「旅の坊主」の道中記:常葉大学社会環境学部・小村隆史の防災・危機管理ブログ

日本唯一の防災学部はなくなっても、DIGと防災・危機管理を伝える旅は今日も続いています。

復興庁構想

2011-03-26 23:07:01 | 東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)
2011年3月26日(土)

復興庁構想が語られ始めた。

この「戦い」をどう進めていくのか。
「大きな絵」を誰がどう描くのか。
絵に描いた餅で終わらせないために、どのように汗をかくのか。
それらの「戦い」に、多少なりとも防災・危機管理を学んだ者として、
どのようにお手伝いするのか、できるのか、できずに終わるのか。

大学人たるもの、教育、研究、社会貢献の三本柱があってナンボ。
ともかく、その部分が問われている。
今は、ひたすら、これと思うアイディアを、
断片でよいから可能な限り書き出して世に問うこと。
それを心がけるのみ。

従来型の、激甚災害に指定して国庫からの負担を増額させて、
インフラの整備を図っていく、そのような復興戦略が、
今回の超巨大超広域災害において、通用するとは思えない。
残念ながら、それをやるには、日本社会は疲弊しすぎてしまった。
また、そのような復興戦略が持続可能とも思えない。

次の災害、次の次の災害を意識して、
生活基盤は高地に。産業基盤は集約して海岸線に。
それを基本線にしなくては、と思う。

一時帰国の際、Mさんがしみじみ言っていた。
「宮城県沖地震は意識していた。
しかし、明治三陸、昭和三陸とあったのだから、
平成三陸があり得るとなぜ意識していなかったのか。」

一言もない。
何度となく現場に行き、津波防災の話もしていたというのに……。
何とも甘いというか、ぬるいというか、
Mさん以上にどうにもならないアホさ加減であった。

そのことを繰り返す訳にはいかない。となれば、
これからも三陸の沿岸地域の経済基盤は基本的には漁業としても、
やはり職住分離を原則とするまちの形を作らなくては、と思う。
沿岸市町村の再建は高地移転を大原則とする。
かつ、再建する漁業施設は「選択と集中」の原則により、
再建する場所と規模については、相当真剣な議論が必要となろう。
しかも、再建のためのイニシアルコストは復興債などの形で賄うとしても
(復興目的税よりも復興宝くじのほうが、よほど気が利いている。)
ランニングコストは復興かなった自治体が負担せざるを得ず、
そのためには、大を持って良しではなく、身の丈であること、
さらに消費地を見据えての産業育成(産業の再構築)が必要であろう。

これから先、何百か所と出てくるであろう復興まちづくり。
それを仕掛けられる人材を復興院に集めることができるか。
また、復興院と二人三脚で具体的な現場で活動をしていく人材の確保。
日本社会全体にとって、大きな課題がつきつけられた訳である。

復興院か復興庁か、名前はともかく、
基本的には時限組織であろうが、ともかく、1000名規模の組織を、
立ち上げることが求められる。その、東北地方の復旧復興に携わり、
新たなるまちづくりまちおこしの経験を持つものを、
日本社会が人材として持っておくこと。これが、
次に来る東海・東南海・南海地震への備えを考える上で、
大きな力となることは間違いない。

最大の課題は、それだけのスケール感を持つ絵を描けるかどうか、
その点にあるように思う。
他の人が描けなければ、浅学菲才を顧みず、不完全でも己が描け!
ということになるのだろうか……。



                            (3月27日アップ)

U君からのメール

2011-03-26 09:16:22 | 東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)
日本時間 2011年3月26日(土) 09:15
中米時間 2011年3月25日(金) 18:15

卒業生のU君からメールが届く。南相馬市の現場に入ることになった、と。
ゼミ生ではなかったが、中学生向け出前講座などのいろいろな活動に、
大変熱心に取り組んでいた学生。
念願かなって消防士となり、今に至る。

緊急消防援助隊の一員としての派遣とのこと。
教え子が、緊消隊の一員として現場に行くようになるとは、
時の経つのは速いもの。

すでに、昨春に本学を卒業したゼミ生K君が、
東京消防庁からの派遣で現地入りしている。
U君にはK君と連絡を取るようにすすめ、
その後のメールによれば、すでに連絡はとれたとのこと。

消防の世界は、決して楽ではないが、
生涯をかけるに値する仕事であると心から思うし、
また、そのような思いで必死にがんばっている仲間達がいる。

機会があれば、大学に来て話をしてくれると言う。
消防や防災に進む後輩たちの道を照らすことができれば、と。
嬉しいことを言ってくれるではないか。

辛かったら辛いと言っていい。消防人だって人の子。
「旅の坊主」が帰国したら、一緒に飲もうね、U君、K君。


                      (リアルタイムにてアップ)

ニカラグア・レオン市でのフォーラムを振り返って

2011-03-26 09:07:55 | 中米防災協力(プロジェクトBOSAI)
日本時間 2011年3月26日(土) 09:05
中米時間 2011年3月25日(金) 18:05

しばらくの間、もっぱら日本のこと、
東北地方太平洋沖地震・津波のことばかり書いていた。
この間も、プロジェクトBOSAIの活動は続いている。
いわば、昼の活動と夜の活動。

日本と中米とは15時間の時差があり、
中米の仕事を終えると、日本の仕事が始まる時間になる。
昼の活動後の6時間くらいは、日本との(メールでの)
やりとりに使える、という感じ。

プロジェクトBOSAIは、中米6か国で展開中のコミュニティBOSAI活動だが、
プロジェクトが展開されている自治体の関係者に集まってもらって自治体フォーラムが、
3月23日と24日の両日、ニカラグア・レオン市のラス・ペニータス海岸で行われた。
プロジェクト本隊は前泊後泊、Kさんは月曜日からの乗り込み。

この種の国際会議やフォーラムとなると、どうしても中央政府の役人が多くなるが、
このフォーラムは、主催地ニカラグアの人はともかく、それ以外の5か国は、
現場の人に集まってもらってのもの。レオン市からは、プロジェクトの対象となる
3コミュニティの人にも加わってもらってのフォーラムであった。

それにしても、行き返りにそれぞれ7~8時間というのは、
広域活動ゆえ仕方がないのだが、それでもやはり遠い。

火曜日の朝5時半にサンサルバドルを出発、途中、2つの国境を抜け、
ニカラグアのレオンへ。今日金曜日はその逆で、当地でみなを見送った
後の9時過ぎに現地を出発、自宅に戻ったのは17時半過ぎだった。

それはさておき。

見知った顔が多いというのが、何よりであった。
それぞれの地域の活動を持ち寄り、また、活動の持続可能性について、
ワークショップ形式で議論を行う、というもの。
議論が甘いなぁ、という感は否めないが、むしろこのフォーラム自体が、
みんなで和気あいあいに、という点に重きを置いたようなもの。
その、温かさが心地よいものであった。

ラス・ペニータスの海岸では、ライフセイバーのボランティアが、
溺者救出のデモもやってくれた。
BOSAIと何の関係があるか、なんて野暮は聞かないように。
彼らはがんばってデモをしてくれたのだから。

「旅の坊主」としては、何か具体的な活動をした訳ではない。
3人いる専門家の一人として、いわば座っているのが仕事のようなもの。
本来ならば、参加者が懇親のためにカラオケやディスコに行ったりする際、
お財布役をしなくてはならないのだろうが、今回は事情が事情ゆえ、
勘弁してもらった。心苦しいところはあるが、そこは許してくれるだろう。

昼の活動と夜の活動、けじめはつけないと。
というので、日本での救援活動の仕込みに関するものは、仕事前と仕事後、
休憩時間以外にはやらないと決める。メールに目を通すくらいは許して
もらっているが、ともかく、じりじりしながらではあるが、
それはそれ、これはこれ。昼の活動に支障がでないよう、
睡眠時間のマネジメントだけはしっかりしなくては、というところ。


                      (リアルタイムにてアップ)