「旅の坊主」の道中記:常葉大学社会環境学部・小村隆史の防災・危機管理ブログ

日本唯一の防災学部はなくなっても、DIGと防災・危機管理を伝える旅は今日も続いています。

防災学とは何だろうか

2014-12-25 23:08:49 | 地域防災
冬休みの徒然に、という訳でもないが、防災学とは何なのか、少しメモをしてみる。

本来であれば、15年くらい前に、一冊の本になっていてしかるべきもの。
まぁ、それの著者が誰なのかはさておくとして。
そんなに時間をかけずに、5つくらいの論点は出すことが出来た。

◎基本は、自然理解の上に社会のあり方と問うというもの、であろう。
自然の摂理にかなった暮らし方をしていれば、自然もさほど過酷ではあるまい。
それこそ、つい先日、ある方の書き込みにはっとさせられたのは、
「1000年に一度の波が来る範囲までも海と心得るならば」との一節。
山が崩れるのも自然の摂理。揺れやすい場所と揺れにくい場所が共存するのも自然の摂理。
力技で自然をねじ伏せるのではなく、まずは自然を理解し、それにあった生き方をする。
その謙虚さがなければ、防災を学んでいるとは言えまい。

◎大別すれば、予防、応急、復旧+復興の3段階。それぞれにサブフィールドあり。
自衛隊の災害派遣を考えることから防災の世界に入っていった「旅の坊主」であるが、
幸いなことに、比較的早い時期に(といっても三十代半ば過ぎのことだが)
「災害対応に防災の本質なし」ということは見抜くことが出来た。
災害対応(応急)はあくまで防災のサブフィールドの一つと考えなければ、
あるべき防災学の姿は見えてこないもの、なのだろう。

◎「この国のかたち」を問う
あるべき防災学は、どこか、あるべき政治学に通じるものがあるのではないか。
それも、政治現象を語るような政治学ではなく、時代遅れとみなされるだろうが、
あるべき社会の姿を語ろうという意味での「政治哲学の叙事詩的伝統」に近い。
「この国のかたち」には、どのようなものが相応しいのか。
コンクリートに囲まれた海岸線が相応しいのか、
ピカピカのゴーストタウンが相応しいのか(奥尻島の復興から学ぶべきものは多かろう)、
自然は時に荒れ狂うものとして、住家や都市はそれらからしかるべき距離を取る、
そのような「国のかたち」を語るようなものであってほしいと思うのだが。

◎租税による誘導、強制力ある土地利用規制、強制力ある建物利用規制
途上国で生活した者であれば誰でも感じることであろうが、
世の中には、誰も守らない制度など、幾らでもある。
現実を無視した理想的な制度作りは、時に何ももたらさない。
現実的な「まぁ、そうだよねぇ」というところを意識しつつ
(成文化された常識、としての法律の、まさにさじ加減の妙、なのだろうが)、
そのボトムラインは達成できるように、時には強制力の行使も厭わない、
その辺りが、求められているのだろうと思う。
(旅行サイトのチェック欄に、耐震性あるホテル・旅館というチェックボックスを作るのは、
いとも容易いことなのだ。業界には辛いことだが、社会的には正しい。)
公権力行使でないとしても、ビジネス上の安全・安心確保も、時に圧力となる。

◎現場で役に立ってナンボ。
国をあげての課題が2つ。首都直下地震と、駿河トラフ・南海トラフの巨大地震。
そこまでではないが、幾つかの都市直下型地震への対応策検討も重要。
「降ればどしゃぶり」傾向が強まる中での、土砂災害対策も急務だが、
まず取り組むべきは、避難情報等のソフト対策ではなく、立地へのこだわり、だろう。
これらを含めて、現場に役に立つコンセプトなりノウハウを提供してナンボ。

これら、そしてこれらに類する多くの論点を包含しつつ、
どのような体系化を図るのか。そして、既存の学問体系とどのような連接を維持するのか。

学問の体系化など、たかだか15年かそこらの歴史しかもたない学問分野には荷の重い話だが、
それでも、防災学、あるいは環境防災学は、21世紀の日本に相応しい学問。
これを形にせずには、何のためにこの道に進んだものやら、ということに、なるのだろう。


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