昨日の「明と暗 もっと光を」という日記にコメントを頂きました。
>秋は美しいスポットが沢山でカメラマン魂が踊るという感じが更にされるのではないでしょうか?
それに対して、こんな風にお答えしています。
>そうですね、、、秋はすばらしい。
でも、冬枯れの風景もまた、好きだし、、、
春の新緑や、花で飾られた浮き立つような景色もいいもの、、、
もちろん、濃い緑の夏の一日、、、青空に入道雲なんてまたまた捨てがたい。
なんて、私は多情多恨なのでしょうね~
でも、ビルの谷間の空き地や河原や、公園、家の間の隙間にさえ、綺麗なものがあるって喜んでいられる私は文字通りの「能天気」なのでしょうけど、幸福です。
多摩川の堤に腰を下ろして、ふと周りを見ると、いろんなすばらしい物が見えてきます。どこにでもある雑草、虫、鳥にしか過ぎませんけど、どうしてこれほど美しいのだろうと感動すら覚えます。あぁ、雑草って言葉は使わないほうがいいのでしょうか? 植物のご専門だった昭和天皇はこの言葉をお気に召さなかったようですね。雑草と呼ばれるものだって命あるもの、単に人間の役に立たないというだけで「雑」に扱われているだけなのですから。
確かに、その色や形に心を奪われます。でも美しいはずの温室育ちの花々よりも、同じ園芸種でも実生で空き地や、野原、畦に咲いているほうがもっと美しいと感じることが多いのです。
なぜそんなに心を惹かれるのかと考えると、もしかしたらそのなかにある命の美しさ、尊さに心を惹かれているのかもしれませんね。
紀貫之は古今集の仮名序にこう書いています。
やまと歌は人の心を種としてよろづの言の葉とぞなれりける
世の中にある人ことわざ繁きものなれば 心に思ふことを見るもの聞くものにつけて言ひ出せるものなり
花に鳴く鴬うぐひす 水にすむ蛙の声を聞けば 生きとし生けるものいづれか歌をよまざりける
力をも入れずして天地を動かし 目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ 男女の中をもやはらげ 猛きもののふの心をも慰むるは歌なり
残念ながら私には詩を作る才能はありません。絵や彫刻を作る才能も、ダンスや音楽の天分もない。私にやれることといえば、その美しさ、尊さに打たれる心を大切にすることだけ。
でも、私は、素直に美しいものを美しいと感激できる自分が幸だと感じています。
こちらに上げた写真は、昨日の散歩の写真の残りです。
本当はあまりにもありふれたもので、以前にも何度か取り上げたことがあると、お蔵にしようと思っていたのですけど、つい、今日頂いたコメントのお返事をこちらに書くということで、蔵から出してまいりました。
ついでにまたまた、蛇の足です。
先日アップしたナンキンハゼの実はまだ黒い皮をかぶっていました。
昨日の散歩ではそれが落ちて白い核が出てきています。
今日のレスでそのことを書いていましたので、、、
同じものを見ても聞いても、つまり同じ環境にいても物事や事象の「感じ方」は人によって様々。多分、心を限りなく「無」に出来る人は、そうでない人に比べて感受性が研ぎ澄まされるというか、より多くのモノが見え、たくさんの音が聞こえるのでしょう。
でも、よくいうじゃありませんか、あの人はおめでたいって。
私は自分がおめでたいことを喜んでいるので、、
紅葉も、枯れ葉も、綿毛もあるがままの姿を無防備にさらけ出して見せてくれる・・・なんて素晴らしいのでしょう。
そして、白い実も次の世代に引き継ぐ事をきちんと自分の役目と心得ているんですね。
でも、これを撮られている方の感性も素晴らしいとおもいます。
目を惹きつけられますね、、、何だかほっとする写真ですから。
まだお蔵に隠し持っている物がおありでしょう
遠慮しないで出してくださいね。
探してありましたら、お望みならば、時期なので、お歳暮にでも、、、
野ねずみの糞なんか、こちらにもはいて捨てるほどありますわ
こちらからもお送りさせていただきます
フンコロガシに頼んでね
マイケル ジョーダンですよね。
彼がフンコロガシと関係があったなんて!
ロシアマフィアと関係があるっていうならまだ分かりもしますけど、、、
でもそんな素振りは全く感じさせず逞しく微笑えんでいるようです。
今までどの位生きる勇気を与えて貰ったか分かりません。
残されている自然を大切に見守って行きたいですね。
人間にとってだけの功罪でそんなものを根絶していいのかって、人間の不遜さに気がつかされるときも多いですね。