山吹はあやななさきそ花みんと
うえけんきみがこよひこなくに
よみ人しらず
古今集 2-123
山吹の花は咲いたのに、(一緒に)楽しみましょううねって、この花を植えた人は今宵も来やしない。
宵待ち草の古今集版ですか。
寂しいですね~
まあ、必要ないと思いますけど、「あやな」は無駄に、とか無意味にとかという意味ですよね。
ちなみに
「見ずもあらず 見もせぬ人の 恋しくは あやなく今日や ながめくらさむ」
在原業平 古今集 11-476
この詩の前に、業平は通りすがりの車の車窓からふっと見えたあなたの顔が忘れられなくって、、、、、、って書いています。
そしてこの詩は、「見えたか、見えないかも分からないような、あなたが恋しくって、訳もわからないままにこがれています」って恋の歌。
「知る知らぬ なにかあやなく わきて言はむ 思ひのみこそ しるべなりけれ」
よみ人知らず 古今集 11-477
知ろうが、知るまいが、そんなことを悩むのは無駄なこと。恋しいという思いがあるのならば、それがナビをしてくれるでしょう、、、、
ビンゴ! って、業平ちゃんは、相手に思いが伝わっちゃったんですね。
私だっていつも車を運転しながら、通りすがりの女性を見て、綺麗って騒いでいるんだけど、未だに成就したことがない。業平ちゃんはよほどイケメンだったんでしょうね、、、、(って噂は今の世まで残っていますけど)
というのは置いといて、業平の詩の「あやなく今日や」のあやなくは無意味に、無駄にの意味でしょう?
その返しの、「なにかあやなく」もそんなことは無駄なことって意味ですから、もうお分かりになりましたよね。
もしかして、現代でも使いませんでしょうか?
例えば、あなたが私に恋焦がれるのはあやなこと。私は木花咲耶姫にぞっこんで、他の女性は目に入らないの。ごめんね。。。。
なんて、、、、(一度でいいから、言って見たいな~)
ところで、本題に戻りまして、山吹の花。
日陰で咲いているのは緑の葉に映って柔らかくたおやかな感じですけど、さんさんとふるに日光の下では力強く、輝いて見えますね。
実がないのかどうか、はて、山吹の実は私も見たことがないですけど。
でもきっとあるんでしょうね。
待ってれば、実を結ぶ?
そうあれかし、、、、
アーメン
山振之 立儀足 山清水
酌尓雖行 道之白鳴
「山吹の 立ちよそひたる 山清水 汲みに行かめど 道の知らなく」
山吹というとこの歌を思い出します。
高市皇子が十市皇女が突然亡くなられ葬送の際に贈った3首の挽歌の内の1首です。
井上靖の額田女王も思い出します。
そういえば、千葉・夷隅の地は十市皇女と関わりがあるんですね。
彼女を歌った歌はある。
父も母も万葉集きっての歌人。
なのに彼女が作ったという歌は一首も残されていません。近江側だったからという説もありますが果たしてどうだったのでしょうか。
山吹の鮮やかな黄色い花を見るたびに高市皇子の歌は尚一層彼女を失った者達の哀しみと心の痛みを感じるのです。
できうれば、ハンドルだけでも教えていただければ、、、、
もしブログでも開設されていれば是非教えてください。
夷隅と彼女とのかかわりに関しては、いろいろ問題もありそうですけど、でも大多喜、岩熊、そして木更津にも彼女のゆかりの場所というのがあると、むしろこちらのほうが正しいのかなとは思っています。
恥ずかしながら、そのどこにも行ったことがないのですけど。
申し訳ありません。
高市皇子の残した挽歌3首、読み方もまだ定まっていないようですし万葉集の中でも解釈もいろいろあるようです。
「謎」の部分があると何がしか人をひきつけるものがあります。
東国まで逃れてそこで亡くなったというお話は今回検索してわかりました。
彼女の立場からするとそういうお話、あっても不思議はないな、と思います。十市皇女。本当にどんな方でどんな人生をすごされたのでしょうね。
十市皇女の埋葬の場所も、なぞなのですよね。奈良には比売塚(最近神社が建てられたそうですね)もその一つ。
でも、大和朝廷の東征、、、万葉集にもたくさん詩が残されています。
私の好きな詩の一つ、「火中に立ちて問ひし君はも、、、」も相模でしたね。
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