「旅の坊主」の道中記:常葉大学社会環境学部・小村隆史の防災・危機管理ブログ

日本唯一の防災学部はなくなっても、DIGと防災・危機管理を伝える旅は今日も続いています。

本歌取り

2019-04-01 22:43:19 | 日常の一コマ
新しい元号が決まったことを旅先のドイツ・ニュルンベルグの朝に知る。

3月24日(日)未明の羽田空港に始まった今回の旅では、
ワルシャワ・クラクフ・オフィシエンチム(以上ポーランド)、ベルリン・ニュルンベルグ・ミュンヘン(以上ドイツ)と巡り、
かつて日本の同盟国であったドイツ第三帝国が行った蛮行の数々を記憶する場を訪ねてきた。

知識や情報のないところでは意識も生まれない訳で、
現代史に関する己の知識レベルがいかに低いかを痛感させられるものではあったが、
ガイドさんの話を聞き、説明資料を見聞きしているうちに、
「あのとき」何が起きたのか、
「それから」ドイツや周辺諸国がそれらとどのように向き合ってきたのか、
「これから」私たちは何をなすべきか、等々について、
少しは知識も増え、考えることも出来たと思っている。

で、今日のニュルンベルグでのまち歩きの折々に、新しい元号についても旅の仲間と話もした訳だが……。

新元号「令和」の出典は、『万葉集』の「梅花の歌32首」の序、
さらにこの「初春の令月、気淑しく風和らぐ」ですが、『文選』の句を踏まえていることが、
新日本古典文学大系『萬葉集(一)』https://www.iwanami.co.jp/book/b325128.html … の補注に指摘されています。
「「令月」は「仲春令月、時和し気清らかなり」(後漢・張衡「帰田賦・文選巻十五)」とある。」、とのこと。
(この部分、岩波文庫編集部によるツイートより引用)。

これって「本歌取り」ということ、だよね?とすれば……。

日本最古の歌集である万葉集から取った(中国の古典に出典を求めてきた今までとは違う!)と
言い張りたい人には言わせておけばよい。
深くモノを考えない人、知識や情報を大切にしない人にはそれで良い。

でも、先達の残したものに触発され、それに敬意を払えばこそ、人間社会は進んでいくもの。
新元号の出典も「本歌取り」、つまりは先達に敬意を表してのもの。
ということは……。

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「あなた(あなた方)に言っても理解できないだろうし、
真の姿はあなた(あなた方)の思惑とは正反対のものゆえ、
気付いたところで認めようとはしないだろうし、
認めることもできないだろう、とは思うのだが……。

あなた(あなた方)は、過去からの積み上げなしに
自分達が独力で達成したと誇らしげに謳いたいのかもしれない。
しかし、人間の社会的営みという現実の中には、
過去からの積み上げなしに出来上がったものなどありはしない。
先人の努力に思いを馳せることをせず、他者に敬意を払うこともせず、
ただひたすらに己の力を信じているとしたら、
一時的に支持を得ることは出来るかもしれないが、永続するものにはなり得ない。

「歴史を記憶しないものは、再び同じ味を味合わざるをえない。」
(アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所博物館に掲示されている詩人・哲学者、ジョージ・サンタヤナのメッセージ。)

あなた(あなた方)の目には映らないかもしれないが、
あなた(あなた方)の部下は、あなたが考えているよりも深く広くモノを考えているのです。
あなた(あなた方)は表層が良ければ満足するのでしょうが、
そして、多数派はそれを見てあなた(あなた方)をほめそやすでしょうが、
物事を平和的に進めていくには、多数性が前提となっている社会では、
もっと広く深い配慮が必要なのです。
この機会に、わずかでいいからそのことに気付いてくれれば、
そして、気づいてくれたなら、少しはまともな仕事をして下さい。」

こんな思いを込めた上で仕掛けた人がいたとしたなら、
日本という国にも、まだ可能性が残っているのかもしれない。

今回の旅、ポーランドとドイツにある、いわゆるダークツーリズム施設を見てきた訳だが、
「世界が再び強制収容所を作ることがあるとしても、それはドイツではない」と言い聞かせた
ダッハウ強制収容所のドイツ人ガイドを思い出す。

日本という国は、己が過去に何をやったのかに向かい合うこと自体を否定しようとすらしている。
そのことを確認した上で、「しなやかな少数派」を自認する身としてはどう動くべきか。

そんな思いを抱えつつ、ミュンヘンでの夜が更けて行っている。

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