言わないですね。戦後、糸満で一度会いましたけどね」

古波蔵村長が軍から直接命令を受けることはない、と言い、あらゆる命令は安里氏を通じて受け取ることになっていた、と言明する以上、私は当然、元駐在巡査の安里喜順氏を訪ねねばならなかった。赤松隊から、問題の自決命令が出されたかどうかを、最もはっきりと知っているのは安里喜順氏だということになるからである。

 

曽野氏は、『鉄の暴風』(昭和25年初版)の著者が安里氏に一度の取材もなく記事を書いた様子を次のように書いている。

おもしろいことに、赤松大尉の副官であった知念朝睦氏の場合と同じように、安塁喜順氏に対しても、地元のジャーナリズムは、昭和四十五年三月以前にほ訪ねていないことがわかったのである。問題の鍵を握る安里氏を最初に訪ねて、赤松隊が命令を出したか出さないかについて初歩的なことを訊き質したのは、例の週刊朝日の中西記者が最初であった、と安里氏は言明したのである。

一方、地元マスコミだけでなく、本土新聞でも取り上げる証言者に安里氏の名前は出てこない。

小さな島の唯1人の警察官で、不幸にも「集団自決」に遭遇した最重要証人である安里氏の名を報じるマスコミは少ない。

だが、安里氏の証言は地元マスコミでは無視されている照屋昇雄さんや金城武徳さんの証言とはほぼ完全に一致している。

地元マスコミが避ける証言者の言葉に真実がある

 

琉球新報が卑劣にも上原さんに断りも無く削除した一節には、渡嘉敷島集団自決の最重要証人である安里(比嘉)巡査の名前が記されていた。

 

安里巡査の証言を「沖縄警察史」という公的刊行物より2回にわたって紹介する。

安里(比嘉)喜順氏の証言-1

沖縄県警察史 平成5年3月28日 (1993.3.28)発行
第2巻第3章 警察職員の沖縄戦体験記より抜粋 P768

比嘉 喜順(旧姓・安里、当時 那覇署渡嘉敷駐在所)

當間駐在所
 昭和16年4月に沖縄県巡査を拝命して、第77期生として巡査教習所に入った。同期生には豊崎孟善、田場進、上地永好、現県会議員の砂川武雄等がおり、昭和16年8月30日に卒業して那覇署に配置になった。
 那覇署で最初に勤務したのが東町交番であった。次は今のバスターミナルの近くにあった旭町交番、そして昭和17年に小禄村の當間巡査駐在所に配置になった。當間巡査駐在所には昭和20年1月15日まで勤務した。
 昭和19年の10・10空襲のときは當間巡査駐在所勤務で、その日の朝は本署に出勤していた。その時、「飛行機の練習にしてはどうも変だな」と思っていたら、やはり空襲だったので、自転車で急いで駐在所に戻った。
 10・10空襲で那覇は全部焼かれた。駐在所の近くには飛行場があって空襲されることは間違いないと思ったので家内と子供たちは中城に疎開させていた。
 那覇飛行場を建設するため山根部隊や建設隊などが来ていたが、私が駐在所に赴任した頃には飛行場建設は終わり防空壕堀などをしていた。
 その頃の駐在所勤務は戸口調査とか本署からの下命事項の調査報告や思想調査、警防団の訓練、そして定期招集で本署へ行くこと等であった。10・10空襲があってからは、一般住民の方達が夜警に出ていた。

渡嘉敷駐在所
 昭和20年1月15日付けで渡嘉敷巡査駐在所へ配置換えの辞令が出た。
 その時配置換えの辞令を受け取ったか、それとも電話で命令を受けたのかよく覚えていない。
 慶良間列島には、座間味村と渡嘉敷村があり、私が赴任した所は渡嘉敷村の字渡嘉敷であった。渡嘉敷には阿波連、それから前島の小さい離島もあり国民学校もあった。渡嘉敷村には駐在所は一カ所だけであった。
 15日に配置換えの命令を受けたが、渡嘉敷に赴任したのは21日頃であった。その頃は戦闘状態であり、それに渡嘉敷島は秘密地帯になっており、歩兵部隊か、特攻部隊が駐屯しており渡嘉敷島に行くことはできるが島からは簡単に出られない状況であった。島へはポンポン船で行くが、これも毎日は出ない。それに準備等もあったので、赴任するまで少し時間がかかった。
 駐在所は警察の建物ではなくて民家を借りていたので、単身赴任した。
 その頃は本島間の電話は架設されてないので、本島と渡嘉敷島の間を往来していたポンポン船で、書類を送ったり本署からの書類を受け取ったりしていた。戦争状態になってからはポンポン船も運行できなくなったので、本署との通信連絡はほとんど途絶えた。その後は自分一人で色々考えて判断して、警察業務を遂行した。
渡嘉敷島は小さい離島なので、戦争になったらまず心配されるのは食料であった。そこで食糧増産をすることになり、私も田植えの手伝いをした。

御真影奉還
 渡嘉敷島に赴任して間もない2月頃と思うが、国民学校の御真影を本島に奉還して行ったことがあった。
 これは県庁から命令が出たと思うが、「御真影を本島の一カ所に奉還しなさい」と言う事があったので、渡嘉敷国民学校の校長と、高等科の先生2人と私の4人で御真影をお守りしてポンポン船で本島に渡った。
 本島ではこの頃はバスなどは運行していなかったので、歩いたり拾い車をしたりして国頭の羽地村源河にあった国民学校にお届けした。
 帰りに中城に立ち寄って、家族にあった。その時次男坊が私にまとわり付いて「一緒に付いて行く」と言って泣いていたが、戦争が終わって帰ってみると、その子だけが戦争で亡くなっていた。今考えると何かこの世の別れを知っていたのかと思ったりする。その後、那覇署で任務終了したことを上司に報告した。
渡嘉敷島へ渡るため那覇港からポンポン船に乗って出航したところを、米軍の飛行機の爆撃を受けた。これで一巻の終わりかと思ったが、爆撃をかわし、渡嘉敷港に無事たどり着くことができた。

鈴木部隊
 渡嘉敷島に赴任したとき島には、鈴木部隊と言って歩兵の戦闘部隊が配置されていた。その頃はいろいろ軍を相手にしなければならない仕事も多かった。
 私は、前任地の當間駐在で飛行場の兵隊とはよく会っていたので、赴任してすぐ鈴木少佐のところに赴任あいさつに行った。
 鈴木少佐は私の前任地のこともすでに知っておられて、物資の少ない時であったが魚の缶詰などを出して歓迎してくれた。鈴木部隊の隊長は民家を借り、兵隊は国民学校にいた。陣地などは良く分からなかったが、歩哨に立つ所があったぐらいのもので、大砲などは持っていなかったと思う。
 鈴木部隊とはよくお付き合いしていたが、本島の兵力が足りないとのことで、鈴木部隊は二月頃、本島へ転進していった。島尻あたりの警備に就いたと思う。

赤松部隊
 渡嘉敷島には鈴木部隊の外に、赤松大尉の部隊が配置されていた。その部隊は秘密部隊と言う事であったので、赴任した当初は赤松大尉には会っていない。
 私が赴任した時には、鈴木隊長の部隊と赤松隊長の部隊の2つの部隊があった。鈴木部隊が転進してからは赤松部隊だけになった。
 赤松部隊は水上突撃隊で、人力で押し出すことができる小型船に爆弾を積んで、敵艦に体当たりする秘密部隊であったので陣地などは見ていないが、海岸の岸壁を掘ってそこに舟を隠していたようだ。
 同部隊には、首里出身の知念少尉がおられた。私と一緒に下宿していた宇久先生も首里出身で知念少尉とは知り合いであったので、知念少尉は時々下宿に訪ねてきていた。米軍が渡嘉敷島に上陸してからは、私は赤松部隊とは頻繁に行き来していたが、それ以前は赤松隊長との面識はなかった。

塩屋警察署へ赴任できず
 昭和20年、大宜味村に塩屋警察署が新しくできて、私はそこに転勤することになっていたが、とうとう赴任することができなかった。
 2月12日の日付で辞令は出ていたが、私が渡嘉敷島で受け取ったのは40日も経過した3月22日であった。
 空襲などいろいろな事情があって相当期間が過ぎてから私に届いた。それを受け取って初めて自分が転勤になっていたことを知った。
 辞令を受け取ったので翌日にでも本島に渡ろうと思っていたが、その翌日の23日から渡嘉敷島は艦砲と空襲が激しくなり、沖縄本島に渡ることができず、そのまま渡嘉敷島にのこり戦争に巻き込まれ、島と運命を共にした。
 艦砲が始まったので私は、島の高い所に登って島尻の方を見た。渡嘉敷島はそれまで相当な被害にあっていたが、いくらアメリカと連合軍に物量があると言ってもただ言葉だけの天文学的数字を言っているものとばかり思っていた。ポンポン艦砲弾が撃ち込まれる中を自分は警察官だから隠れるわけにはいかないので身を伏せながら方々の状況を見てびっくりした。
 沖縄本島は島尻から北谷あたりまで見渡す限り敵艦船が取り囲んでいたので、これはちょっとやそっとの物量ではないと思った。

(つづく)

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沖タイ、新報良く聞け!【石丸市長vs中国新聞】生意気な記者を徹底的に詰める!

2023-09-04 07:57:07 | 政治

 

 

 

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【石丸市長vs中国新聞】生意気な記者を徹底的に詰める!

 

ここで石丸市長に詰め寄る生意気な記者の論旨を見ると、沖縄の沖縄タイムス、琉球新報を彷彿とさせる。

沖縄にも石丸市長のように毅然として偏向マスコミを批判をする首長が出てきて欲しい。

 

【おまけ】

【石丸市長vs中国新聞】ヤバすぎる記者を徹底的に詰める【総集編】

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「沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会」解散記者会見1/2

2023-09-04 05:13:46 | 政治

 

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読者の皆様へ

■出版社の都合で約1月発売が遅れる見込みです。 9月21日ごろ

8月15日発売を目途に皆様に献金をお願いした『沖縄「集団自決」の大ウソ』の編集作業が現在進行中です。ただ販促物のチラシ作成など、さらに最低限の出版数400冊で調整中ですが、出来れば市場に出回る出版数も800冊~1000冊と一冊でも多い方が目立ちますし、本の体裁もより目立つ体裁にしたいと考えています。

そこで再度皆様の献金ご協力お願いいたします。

■出版費用の献金のご協力願い

最低限での出版には何とか漕ぎつけましたが、増刷等で皆様の献金ご協力を伏してお願い申し上げます。

献金額の多寡は問いませんが、一口3000円以上にして頂けると幸いです。

まことに勝手なお願いですが、宜しくお願いいたします。

狼魔人日記

江崎 孝

お振込先

  • 金融機関:ゆうちょ銀行
  • 名義:江崎 孝
  • 記号:17050
  • 番号:05557981

 

ゆうちょ銀行以外からお振り込む場合の振込先

  • 金融機関:ゆうちょ銀行
  • 金融機関コード:9900
  • 預金種目:普通預金
  • 名義:江崎 孝
  • 店名:708(読み ナナゼロハチ)
  • 店番:708
  • 口座番号:0555798

★すでに御献金賜った方には、出版本を贈呈したいと思いますので、下記メルアドに贈呈本の送り先、住所氏名をご一報いただければ幸いです。

管理人への連絡⇒ezaki0222@ybb.ne.jp

                 ★

百田新党は国政政党になれるか?←その可能性は十分ある。しかし…

 

御礼! 百田新党(仮)公式X開設から半日で5万超フォロー、そして選挙管理委員会で…

関東大震災、朝鮮人虐殺!御礼! 百田新党(仮)公式X開設

 

「沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会」解散記者会見1/2

 

 

捻じ曲げられた「1フィート運動」、白旗の少女 琉子

2012-12-29 07:38:25 | 県知事選

 

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本日の沖縄タイムスの一面を見て仰天した。

トップに躍る酔っ払い米兵の大見出しのことではない。

左トップの次の記事を見たからだ

『1フィート』理念継承へ 

大田元知事が新研究所設立 

沖縄戦フィルム常時上映

 <住民を巻き込んだ凄惨な沖縄戦の実相を長年伝え、来春解散する『沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会』の理念を引き継ごうと、会の顧問で元県知事の大田昌秀さん(87)が年明けに新たなNPO法人『沖縄国際平和研究所』を設立し、自身が収集した沖縄戦フィルムの常時上映を始める。鉄血勤皇隊として地上戦を生き延びた大田さんは『改憲や自衛隊の国防軍化が危惧される今、新しい伝承運動が必要』と意気込む。・・・・「1フィート運動の会」の結成に深く関わった大田さんは「鉄血勤皇の学生たちの死を無駄にしないためにも、伝承の灯を守りたい。厳しい世相の中、沖縄全島の平和実現を、目指す研究所として歩みたい」と話している。>(沖縄タイムス 12月29日)

反日サヨクの巣窟「1フィート運動」が、昨日の醜悪な記者会見で幕を下ろすと思ったら、なんと大嘘つきの大田昌秀元県知事が「理念継承」だって。(爆)

大田氏は自著などでは、「1フィート運動は自分が創立した」などと大嘘をついているが、昨日の「解散記者会見」で、上原正稔さんが創立したと証言されては、自分が創立者などの大嘘もつけず、「1フィート運動の会の結成に深く関わった」などと曖昧な表現で逃げるしかなかったのだろう。

大田氏の「大田平和研究所」なるものは、何時行っても訪れる人影は見えず、開店休業状態。 そのうち此処も同じく店仕舞かと思っていたら1フィーと運動の解散に「渡りに船」と飛びつき、自分の金儲けのネタにする魂胆らしい。

それにしても上原正稔さんにあれほど激しく面罵されてながら、そのことはおくびにも出さず神妙な顔で質問に答える同会の幹部の面々は恥を知らないのだろう。

また彼らを必死でかばう沖縄マスコミも恥知らずの極致である。


解散を表明し、次世代の運動の広がりに期待を寄せるNPO法人沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会の福地曠昭代表(左から2人目)ら=27日、県庁記者クラブ

 来年3月の活動終了を表明しているNPO法人沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会(福地曠昭(ひろあき)代表)は27日、県庁記者クラブで会見し、3月15日に那覇市の八汐荘で開く解散総会で活動に幕を下ろすと正式に発表した。
 福地代表(81)は「これまでの運動の成果を生かし、沖縄戦の歴史的教訓を引き継ぐ新しい平和教育や県民運動が、若い世代を中心に展開されることを期待すべきだと考えた」と説明。平和の理念を継承する次世代が決意を持って運動の裾野を広げていけるよう望んだ。
 1フィート運動は戦争を知らない世代に沖縄戦の実相を伝えようと、1983年に始まった。県内外から寄せられた寄付で米国立公文書館などから沖縄戦の記録フィルムを買い取り、各地で上映会を開いてきた。解散の理由について、沖縄戦に関する公的機関が整備されたことなど、一定の役割を終えたとしている。
 これまでの寄付総額は8889万1870円、収集したフィルムは約11万フィート(約50時間)。会見で福地代表らは県民の運動への協力に感謝した。解散に伴い、フィルムは県公文書館へ、ガマの調査で見つかった遺品は県平和祈念資料館などに譲渡する方向で話を進めているという。
 石原絹子理事(75)は沖縄戦で戦争孤児になった。会見で「戦争で家族を失った悲しみや苦しみを嫌というほど体験した。若い人や子どもたちにそういうことがあってはいけない」と訴え「後輩たちにバトンタッチし、明るく平和な21世紀をみんなで築いていく気持ちだ」と力を込めた。

◆記録活用が課題 関係者
 沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会が活動を終了することについて、会の関係者や沖縄戦体験者などからは、残念がる声のほか、「この記録をどう生かしていくかが今後重要だ」と指摘する声があった。
 沖縄戦を研究する石原昌家沖縄国際大名誉教授は、同会の活動により「沖縄戦の体験を語らなかった人たちが、体験を語り始める機運が生まれた。(1フィート運動は)その後押しになった。沖縄戦の体験を継承する大きな役割を担ってきた」と意義を語る。「自衛隊を国防軍にしようという動きもある現在、若い人たちがこの成果を生かす活動をしてもらいたい」と望んだ。
 同会のフィルムと住民の証言を織り交ぜた映画「軍隊がいた島」「沖縄戦の証言」の監督を務めた謝名元慶福さんは「フィルムを取り寄せる役割は終わったということだが、米国の軍隊の視点で撮影した映像に沖縄の体験者の証言を突き合わせ、伝えていく作業は必要。日本が戦前に回帰するような方向の中、その仕事はより強く求められている」と語った。同会の上映会で体験を伝えたこともある安里要江さん(92)は「フィルムを集めることはとても貴重で良い活動だった。(活動終了は)もったいないと思う」と述べた。

               ☆

RBCテレビ
1フィート運動の会 来年3月 活動に幕

 ニュース映像

 

一昨日の1フィート運動の会の記者会見の主役は同会の創立者上原正稔さんで、反日サヨクの巣窟に成り果てた同会を、上原さんが20数分に渡り糾弾する衝撃場面の一部始終をマスコミは目撃していた。(記者会見の席だから当然だが)

にもかかわらず翌日のマスコミは一行もこの衝撃のシーンを報じることはなかった。

「不都合な真実」は一致団結で「報道しない自由」を守ったつもりだろうが、この事件が図らずも「異論を許さぬ全体主義・沖縄」を見事に象徴することになった。

2012年12月27日の「1フィート運動解散記者会見」。

これは沖縄のメディア史上最大の汚点として永遠に刻まれる。

まさに沖縄の恥である。

だが、反日サヨクと沖縄メディアが必死に隠蔽を試みても、いまや時代はネット全盛である。

天網恢恢疎にしてもらさず、天知る、地知る、ネット知る、

いや、真玉橋のオジー知る。

読者の真玉橋のオジーさんと安仁屋正昭さんのコメントです。

■「沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会」解散記者会見1/2
【必見動画】
http://www.youtube.com/watch?v=KT-sLTFl6fI
マスコミが決して報道することのないオキナワの事実
0:27あたりから話題の人物登場です

■昨夜はNHKと民放1社の1フィートの会の報道見ましたが
その裏でが上原正稔氏とのバトルがあったとは、誰も想像すら出来ないでしょう
メデイアの「報道しない自由」の恐ろしさを痛感しました

しかし、福地も石川も共に沖教組を牛耳ってきた人達であり、豊平良顕や牧港篤三などは「鉄の暴風」の出版と引き換えに米軍政府から優遇を受けた売国奴達です
この役員名簿は、沖縄をダメにした100人にそのまま入れるべきと思います

それにつけても、この真玉橋のオジーの映像は永久保存版ですね 

昨日のエントリーで触れた1フィート運動から生まれた「白旗の少女」について、詳細が知りたいと言うメールを多数頂いた。

 

上原正稔さんを追い出してすっかり反日サヨクの巣窟と化した「1フィート運動の会」はフィルムに映った映像を継ぎはぎし、日本軍への憎悪を煽るような編集映画を作製していく。

 

大田昌秀氏の著書「これが沖縄戦だ」に掲載された「白旗の少女」を題材にサヨク識者がイデオロギーまみれの絵本を出版し、子どもたちの洗脳を計ったが、さらにその絵本はアニメ(動画)となって、大人たちの日本兵への憎悪を増幅していく。

 

この動画に出てくる日本兵の顔が時代劇の悪代官以上に醜悪に描かれているのは1フィート運動の幹部たちの心情をそのまま反映していて興味深い。

 ちなみに大田氏は自著「2人の少女の物語」の中で「オカッパ頭で少女に変装した少年の嘘まみれの話を実しやかに書いている。

これについては当日記の「オカッパの少年」で詳しくレポートしてある。

【動画】琉子の白い旗

 

「沖縄記録フィルムーフィート運動の会」が入手したアメリカ軍の記録フィルムの中に、白旗をかかげ、手をふりながら投降する少女がありました。 その姿は印象的で感動をよび大きな話題となり、一九八五年「りゅう子の白い旗ー沖縄いくさものがたり」(文・新川明、版画・儀間比呂志)という素晴らしい絵本が出版されま­した。

映画はこの絵本を素材に、アメリカ軍の沖縄空襲(一九四四・十・十)から沖縄本島上陸(一九四五・四・一)、日本軍の潰滅(六・二〇)、そして投降(六・ 二五)にいたる少女の生きざまと、戦場で出会った鉄血勤皇隊の、少年兵との交流を通して、平和の尊さ、人間が生きることの大切さと喜びを描きます。

大阪・兵庫での上映情報はこちら ↓↓
株式会社大阪教映社
http://www.kyoeisha.net/

 

■白旗の少女

以下は読者のご要望に応えて過去記事白旗の少女を抜粋して再掲したのもです。

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「白旗の少女」については、過去に何度かエントリーした。

この物語は、「一フィート運動」で入手した米軍の記録フィルムに写っている白旗を振って歩く少女がモデルとなっており、
戦後、偏向した「平和教育」の教材として利用 (悪用)されてきた。

写真では、少女の後ろに、たまたま通りかかった日本兵が歩いており、この光景を、反戦運動家達は、わずか7歳の
少女を盾にして投降する 「卑怯な日本兵」というストーリーに仕立て上げた。

今回のドラマでも、ドラマだからといって、ご本人の証言を捏造したり原作とかけ離れたたストーリーには注視が
必要である。

 

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沖縄戦において米軍は圧倒的物量をほこり、その戦力の余裕から数多くの報道班を配備した。

彼らが撮影した多くのフィルムは冷徹に戦争の実像を記録をした。

だが、後世これらを見た沖縄の「識者」たちはそれを基に数多くの神話を捏造した。

イデオロギーまみれの「平和教育」のために。

「白旗の少女」の写真を知る者は多いが、「平和教育」のために作られた少女にまつわる神話の背景を知る者
は少ない。

<白旗の少女 とは、沖縄戦で白旗を掲げ投降した少女。大田昌秀編著『これが沖縄戦だ』に写真が初めて登場。
1986年公開の記録フィルム「沖縄戦・未来への証言」の中の笑顔が県民の印象に残った。
少女は当時7歳の比嘉富子。(琉球新報)>

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「白旗の少女」や長寿の秘密 高校英語教科書に“沖縄” カメラ 2008年3月26日

 文部科学省は25日、2009年度から主に高校高学年で使われる教科書の検定結果を公表した。高校英語教科書には、
沖縄戦で白旗を掲げて米軍に投降した「白旗の少女」と沖縄の長寿の秘密を探る「東洋の長寿の秘密」が登場する

「白旗の少女」は三友社出版で2、3年生対象、「東洋の長寿の秘密」は増進堂で3年対象のリーディングの教科書に
それぞれ05年から掲載されている。また音楽ではBEGINの「島人(しまんちゅ)ぬ宝」、寺島尚彦さんの「さとうきび畑」が
登場するなど、沖縄を題材としたものが紹介されている。
 「白旗の少女」は沖縄への修学旅行生が増加し、関心が高まる中、平和問題につながる教材として05年に発行した
教科書に初めて掲載され、現場教師らに好評だったことなどから今回も掲載を決めたという。
 内容は沖縄戦末期に一人戦場をさまよった少女が白旗を持って一人米軍に投降し、奇跡的に一命を取り留め、
その時撮られた写真が“白旗の少女”として写真集に掲載され、少女は写真を撮ったカメラマンと43年ぶりに再会を
果たした―という体験談をまとめた。(略)
  ◇

米軍によって撮影された記録フィルムの中で、戦争に翻弄される子どもたちの姿には心を痛める。

その中でも特に有名な白旗の少女の写真は、戦争の残酷さを伝えて圧倒的迫力で見る者の心を大きく揺さぶる。

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「白旗の少女」は、アメリカ軍が沖縄戦を撮影したフィルムを買い取る「一フィート運動」の成果として、
1984年に紹介されたフィルムに写っていた。

手製の白旗を掲げ投降する少女の姿は、男服を作り変えたと思われるボロボロのもんぺに裸足のみすぼらしい姿で、
健気にも白旗を右手に、左手でカメラのレンズから顔を隠しているように見え、見る者の心を打った。
(映画版を見るとカメラに手を振っている様子)

 

後の調査によると、少女を写したカメラマンは二人いて、一人が記録映画、もう一人がスチル写真を撮影したらしい。

以後「白旗の少女」の写真は多くの沖縄戦記出版物に転載され見るもの全てを圧倒的感動の渦に巻き込んでいく。

「白旗の少女」の発掘は、『写真記録「これが沖縄だ」』(1977年)の初版発行の7年後になるので、同書掲載の写真は1987年の改訂版で新たに掲載したのだろう。

「白旗の少女」が公開されたその翌年の6月には、左翼ジャーナリスト新川明氏(元沖縄タイムス社長)と画家・儀間比呂志氏がコンビを組んで『沖縄いくさものがたり りゅう子の白い旗』というタイトルの本が出版され、同書を原作にしたアニメ映画まで製作されている。

「白旗の少女」が教科書に載ったり、修学旅行生に紹介され、写真やフィルムを見た多くの人々がその場面に衝撃を受けるのは、白旗を手に投降する少女のけなげな姿にあったのではない。

「平和教育」のため、沖縄の「識者」の予断により歪曲され、捏造された醜悪な日本兵の姿に衝撃を受けたのである。

米軍が提供する沖縄戦の写真を歴史教育に使用するのは結構なことだが、それを扱う「識者」の色メガネを通して、歴史が捏造される例は多い。

例えば子供用の絵本として出版されたの『りゅう子の白い旗 沖縄いくさものがたり』(文・新川明、版画・儀間比呂志)には、少女(りゅう子)が白旗を掲げて銃剣を構える米兵に投降する場面(先頭のりゅう子の後ろには両手を上げた多くの日本兵が追随している版画絵)では、次のような文がある。

<ゆっくりと目をあけると

すきとおるひかりのむこうに

アメリカ兵のすがたがみえました。

戦車のかげで鉄砲をかまえたまま

白い歯をみせてわらっています。

 

ふりかえると、日本兵たちが

両手をあげてついてきました。

おじいさんや女の人も

よろよとつづいていました。

そのむこうに、ガマが黒い口をあけていました。>

 

同書の「あとがき」には次のようなことが書かれている。


  <さる太平洋戦争では中国をはじめたくさんの国の人たちが犠牲になりました。日本の国民もヒロシマやナガサキに代表される大きな被害をうけました。しかし、沖縄戦は、ほかにみられない軍隊の姿をさらけ出しました
 本来、軍隊は国土と国民を守ることをタテマエにしていますが、究極的には自国の国土の中でさえ、自国の国民に銃口を向けて食糧を奪い、無闇に住民を殺す存在でしかないことを明らかにしたのです。それが、戦争であることを沖縄戦は教えました。 >
 
<私たちはこの絵本作りで、沖縄戦世を追体験しました。
 はじめに、沖縄一フィート運動の会が入手した米軍の沖縄戦記録フィルムに、爆砕された山の石ころ道を、白旗をかかげて米軍に近づいてくる少女がありました。おかっぱ頭で、もんぺはずたずたに裂け、焦土を踏む素足が痛々しい。
 さらに映像は、ロングになり、少女の約十メートル後から、両手をあげて、ついてくる日本兵たちの醜い姿まで写していました。それは、わずか数秒のカットでしたが、見ている私たちにあたえた衝撃は小さくありませんでした。 >
 

日本軍への憎悪を掻き立てるような文章を書いた新川明氏は元沖縄タイムス社長で、「沖縄イニシアティブ方式」と呼ばれる卑劣な手段で沖縄紙の論壇からから保守論客を放逐した左翼ジャーナリストである。

「沖縄イニシアティブ方式」の詳細は、雑誌『WILL』2008年8月増刊号に寄稿してあるので参照されたい。

また、版画による絵を担当した儀間比呂志氏は沖縄ではよく知られた文化人で、このコンビで作られた絵本は大きなインパクトを与えた。

絵本が糾弾するのは、「白旗を持った少女を盾にその後ろからついて来て、米兵に命乞いする」といった日本兵の卑劣な姿であった。

で、実際はどうであったのか。

記録映画版の映像で動画を見ると、「虚脱したようにゾロゾロ歩く避難民の列の中に白旗を持った少女を見たカメラマンが、その姿に興味を持ってカメラの焦点を合わせ、気が付いた少女がカメラに手を振った」といった印象である。

それを示す他の角度の写真には少女の背景に反対方向に向かって歩く日本兵らしき人のリュックを背負った姿も映っており、「識者」たちが主張する「少女を盾にした卑劣な日本兵」という雰囲気は画面からは読み取れない。

 

 

 

 

1985年、沖縄の「識者」たちによる『沖縄いくさものがたり りゅう子の白い旗』の発刊で、「卑劣な日本兵」という神話が一人歩きを始めた。

それを見たご本人の比嘉富子さんが、1987年「白旗の少女は私です」と名乗り出て話題を呼んだ。

そして二年後の1989年、今度は比嘉さん自著による『白旗の少女』(講談社 文・比嘉富子 絵・依光隆)が刊行される。

そしてその本の後書きには、当初名乗り出ることも、自著を出版することも躊躇していた比嘉が、あえて自筆による出版に踏み切った動機を次のように書いている。

<・・・ところで、沖縄戦の記録映画が公開されて以来、あの映画のなかで、白旗をもって投降するわたしのうしろから歩いてくる兵隊さんたちが、わたしを盾にしてついてきたかのようにごかいされてているのは、大変残念なことです。
この兵隊さんたちは、わたしの歩いてきた道とは別の道を歩いてきて、偶然、一本道でわたしと合流した人たちです。 そして、私のほうが先に一本道には入ったため、あたかも白旗をもった私を弾よけにして、あとからついてきたかのように見えるのです。
したがって、わたしと、背後から歩いてくる兵隊さんとは、いっさい関係がなかったのです。 このことは、事実として書き加えておかなければなりません。(204、205頁)>

比嘉富子さん、よくぞ生きておられて、よくぞ真実を告白してくださいました。

不幸にして比嘉さんが生きてはおられず、また生きてはいても何かの都合で名乗り出ることなく沈黙を守っていたら、「少女を盾にした卑劣な日本兵」は歴史として永久に語られたであろう。

ここで登場する日本兵は名も顔も知られぬ無名兵士ゆえ、梅澤、赤松両隊長のように名前を特定されないが、日本軍の代表として「醜悪な日本兵」が定着していたであろう。

記録映画を見た観客は、真実をそのまま写すカメラの目を通して事実を見る。

だが、新川明氏や儀間比呂志氏のような「識者」の文や絵を通して伝えられるものは真実とは遠くかけ離れたものである。

その昔、佐藤栄作が辞任会見の折に、

「テレビはしゃべったことをそのまま映すが新聞はウソを書くから記者は出て行け」

と新聞記者を会場から追い出した話しを想い出す。

 

では、「白旗の少女」のご本人である比嘉富子さんが、名乗り出て真実を告白したため「白旗の少女」の神話は崩れ去ったのか。

否、相も変わらず「卑劣な日本兵」を断罪する『りゅう子の白い旗 沖縄いくさものがたり』は一行の訂正もされず発売されているし、子どもたちへの「平和教育」では「悪逆非道」のイデオロギーで日本軍を貶め続けている。

これはデタラメな記事を満載しながら、今でも発売し続ける『鉄の暴風』と同じ構図である。

 

【追記】 朝日の大嘘記事

沖縄1フィート運動に幕 米が保管の戦時映像収集

【谷津憲郎】米国が保管する沖縄戦の記録フィルムを買い取り、各地で上映してきた沖縄県の「1フィート運動の会」が30年の歴史に幕を下ろす。メンバーが高齢化する一方で、沖縄県公文書館などもフィルム収集に取り組んでおり、「民間活動としての役割は果たした」と判断した。集めたフィルムは11万フィート(約33キロ)にのぼるという。

 写真:白旗の少女=「1フィート映像でつづるドキュメント沖縄戦」から
白旗の少女=「1フィート映像でつづるドキュメント沖縄戦」から

 

3代目の会代表をつとめる福地曠昭(ひろあき)氏(81)らが27日、発表した。「解散を惜しむ声も耳に入っている。しかし若い世代がきっと思いを受け継いでくれる。新しい運動が巻き起こることを切望する」と語った。

写真:米軍に保護された子ども=「1フィート映像でつづるドキュメント沖縄戦」から
米軍に保護された子ども=「1フィート映像でつづるドキュメント沖縄戦」から

 

 会の正式名称は「子どもたちにフィルムを通して沖縄戦を伝える会」。1983年、ひめゆり学徒隊の引率教師だった故仲宗根政善氏らの呼びかけで生まれた。

写真:「若い人たちがきっと受け継いでくれる」と語る福地曠昭代表=27日午後3時、沖縄県庁
「若い人たちがきっと受け継いでくれる」と語る福地曠昭代表=27日午後3時、沖縄県庁

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