「旅の坊主」の道中記:常葉大学社会環境学部・小村隆史の防災・危機管理ブログ

日本唯一の防災学部はなくなっても、DIGと防災・危機管理を伝える旅は今日も続いています。

時事問題討論ゼミと6月23日「沖縄慰霊の日」

2015-06-23 22:58:02 | 小村ゼミ
今日6月23日は沖縄慰霊の日。特に今年は70年という節目の年。

毎週火曜日5限に、時事問題討論ゼミを行っているということもあり、
沖縄戦のみならず、広く太平洋戦争(大東亜戦争と呼ぶ人もいる)あるいは十五年戦争、
第二次世界大戦まで話を膨らませて議論しよう、と思っていた。

思っていたのだが……。

折しも、安保法制の歴史的見直しを、わずか1国会で成し遂げようという「暴挙」のため、
国会会期の大幅延長がなされたばかり。
若い世代には、多少なりとも、世の動きについて、我が事として受け止めていて欲しかったし、
その延長上で、国内で唯一、地上戦が戦われた沖縄戦について考えていて欲しかった、
またそのことを語り合いたかったのだが……。

残念ながら、遠く、はるかに、及ばなかった。文字通り、まったく議論にならなかった。
Fラン地方私大の学生とはそういうもの、と思わなくてはならないのだろうか。
(がんばっているからこそ、単位にもならない自主講座に出席しているのだろうから、
彼らを責めたくはないのだが……。)

端から勝ち目のない戦争になぜ突き進んで行ってしまったのか。
途中で、誰も「無理だ!」と言わなかったのか。
あるいは、合理的な判断をさせないようなメカニズムはどうして生まれてしまったのか。
我々は、そのような悪弊から、抜け出すことが出来たのだろうか。等々。

あの敗戦から70年という節目の年に、振り返ってみるべき、否、振り返ってみなくてはならない、
幾つもの課題があるはず。
特に、若い世代には、これから先の人生が長い分、しっかりとモノを考えてもらいたい、と思っている。
しかしながら、その思いを託すには、余りに基礎的素養に欠けていた。

・・・・・・。

議論の中で、2つの本を紹介した。それらをしっかりと読んでくれることを願う。

一冊目は、猪瀬直樹氏による『昭和16年夏の敗戦』。
最初にこの本を読んだのが何時のことだったのか、もう忘れてしまったが、
ブログ原稿を書くために調べてみたら、単行本の初版は1983年とのこと。
後年、男を下げてしまった猪瀬氏であるが、30代後半の作品であるこの本は素晴らしかった。
この時期、読み返さなくては、である。学生クンは付き合ってくれるだろうか。

『昭和16年夏の敗戦』は、仮寓の蔵書の中に紛れ込んでしまったと思われ、手元にはなかったのだが、
研究室にあってスッと出てきたのが、森本忠夫氏による『魔性の歴史:マクロ経済学からみた太平洋戦争』。

帯に曰く、
「生産力20倍の米国に対して戦いを挑んだ日本の指導者たちは、太平洋戦争をどう捉えていたのか。
泥沼化した中国大陸の戦場を尻目に、国家総力戦の経営原則をわきまえず自暴自棄の戦争を推進させた
昭和日本の思考様式を徹底的に究明……。」

「かつての戦争をめぐる敗因分析の最も重要なバイタル・ポイントは、
敗因の必然性を分析することであって、
もしかしたらという“タラ話”をめぐって蜃気楼を追いかけることではない」(はじめに)

「はじめに」の冒頭は、以下の言葉(引用)で始まっている。

「もし、貴様が生き残ったら、戦闘機が爆弾をかかえて体当たりしなければならなかった事実を、
きっと後世に伝えてくれ」
(陸軍特別攻撃隊「第二十二振武隊」 故馬場駿吉少尉)

教育者の端くれとして、また、かつて戦史資料に親しく触れ合うことの出来た身として、
たとえ少人数ではあっても、次の世代に、しっかりと、伝えるべきことは伝えなくては、と思った。

(もう一冊、紹介しておくべき著作があったとすれば、やはりそれは山本七平『空気の研究』か。)

こういうことを改めて考えるきっかけをくれた学生達には感謝すべきなのだろうが、
それでも、やはり、願わくば、これらの本を読んだ上で、共に語り合いたい、と思う。

それにしても……。
指導者には、羞恥心という言葉を理解しておいてもらいたい、と、心から思う。
厳かであってしかるべき戦没者追悼式で、時の首相が罵声を浴びせられたこと、
その意味と、その背後にあるものの意味とを、しっかり受け止めてもらいたいのだが……。


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