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東日本大震災が起きて、懸命な被災者支援、被災地復旧・復興に励む自衛隊の姿に、被災者はもちろ全国民がが感謝の念で涙しているが、自衛隊の県内配備には難癖を付けている沖縄2紙は、自衛隊の救援活動に対しても「売名行為」「政治目的」「火事場度労棒」などの罵声を浴びせるのだろうか。
来年から内容が一新される中学公民の教科書で、自衛隊については憲法違反とする意見をあえて強調するほか、国際貢献などの活動を冷淡に扱う記述が目立つ。 戦争放棄などの憲法9条を理由に「武器を持たないというのが日本国憲法の立場ではなかったのかという意見もある」(東京書籍)などと自衛隊に否定的な見方を紹介教科書もある。
「戦後民主主義」に毒され自衛隊をいつまでも日陰者の立場に置こうとする勢力と大方の国民世論との乖離を感じる教科書の記述である。
産経・4月2日
産経抄 2011.4.2 03:19
不幸中の幸い、などと軽く言うにはあまりに重大な災いである。だがこの大震災で国民が学んだことのひとつは自衛隊の存在の大きさだろう。発生以来、陸海空から10万7千人もの隊員が動員され、人命救助や被災者支援などにあたってきた。
▼救助した人の数は1万9千人あまりに上る。原発事故で真っ先に放水など危険な作業に取り組んだのも自衛隊員だった。その献身的な奮闘がなければ、被害は何十倍も大きくなっていた。隊員はもとより、彼らを育てた指揮官らの努力には頭を下げるしかない。
▼ところが、その必死の活動が続いている最中に公表された中学校教科書の検定結果には驚いた。いまだに自衛隊を「憲法違反」であるかのような記述の教科書があったからだ。「武器を持たないというのが日本国憲法の立場ではなかったのかという意見もある」という記述も見られた。
▼自衛隊を「日陰者」扱いするこうした教育は昭和30年代から40年代ごろ、日教組などの教師たちの「得意技」だった。その結果多くの子供たちが「自衛隊は違憲」と刷り込まれたまま社会に出ていった。かの教科書記述もその時代の教育の残滓(ざんし)のようなものだろうか。
▼いやそんな生やさしいものではない。大震災後、官房副長官として首相官邸に戻った仙谷由人氏など自衛隊を「暴力装置」と呼んだ。国や国民を守る尊い使命をそうとしか捉えられない戦後教育の欠陥は政権の中枢にまで及んでいるのである。
▼そんな菅直人政権が震災支援の大部分を自衛隊に頼らざるを得なかったのは、皮肉だ。だがそれより、自衛隊に救われた子供たちがそんな教科書を読んで、どんな思いにかられることだろう。胸が痛む気がする。
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msn産経・
【土・日曜日に書く】東京特派員・湯浅博 「歴史に消えた参謀」番外編
2011.4.2 03:31
■「吉田ドクトリン」は死んだ
東日本大震災は日本の「有事」である。救援と復興に、10万人規模の部隊派遣ができるのは自衛隊をおいてほかにない。
人命救助2万人、遺体収容4千体、物資輸送3千トン、炊き出し100万食、さらに医療、給水から入浴支援へと自衛隊の支援内容は拡大していく。
さらに、米軍が戦略的に動き出すと圧倒的な機動力を発揮する。自衛隊と連携する「トモダチ作戦」として艦船19隻、航空機140機、1万8千人を投入した。これは日米同盟の発動である。
大震災のドサクサに、ロシアの空軍機が日本領空に何度も接近し、中国の艦載ヘリも尖閣諸島に接近した。国家存亡の危機に、探りを入れる腹黒い国々である。ここでも、自衛隊が国民を守る最後の砦(とりで)であることを立証した。
被災地をみるにつけ「吉田ドクトリンは死んだ」と思う。
吉田ドクトリンとは、占領期の吉田茂首相が選択した軽武装・経済中心主義という戦後復興期を乗り切るための巧みな路線であった。だが、これをドクトリンに高めてしまったのは、彼の後継者たちであって吉田ではない。
毎週日曜日に連載した「歴史に消えた参謀」で見てきたように、吉田は首相辞任から10年を過ぎた昭和39年、この復興路線に決別した。吉田の軍事顧問だった辰巳栄一に再軍備と憲法改正に踏み切らなかったことを「深く反省している」と告白したのだ。
だが、吉田の意思とは別に「軽武装、経済優先」路線はすでに独り歩きをはじめていた。
32年発足の岸信介内閣は、憲法改正を目指したが、池田勇人や佐藤栄作ら主流派に「憲法は定着している」と反対されて日米安保の改定に絞らざるを得なかった。実は、吉田の遺詔を継いだのは、池田や佐藤ではなくて対極にあるとみられた岸であった。
35年に池田首相は憲法問題を棚上げして所得倍増計画を掲げた。吉田が辰巳に路線の誤りを告白した39年は、すでに佐藤栄作内閣が発足していた。吉田学校の優等生、佐藤は使い勝手のよい復興期の吉田路線を継承した。
この路線を「吉田ドクトリン」と名付けて最初に論文を書いたのは、おそらく元防衛大学校長の西原正氏であろう。52年に箱根で開かれた日韓知的交流会議に提出した英語論文で、吉田の軽武装・経済外交はその後継者に引き継がれた日本の戦略であると論じた。
西原論文が際だっているのは、そのドクトリンが有効性を失いつつあると論じたことだった。西原氏は別の論文でも、「日本が経済大国に成長した段階では、逆にその自己中心性が海外で不快を招くことになったといえまいか」と疑問を呈し、「1960年代半ばには限界にきていた」と断じた(『体系民主社会主義』第6巻)。
ところが、戦後の論壇に強力な擁護者が登場した。東京工業大学名誉教授の永井陽之助である。永井は59年に至って、「保守本流の外交路線の総称」として吉田ドクトリンを肯定した。
さらに、著書『現代と戦略』に1章を設けて「吉田ドクトリンは永遠なり」と昇華してしまった。日本が戦後歩んだ道を「正教」として賛美するのだから、防衛力の強化には反対である。永井はこれらの論文によって、自民党の池田、佐藤の保守本流に理論武装を提供した。
永井論文に対する強力な批判者が杏林大学名誉教授の田久保忠衛氏であった。月刊「正論」や「諸君!」で「歪曲(わいきょく)された『吉田ドクトリン』」と論争を挑んだ。田久保氏は辰巳へのインタビューを交え、池田、佐藤ら「保守本流を自任してきた弟子たちは師の志を実現しようともしない」と鋭く切り込んだのである。
日本の戦後体制は、防衛力を米国に依存しながら「吉田ドクトリン」という経済中心主義の路線で築かれた。日米同盟の分厚い保護膜は、その副産物として独立心を奪い、反戦平和主義者らには「憲法9条によって戦争を回避してきた」との幻想まで生み出した。
ちなみに、永井を恩師として仰ぐのが、「ゼミで現実主義を学んだ」と礼賛する菅直人首相である。自民党政治を否定した菅首相が、その亜流として継承しているのだから皮肉なものだ。この政権の前官房長官が、自衛隊に否定的な響きのある「暴力装置」と発言する始末だからやり切れない。
いま東日本の被災地では、自衛隊員が被災者に温かい炊き出しを提供し、隊員ら自身は冷えたままの缶詰でしのいでいる。菅政権の皆さまへ。すでに「吉田ドクトリンは死んだ」のだ。自衛隊の復旧活動を妨害しないよう祈る。(ゆあさ ひろし)
msn産経・
災害派遣の陸自隊員、初の死亡 岩手で捜索活動、体調不良
2011.4.1 23:28
1日午前11時半ごろ、東日本大震災で岩手県へ災害派遣中の陸上自衛隊第二特科連隊(北海道旭川市)の50代の男性陸曹長が盛岡市の病院で死亡した。今回の震災で災害派遣中の自衛隊員が死亡したのは初めて。
陸自によると、陸曹長は先月12日より北海道の旭川駐屯地から派遣されていたが、31日朝、「左半身が動かない」などと体調不良を衛生担当隊員に訴え、病院へ運ばれた。
陸曹長は15日から岩手県岩泉町などで津波被害などを受けて行方不明になった人たちの捜索や、がれきの撤去などに当たっていた。
陸自によると、出発前の健康診断では異常はなく、毎朝体調のチェックを行っていたという。30、31日は休養日だったとしている。
陸自は「休養は取っていた。倒れた原因を今後調べる」としている。
自衛隊の活動の動画です!
【地震】自衛隊と米軍が合同で不明者を大規模捜索(11/04/01)
http://www.youtube.com/watch?v=BzSk8VU88m0
東北地方太平洋沖地震 海上自衛隊活動状況
http://www.youtube.com/watch?v=ONpyKvLwNwQ
【陸上自衛隊】東北地方太平洋沖地震における災害派遣
http://www.youtube.com/watch?v=qpiaXXsuST8
地震から一週間 自衛隊の活動 Tohoku Japan Earthquake.Activity of Japan Military
http://www.youtube.com/watch?v=Cc7at1B7WA0&feature=related
東日本大震災 大槌町役場再建を支援する自衛隊 岩手県大槌町
http://www.youtube.com/watch?v=AfAwBFSpqIo
水没地域の孤立住民をヘリで救出=航空自衛隊救助活動
http://www.youtube.com/watch?v=AAzTe1VQ850
【地震】厳しい冷え込み・・・自衛隊が入浴施設を開放(11/03/26)
http://www.youtube.com/watch?v=pEOPduTtspg
【地震】孤立住民を自衛隊が決死の救出その瞬間(11/03/25)
http://www.youtube.com/watch?v=ehsUWccGCw8
中学生に自衛隊を侮蔑する教育をする教科書を廃棄せよ、
と考える方プチッとお願いします
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