夢幻泡影

「ゆめの世にかつもどろみて夢をまたかたるも夢よそれがまにまに」

どこまでも続く

2006年10月23日 23時14分57秒 | 芸術・文化
外国の作家と話をしていてよく聞く言葉に、「あっ、あれね。あれはもうマスターしちゃった」って言葉。日本の伝統的なことであっても、2,3ヶ月勉強したり、本を一冊勉強したりすると、「もうマスターしちゃった」ことになるのだろう。
まあ、特に現代アートなどでは、いつまでも「勉強中」では誰からも認めてもらえないし、自分が単に鳥羽口に着いただけなのを知っていても、それだけを一生やっていく気はないのだから、自分に必要なことさえわかれば、「もうマスターしました」でいいのだろう。

お茶のことを何も知らない作家が、何か極意みたいな言葉を聞きかじって、さあこの作品にはこれこれの、、、ってさもお茶の極意が示されているような言い方をする。お茶を一生の道としている人から見れば、薄っぺらい見方だろうし、作品だろうし、その作家自信が唾棄するような対象なんだろうけど、でも現実にはそれもありだろうとしか言いようがない。

学校で何かを勉強して修了証書を貰ってでてくる。私は何々を専攻しました。だからもうその勉強はいらない。
でも本当にその何々を自分の人生の目標にしている人にとってはとんでもない、やっと基礎ができただけでしょう、研究は一生続けても終わらないんですよっていいたいのだろうけど、、、

なぜこんなことを言うかというと、今日、お茶のグループを辞めましたって言う人がいた。その人にとっては、そのグループはあまりにも皮相、修了証書を貰えば全部わかると思っている人たちへ、そうじゃないってアドバイスする人がいないって悲嘆の口ぶりだった。

その人の気持ちは十分わかる。お茶が好きで、お茶を極めたいと思う人にはお茶は一生の道だろうけど、でもそうでない人たちもたくさんいる。教える立場の彼女は誰もが専門家になろうとするのではないし、ただお免状を目指し、(今どきそんなのは流行らないだろうけど)嫁入り道具や就職の一つが貰えればいいと思っている人がむしろ大勢だということ。だからその人たちとも旨くやっていけなければいけないし、そのなかからもしかしたら、本気で好きになっていく人も出てくるだろうから、それも注意深く見ていなければならないのかなってふと思った。