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ゼレンスキー大統領が日本の国会で言い忘れたこと。
日本の国技大相撲の大横綱「大鵬」がウクライナの血を受け継いでいるという事実を話して欲しかった。
「巨人・大鵬・卵焼き」の話をしたら、もっとウクライナへの親近感がもてたはず。
ちなみに大鵬は「白系ロシア」の血を引くと紹介されている。
昭和の大横綱「大鵬」に流れるウクライナの血 父親はハリコフ市出身の「コサック騎兵」だった
デイリー新潮2022年03月16日06時02分
大鵬
昭和の大横綱、第48代横綱の大鵬幸喜(本名・納谷幸喜)には、ウクライナの血が流れていた。
平成25(2013)年1月、72歳で鬼籍に入った大鵬。その父、ボリシコ・マリキャンは、現在、ロシアに侵攻されているウクライナ第2の都市、ハリコフ出身だということが明らかになっている。
昭和35(1960)年の初場所で20歳の新入幕ながら11連勝と大活躍し、「大鵬」の名を一気に知らしめると、「白系ロシア人(支配する共産主義を“赤”として、当時でいう反体制派を意味する)との混血ではないか」などと、にわかにその出自についてマスコミが騒ぎ出す。師匠である二所ノ関親方(元大関・佐賀ノ花勝巳)が一笑に付して記者陣を巻き、その場を収めたものの、大鵬自身は己の出生について半信半疑でいながら、曖昧にしたままに時を経てゆく。
なぜならば、大鵬の母である納谷キヨが、父親について一切口をつぐんでいたからだった。
明治34(1901)年、北海道・小樽に近い神恵内(かもえない)という小さな街で銭湯を営む両親のもとに生まれた大鵬の母・キヨは、洋裁の教師を経て樺太(現サハリン)の港町・敷香(しすか)(現ポロナイスク)の洋服店に住み込みで働いていた。
ある日、来店した2メートル近い長身のウクライナ人に見初められる。流暢な日本語を話し、6カ国語を操るほど語学に堪能な17歳年上の紳士――それが大鵬の父となるボリシコ・マリキャンだった。当時42歳、ロシア帝国時代から続く貴族の出身で、古来“最強の兵力”といわれた「コサック騎兵」のひとりでもあったという。
革命や動乱を繰り返すロシアから、共産主義を嫌って樺太に亡命したボリシコは、大正15(1926)年にキヨと結婚し、敷香郊外で牧場を経営する。夫婦は身を粉にして働き、その規模はだんだんと大きくなり、いつしかボリシコは樺太で屈指の名士となっていった。
この地で5人の子をもうけるが、大鵬の長兄と長姉は早逝。次兄、次姉、昭和15(1940)年生まれの幸喜――3人の子らは、その後の戦禍をも乗り切った。
敷香で暮らす幼少時には、それぞれにロシア名の愛称があったという。大鵬の愛称は“ワーニャ”だった。しかし大鵬には、その名で呼ばれた記憶も、3歳まで暮らしたはずの父との思い出もまったくないままだった。
昭和18(1943)年、第二次世界大戦終戦の2年前のこと。父は集団帰国命令に逆らえずに祖国に戻り、以来、妻子とは生き別れのままとなる。(ちなみにスパイ容疑を疑われての帰国命令との説も流布されたが、のちに容疑は晴れている)
初めて見た父の写真
大鵬が自身の出生と父の存在を認識したのは、母・キヨが亡くなった昭和48(1973)年のことだった。大鵬の妻である芳子が、一葉の小さな写真を差し出したことで知る。
「お父さん(大鵬)、これ……。おばあちゃん(キヨ)が『私が死んだら幸喜に見せて。これが幸喜のお父さんなのよ』って預かっていたの」
「なんだ、おふくろ、お前には話していたのか……。うん、兄貴に面影があるな」
初めて目にする、口ひげをたくわえたセピア色の父の写真を手に、そうぽつりとつぶやいた大鵬は、ひとり静かにいつまでも見入っていたという。
大鵬夫妻と新婚当初から他界するまで同居していたキヨは、節くれ立った手で新妻の芳子の手を取り、ことあるごとに口にしていた。
「芳子さん、よくこんな家に嫁に来てくれたねぇ。本当にありがとうねぇ」
しみじみと振り返り、芳子は言う。
「戦時中に国際結婚をした義母は、人に言えないような苦労もしてきたんだと思うんです。お兄さんやお姉さんはハーフだということでいじめられたり、周囲の目も厳しかったそうですから。そんな納谷家によく入ってくれた、ということでもあったんでしょうか」
生前の大鵬も、亡き母を偲びながら、こう語っていたものだった。
「だっておふくろは、日本が負けた国の人間と一緒になったんだよ。その子どもを産んで、もう自分の実家にも戻れなかったんだから……」
大鵬は、たった1枚しか遺されていない父の写真を大きく引き伸ばし、母の遺影と並べ、仏間に掲げた。父の消息について各方面から集まった情報から没年月日を想定し、位牌にその魂を込めてもいた。
位牌右側の戒名は父であるボリシコ・マリキャン――「大乗院勲功日鞠大居士」。左側は母・キヨの戒名である。
現在、大鵬の孫として、十両の「王鵬」、幕下の地位で関取昇進を狙う「夢道鵬」と「納谷」が、祖父の歩んだ道を邁進している。大鵬の三女で三人の息子を相撲界に送った納谷美絵子は言う。
「私たち三姉妹にとって父方の祖父にあたりますから、その子どもたちもみんな、ウクライナの血が流れていることになりますよね。先日、ふたりの姉たちとも話したんです。『もし祖父が祖国に帰ってから再婚していて、その子孫がいたとしたら――私たちにはウクライナに遠い親戚がいるかもしれないんだよね』と。今、そんな思いを馳せてもいるんです」
2000年、大統領となったウラジーミル・プーチンが来日した際、迎賓館で開催された晩餐会に大鵬が招待されたことがある。わずかな時間ながら、握手をして話す機会があった。
そのときの様子を、大鵬の著書『巨人、大鵬、卵焼き――私の履歴書』(日本経済新聞社刊)より抜粋する。
《「私にもロシアの血が入っていますよ」と話しかけると、柔道など格闘技好きの大統領は、私のこともよく知っているようで「それだから、日本で最高の力士になれたんですね」と言う。私は、「ええ、その父に誇りを持っています」》
戦士として誇り高く「最強の騎兵」と称されていた父を持つ、かつての大横綱。大鵬は今、泉下――否、天上で何を思うのだろうか。
佐藤祥子/ノンフィクションライター
デイリー新潮編集部
元横綱大鵬の銅像を訪れた納谷芳子さん。右はラドムスキー市長 (共同=地元紙提供)
昨年(2013年)、1月に72歳で死去し、今年8月に生まれ故郷のロシア極東サハリン州中部ポロナイスク(旧樺太・敷香)に銅像が設置された大相撲の元横綱大鵬(本名・納谷幸喜さん)の夫人の芳子さん(67)ら親族が8日、銅像を訪問した。
芳子さんは三女の美絵子さん(40)、ポロナイスク市のラドムスキー市長らと納谷さんが5歳まで暮らした住宅跡地に整備された公園内の銅像を訪れて献花した。芳子さんは日本からの共同通信の電話取材に「親方も喜んでいると思う。
銅像は日本の方角を向き、ここから見守ってくれていると感じた」と話した。