先日の白鳥の湖で才能のある子が道半ばでドロップアウトして行く、それを見ている側の辛さにちょっとばかし触れていましたけど、その白鳥の湖を書いていたころ、テレビでは愛と喝采の日々が放送されていたんですね。時間がなくって録画をして、今日しみじみと見ましたよ。
「愛と喝采の日々」あの白鳥の湖を見に行っていた知人がアメリカでこれが映画館にかかっていたころ見たのだそうです。「まだ、英語が十分でないころで、友人が傍で説明してくれたけど、よく分からなかった」そうです。
もどかしいですよね~
私も、時間が余ったからって、朝一の映画館に入ったら、英語、フランス語、イタリア語、そしてちょっとばかしドイツ語まで飛び交う映画で、まったくのキャプションなしってのを見たことがありますけど、画面はおもしろげで椅子を立ちたくないけど、でも何を言っているのか分からん、、、、
他の観客たちはげらげら笑っているのに、
日本人っていかに井の中の蛙かって、しみじみ感じましたよ。
もっとも知人の言われる「よく分からない」ってのは私のとは別で、映画の中に幾つか分からないことがあったってことでしょうし、私のは、前編で一つか二つ分かる単語が出てきたってレベルなんですけど。
なんてことは別にして、エトワールの座を争っていたライバル同士。一人は愛に目覚めて、結婚し、田舎町に引っ越して、三人の子供の母親として暮らしている。ライバルはエトワールとしての名声をほしいままにしている。
そのバレエ団が彼女の町に公演に来て、そこで話が展開して行くんですけど、その最初の会話が、主婦の彼女の言う「あなた、今の生活で幸福なの」ってセリフ。
才能ある人が、チャンスに恵まれ、輝いてきた人に対する言葉なんですね。
互いに違う道に入っていたらどうなっただろうと言う後悔の念を持ち始めた年齢なんですね。
この映画は二人が取れなかった牡丹餅を相手のせいにして取っ組み合いの喧嘩をして、そして二人して互いを理解し、大笑いをすることで終わっているんですけど。
キリスト教的には、才能、タレントっていうのは、神の恵みなのですからそれを十分に生かしきれなければいけないもの(なんて、宗教に疎い私が言うセリフじゃありませんけど)。
でも、才能のある子がそれを無にしようとしている時に、才能を生かしきれって強要する権利は誰にもない。才能を伸ばすことはある意味とても辛い人生を選ばせることだし、小市民的な満足で一生を豊かに過ごす権利だってみんなにあるんですからね。
でも、無芸大食以外にはなんの取り柄もない風車としては、あたら豊かな才能を無駄にしている人を見ると歯ぎしりする思いがあるんだけど、しかたないのでしょうね。
ところで、ちょっと違うけど、同じような設定で始まった日本のバレエを題材にしたテレビドラマがありましたな。これを演じた女優さんもバレエをやった人だけど、それ以上にその女優さんに「おまえのバレエはモスラの踊り」なんてセリフを投げていた、その夫役をやられた方も噂ではバレエをやられていたんだって。
愛と喝采の日々の原題はTurning Pointだったんです。
人生、一刻一刻、さまざまな岐路があって、風が吹いただけで桶屋にビルが建つ。
そんなもんなんでしょうな~
蛇の足
カメラのせいもあるかもしれないけど、ABTのダンサーのバレエはやはり素晴らしいですな。
世界のオケからトップを引っこ抜いて作られたシンフォニー・オブ・ジ・エア。
その金で操る引っこ抜きには批判が沸騰していましたけど、当時の国力から見ると、アメリカ的にはそれほどのお金をつけた覚えはなかったんでしょうね。
でも、おかげでアメリカの音楽は素晴らしくよくなった。
日本の文化も、素晴らしい人材を輩出している途上国から優れた音楽家、ダンサー、そしてもろもろを連れてきて競争させればもっと発展するのじゃないでしょうか。
なんて、井の中でのんびりしていたら、いつまでも日本は良くならないかも。
なんて、私はあくまで文化の話をしているんですからね。
蛇の足の二つ目
それにしても、昔の写真ですけど、チビ太のピルエット、素晴らしいじゃありませんか。
なぜ、どこのバレエ団からもお呼びがかからないのか不思議。
才能はあってもチャンスに恵まれないってことも多すぎるのですよね。
つい最近も日本の高校生がローザンヌで最優秀賞の快挙を成し遂げましたよね。日本のバレエも外国と比べて遜色ないレベルに行ってるのですが、一般的には「舶来モノ」或いは「お嬢様の習い事」の粋を出ないのでしょうか?
チビ太くん、すごいね。ワンちゃんのパフォーマンス大会があったら、ゴールドメダル間違いなしだよ。あっそうか、賞品は食べられないメダルなんかより、松坂牛一年分が良いんだよね。
育って欲しいですね~
チビ太もどこかからお声がかかればいいのですけど、おいちゃんも松坂牛を死ぬまでには食べてみたいし。